第2話 勧誘Ⅰ

 時間は移ろい、影が東に伸びる。何処からともなく吹く風は冷たく、火照った頬をさらった。帰り支度を済ませ全校生徒が各々帰路に着く中で、峰を含めた3人の所在は未だ校舎内にある。

「隊長、標的発見。奇襲をかけますか?」

 峰に視線を送る大江の表情はキリリとしている。本人は戦争映画のシリアスな場面を想定しているようだが、側から見ればそれは喜劇王チャップリンを思わせる映画のワンシーンに過ぎず、峰も困惑を隠せない。

「も、もう少し待とうよ。クラスのみんなもいるようだし」

「そうね。騒々しいと話しにくいものね」

 打てば響く返事の大江は、再び視線を教室内に移す。それを峰は、窓際の壁に凭れて眺めていた。

 艶やかな黒髪を垂らし、室内に入ることなく中を伺う様は、まさに物陰から意中の人を見る乙女のそれで、紛らわしい事この上ない。その側を大江の意を汲めば知人である彼ら彼女らが代わる代わる挨拶をしながら行き交う。そして、また話し掛けられた。色恋沙汰に目がない女子生徒から。

「あっ、大江さんじゃん。こんなところで何やってるの?」

「ちょっとね」

 耳に胼胝ができるほど聞かされた言葉。億劫な大江は、返答がおざなりになってしまう。それでもめげずに女子生徒が話しかけるのは、大江を知りたい一心なのだろう。

「えー、気になる⁉︎」

 声を弾ませ、大江の反対側を陣取った女子生徒は、目を凝らし室内を隈無く眺める。おおよその当たりを付けて窺い、ついに大江の視線と打つかった時、「もしかして、あの男子」と声を上げた。

 そこは一般的な教室の左後方である。具体的に言えば、2列目の後ろから2番目の席。

そこに国府田は座っていた。机に向き合い、クラスの面々が帰宅の途に着こうというのに只々ノートと睨めっこをしている。そんな彼を形容するのにふさわしい言葉を峰も大江も持ち合わせているが、決して口には出さなかった。3人挙ってここに来た時点で、国府田をバンドメンバーとして迎え入れようとしている事は明白で、そんな人物を蔑視するような発言は今後の士気にも関わってくる。

当然部外者でない限り、口にするわけがなかった。

「えっ⁉ ガリ勉じゃん……」

 どよめく廊下の中でも無慈悲に届く声。後半は喧騒に飲まれて聞き取れなかったが、前半は少なくとも大江、峰の耳にも届いていた。

一縷の配慮もないその言葉を、嘲笑しながら言い放つ女子生徒に、峰は軽蔑を禁じ得ない。それは至近距離の大江も同じようで、侮蔑の眼差しを向けていたが、彼女に至っては些か感情移入し過ぎているきらいはある。興醒めた女子生徒が、「じゃあ私、友達待たせてるから」と歩を進めてもしばらく、大江は彼女を睨み続けていた。

「大江さん」

峰が声を掛けても反応がワンテンポ遅れる。

「どうかしたの?」

 そう峰が問うても大江の返答は、「何でもないよ」とだけで埒が開かない。

「そっか。ならよかった」

 としか言いようがなかった。

 以後も大江への怒涛の挨拶ラッシュは続き、改めて大江という人物がこの学校でどのようなカーストにいるのかを知る。黒髪ロングで整った顔立ち、ブレザーを着崩しており、まさに校内のファッションリーダーと言えた。先程の無礼な女子生徒も容姿で言えば、美人の部類に入るがそれでも大江には劣る。友人の一人や二人、黙っていても出来そうなものだが上位者には上位者の苦悩があるのかもしれない。 

平均値である峰には到底理解が及ぶはずがなかった。それで言えば、今はどうだ。終始隣でオドオドしている人物が小動物に見えて心底癒されている。そしてまた、廊下の向こうで誰かが上げた奇声にビクつくのを見て、峰は思わず口にしてしまった。

「ありがとう。新見さん」

「えっ」

 要領を得ない新見は目を泳がせ、理解に努めるが答えは見つからない様子。だから、「何のありがとうですか?」という問いはじつに的を得ている。しかし、一方の峰はと言えば、峰が自己完結をしてくれるものと高を括っていたせいで返しを用意しておらず、暫し考える素振りを見せた挙げ句、会話を飛躍させてしまうのだった。

「大江さんって校内で人気者でしょ?」

「ええ、まあ。学校一の美人と言われていますが……」

 質問を質問で返され、新見は怪訝な表情を浮かべている。

「だと思った。だからさ。二人だと身がもたなかったんだよね。昼休み校内を一緒に回って、大抵の人に声掛けられるし。幾らかでも注目を分散できそうじゃん」

「そ、そんな理由ですか」

 不服そうな新見はさり気なく眉を寄せた。それを見逃さなかった峰。つぶさに弁明する。

「もちろん、それだけじゃないよ。前提としてバンドメンバーに加わってくれたってのもあるから。怒らないで」

「いえいえ、怒るだなんて。もしかして、顔に出てましたか?」

「少しね」

 峰は親指と人差し指で、その程度を示した。ともすれば、新見は肩を落とし表情が曇ってしまう。

「本当にすみません。私なんかが人様に怒りを顕にするなんて、身の程を知れって感じですよね。私という人間は根暗だし、友達いないし、それでいて感情が直ぐに顔に出るし。親によく言われるのにこれだから、ホントに嫌になります」

