第10話 英梨

「諦めが早いのは君らしくないな」

 どこからともなく聞こえた声は、まるで千早を包み込むように暖かかった。

 そして、千早の周囲にあった毒々しい球体は跡形もなく消えてしまった。

「え、英梨先生」

 千早が目を開けたそこに存在したのは殲女にて教鞭をとる英梨の姿であった。

 艶やかな唇。

 芯の通った背筋。

 そして、声の低さとその落ち着きに似合わない身長とお胸様。

 そう、英梨はロリであった。

 しかしそんなロリ的な体形をモノともしない強者の雰囲気で彼女は一目置かれていた。

 ロリであるにも関わらず。

「じゃ、邪魔されるのであればいくら英梨先生でも……ひっ」

 涼音の前髪が一ミリその長さを失う。

 彼女にとっての一ミリはその臆病をカバーするのに必要な一ミリ。

 京華のプレッシャーを前に逃げなかった彼女は、その一ミリを失ったことで即時退散を余儀なくされてしまった。

「英梨姉、ありがと」

 去り行く後輩の背中を見ながら千早は英梨に感謝を伝える。

「なに、友人の弟のためだ。何も礼を言われることはない」

 英梨は千早の頭を撫でる。

 そう、英梨は千早の姉の友人であった。

 姉と英梨は幼い頃からの付き合いがあり、必然的に千早と英梨も親しく遊ぶ中であった。

 ただ最近は英梨が社会人になったということもあり、遊ぶことはほとんどなくなってしまっていた。

「して、はや。どうしてこのような状況になったのかは置いておいて、元に戻る方法を少しは思い付きそうかい?」

「いえ、それが全然」

「そうか、まあ短時間で解決できる問題でもないようでしね。だからこそ、よかったよ」

「へい?」

 千早は頭に乗る英梨の手に力が入っていったのがわかった。

「実はね、私ははや、君のことが好きなんだよ」

 唐突な告白に千早は固まる。

「ああ、誤解しないでくれ。単に弟的な感じで好きとかそんな不純な感じではない。異性として性的な魅力を存分に兼ね備えた君が好きなんだ。そのことについ最近、君とあまり会えなくなってしまってから気づいてね。どうやら私は気づかぬうちに君に恋をしてしまっていたらしい。だからこそ、この想いを君に伝えなければと考えていたんだ」

 まっすぐな瞳に捕らえられた千早は動けない。

 そう、英梨の性格は『真面目』である。

 そうであるがゆえに自身の思いはしっかりと相手に伝えなければ失礼だと信じ切っている。

 真面目であるがゆえに自身にも相手にも嘘をつけないのである。

「しかしな一方で、君を好きになるということは、最終的に君と付き合ったりそういう行為もするということになる。それは私個人としては一向に構わないしむしろそういう行為もしたいのだが、法律にどうしても触れてしまう。私としてはそれがどうにもこうにもどうにもならなくてね。どうにもこうにもならないというのは、その法的な理解・縛りと私の感情のバランスがまったくとれなくなっているんだ」

 矢継ぎ早に繰り出される自己解釈に、千早は口をはさむ余地もなくただ黙って耳を傾けることしかできなかった。

「つまりまとめるとだな、法を破ってまでそういう行為を君とするということを想像すると異様に高ぶってしまうんだ」

 千早の目の前にいる英梨。

 その英梨の顔はこれまで千早の見たことのない危うさを醸し出していた。

 その雰囲気に千早の喉と心臓はきゅっと締まる。

 そう、英梨は真面目である。

 真面目過ぎるがゆえに模範的な教師であり、模範的な市民であり、模範的なヒーローであった。

 しかしそうであるがゆえに、初めて自身の中で芽生えた禁断の果実の存在に完全に魅入られてしまっていた。

「だから君が怪獣になったことは好都合だった」

「ど、どう好都合……」

「怪獣になった君をここで倒したことにすれば、君という存在は社会的にこの世からなくなるだろう? そうすれば私は君を合法的に監禁し、合法的に君との関係を楽しむことができる。私はこれからも『真面目』でいることができるし、怪獣になってしまった君も世間からの視線を気にすることなく私との甘い恋人関係だけを存分に享受することができる。だから君が怪獣になって本当によかったと思っているんだ」

 英梨の現実に向いているはずの目が現実を見ていない。

 合法的って言葉はだいたい違法。

 なんだよそのザル理論。

 そう千早はツッコミたかったが、既に彼の声など耳に届かなさそうなほどに興奮した様子の彼女を見てツッコミも喉奥に引っ込んでしまった。

「さあ、私と一緒に行こう。存分に欲を満たそう」

 英梨の周囲に静かに風が巻き起こる。

 彼女の能力は『スライサー理性と本能の分断』である。

 周囲に存在する空気を極限まで圧縮し、切れ味抜群の視認不可の刃に変える能力。

 常に理性的であった彼女は多くの本能を切り離すことで生きてきた。

 そんな彼女に相応しい能力である。

 と、千早は思っていた。

 ついさっきまでは。

 風が徐々に英梨の周囲でその圧を増していく。

「ま、待ってよ。待って」

「君はイキそうになったときもそういうのかな。今から楽しみで仕方ないよ」

 聞き耳持たず。

 もう無理だ。

 千早はそう思うと同時にこれまでの流れなら誰か助けてくれるはずという期待を抱いた。

 しかし、そんな期待も虚しく英梨の攻撃は容赦なく千早を襲う。

 寸でのところでその攻撃を避けるが追撃が間髪入れずに襲ってくる。

「英梨姉、やめてくれええええええええええええええええええええええええええええ!」

 叫びながら逃走する千早。

 しかし、そんな千早にさらなる不幸が襲う。

 腹の奥底から出された声はどうやら奴らに届いてしまったらしい。

「千早、ここにいたのね。私のために死になさい」

「千早君、食べさせてよ」

「ちはくん、あなたを壊させて」

「千早くん、一緒に死のう」

「千早っち、私は覚悟決め続けてるよ」

「千早先輩、初恋を綺麗に終わらせたいの」

「ちーくん、はやく殺されてえや」

「せ、先輩、怖いので倒させてください」

「はや、私と一緒に禁断の時間を過ごそう」

 それまで千早を襲ってきた友人全員が勢ぞろいしてしまったのである。

 ベストナインである。

 野球チームである。

 去年までだったらきっと工藤監督が率いている。

 全員美女。

 全員達人。

 逃げる千早。

 容赦なく追ってくる彼女たち。

 減っていく体力。

 勢いを増していく後方からの攻撃。

「ほんとに勘弁してくれ!」

 千早はあらん限りの体力と気力を振り絞り逃げ続けた。

 逃げて逃げて続けて数時間後。

 いよいよ力尽きた千早は校内の隅で九人の女性に囲まれてしまった。

 皆が皆、千早を欲しており、今にも暴発しそうである。

 いや、暴発し続けてはいるのだが、さらなる高みへと上り詰めそうな緊張感が漂っている。

「いや、ほんとに、ねえ。なんでこうなんたんだろうね」

 汗も気力も絞りつくした千早から出てくるのは意味をなさない言葉の羅列。

 ああ、もうだめだ。

 そう思い目をつむった千早。

 しかし、そんな彼にいつまでも攻撃が届くことはなかった。

 恐る恐る目を開けてみると、そこには釈然としない表情を浮かべる九人の少女がいた。

「千早、あなた人間に戻ってるわよ」

 口を開いたのは瑠々。九人の中でも特に不満げに大きく頬を膨らませながら吐き捨てる。

 そのセリフに促されるように視線を自身に向けた千早の視界に映りこんだのはいつもの自身の姿であった。

「え? あ、あ、ほんとだ! 人間じゃん。戻ってる!」

 空に向けてガッツポーズをする千早。

「ねえ、千早。怪獣にまたなる可能性もあるわよね?」

 瑠々の一言に、残り八人の目には別の光が宿り始める。

「は?」 

 次の瞬間、ベストナインは今後は千早の【将来性】を見越しての綱引き合戦を始めた。

 そう、文字通り千早の体で。

「いや、なんでそうなるんだよ! 痛い痛い痛い痛い!」

 千早は力を振り絞り、再び逃げ出した。

 今後は人間の体なので先ほどよりも速力と俊敏性が上がっている分、あっという間に追手を引き離すことができた。

 そして一時間後、あえて遠回りをしながら家に戻った千早。

「ぐふっ。はあはあ……。なんとか家に着いた」

 息も絶え絶えの中、千早は愛しの我が家の扉を開けた。

「「「「「「「「おかえりなさい」」」」」」」」」

 そこにいたのは先ほど振り返ったはずのベストナイン。

 そして、その後ろでごめんねって顔で手を合わせる父と姉の姿。

「あーははは……」

 千早は九人に引っ張られながら今日一日を振り返ってみて思った。

 そういえばなんでみんな俺が俺だってわかったんだろう、と。

 しかし、彼の疑問に答えを用意してくれるものもおらずただただ天にきらめく天の川へと不法投棄されてしまった。

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