 峰もここまで卑屈な人間を知らない。どう返答しようかと思考を巡らす中、脳裏を一つの疑問が過ぎる。

「ならどうして、名乗り出てくれたの? バンド活動なんて悪目立ちしてもおかしくないのに」

「それは峰さんのせいです。あの時、私の背中を押すような事を言うから、いてもたってもいられなかったんです」

「せいだなんて人聞きが悪いな」

 そう言いつつも、満更でもない峰の口元は綻んでいる。見切り発車で放たれた言葉であったが、自身の言葉が他人に影響を与えたことにこれほどない喜びを感じていた。

「気分を悪くしたなら謝ります。でも、峰さんの言葉がひどく私の胸をざわつかせました。『出来る出来ないで語らないで、やるかやらないかで語ってよ。私たちまだ高校生なんだよ』なんて、滅多に言えませんよ」

「やめてよ。復唱だなんて」

 完全に有頂天の峰は、新見の肩を小突き、新見はよろめく。彼女が頬を綻ばせることで完成する乙女たちの逢瀬。窓から差す夕日も相まって、映画のワンシーンを思わせる画で、眺望に飽きが来ない。いつまでも見ていられる光景ではあるが、それを許さない者もいた。大江である。本人にその気はないようだが、好奇心の権化のような彼女であるから、歩みを止めることが出来なかったのだろう。

「隊長、標的孤立。どうされますか?」

「……と、突撃」

 一呼吸置いて、呟く峰。指す指の先には国府田がいた。「ヤー」という掛け声とともに、大江だけが猛進していく。それは廊下で控える峰にも優に聞こえる声で、当然国府田にも聞こえているはずなのだが、当人のリアクションは薄かった。

 途端に不安になる大江は、振り向くもそこには誰もおらず、峰たちは遥か後方。思い掛けず大江は、手招きするのだった。

 何してるの? と言いたげな表情を浮かべた大江に招かれるまま、峰は歩を進めるが、今になって緊張が募る。歩調がぎこちなくなるのも分かるが、理由は決してそれだけではなかった。背後に隠れる新見が、袖を掴んで歩きづらいことこの上ない。

 しかし、そんなことをお首にも出さず、峰は言うのだった。

「これはこれは国府田くん。昼休みぶりじゃん」

「何をいけしゃあしゃあと。ずっと外から見てたじゃないか」

 ノートに視線を落としたままの国府田は言った。一見すると、強気とも取れるその態度。しかし、実際はというと、手元を見れば一目瞭然だった。集中して机に齧り付いていたわりには、何やらノートが白い。それが意味するところは、国府田も一端の男子であるということだ。女子からの熱視線に気付かないわけがなかった。窓際に凭れる峰も、顔を覗かせる大江も、見切れる新見も、早期の段階で国府田は視界の端で捉えている。性格上、自発的に声を掛けることができず、まだかまだかと期待を膨らませる余り、手元がおざなりになってしまっていたのだ。

 その一斉を隠そうとしての強がりであった。

「それで何だよ? 勉強中なんだが」

「そ、それにしてはノートが白いです」

 室内が静寂だからこそ聞こえる声。峰の背後から漂ってきた言葉は鋭利ではないが、国府田の胸をしっかり刺した。ぐうの音も出ず、苦い表情の国府田は口を紡ぐ。そこに追い討ちを掛けるのが大江だった。

「あー、ホントだ。勉強で忙しいならノートにびっしりと書き込みがあるはずだよね。どうしてだろう」

 最早、煽りとしか思えない大江の大根芝居。仏も鬼の形相になりかねず、無論人間である国府田の眉間に皺が寄ること必至だった。

「廊下でジロジロ見られて集中できなかったんだよ。それで何だよ?」

「何だよって、昼休みのことに決まってるじゃん。同じ大学に合格すると言っても来年のことでしょ? 来年メンバーに加わってもらっても仕方ないんだよね。だからさ。明確な基準を設けてもらいたいな。じゃないと、休み時間の度にお話をしなきゃいけなくなる」

 それは脅迫であって懇願ではない。案の定、国府田からは不平の声が飛ぶ。

「峰さんもしつこいな。どうして俺なんだよ。この学校にはごまんと生徒はいるじゃないか」

「そんなの決まってるじゃん。運命だよ——」

 転校してから1ヶ月にも満たない歳月。勇気を振り絞ってクラスメイトにも声を掛けたが、聞く耳を持つ者は一人としておらず、かと言って隣のクラスにまで手を伸ばすバイタリティもない。彷徨った先が辺境の地・図書室であった。

 記憶を辿れば、図書室に訪れたのは勧誘目的ではなかったが、いざ入室すると、居たのが男女混合の5人の生徒。峰がバンドを組むのに求めていた人数だ。

 これを運命と言わずして何というか。

 峰の瞳にも力が籠る。

「よくも恥ずかしげもなく、そんな台詞が言えたもんだ」

 国府田は虚空を見つめ、終始ペンを回している。そして手元が狂い、ペンを落としたところで、「分かった」とだけ呟いた。

 机にある問題集を雑多に捲り、あるページを指す。

「休み時間毎に来られても困るからな。この問題が解けたなら、峰さんの言う通りにするよ。制限時間は明日の昼休みまで、3人で相談するのはありだけど、教師からの助言は無し。ちなみに、数Ⅱの問題だから解けないことはないから。どうする?」

「是非もなし。尋常に勝負」

 峰に考える余地などなく、問題集へと視線を落とした。


 第1問

 

a、bを実数とする。座標平面上の放物線y=2x+ax+bをCとおく。Cは、……。


(1) bをaで表せ。また……。

(2) i=1、2に対して、円Diを、……。


 問題集をのぞき込む峰、大江、新見は誰一人として言葉を発さない。峰が取り出したスマホのシャッター音だけが、こだまするのだった。

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