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*****


 ジル様の浮気調査を始めて数日。とうとう浮気の証拠を摑む時が来た。

 放課後、ジル様はコーデリア様から授業で作ったというしゅうのハンカチを差し出された。

「午後の授業で刺繡をしたんです。よろしければもらっていただけないかと思って」

 細いうでの先をスカートの後ろに隠して、もじもじと体を揺らしながら頰を染めるコーデリア様の姿に、わたくしは背筋の冷えるような感覚をいだいた。

 自身が刺繡した小物をおくるということは、相手を大切な人と思っていると暗に伝えているようなものだ。婚約者のいる男性に刺繡のハンカチを贈るという神経が信じられない。ジル様だって女性が刺繡のハンカチを男性に贈ることの意味はわかっているはず。

 これは立派な浮気現場といえるだろう。

 ようやくめぐってきた機会にドキドキしながら見守っていると、ジル様はわたくしの予想に反してていねいに頭を下げて受け取りをこばんだ。


「すみません、コーデリア嬢。申し訳ないのですが、受け取れません」

(え!? 受け取りませんの!?)


 てっきりとして受け取るのだと思っていたから、ジル様の反応に驚いた。断られたのが気にくわなかったのか、コーデリア様の顔がわずかにゆがむ。


「……それは、婚約者がいらっしゃるからですか?」

「ええ」

「それは存じてますわ。でも、私……上手くできたから、ずっとあこがれていたジルベルト様に使っていただきたくて……」


 コーデリア様の目がみるみるなみだうるんできて、それを見たジル様が「うっ」と狼狽うろたえる。ジル様は彼女の涙にさそわれるように手をばしかけて、ぎゅっとこぶしを握りしめた。


「すみません。それでも、僕はアリーシャを裏切るようなことはしたくないので────ああ、泣かないでください!」

「せめて見ていただくだけでもだめですか?」

「ええと……見るだけでよければ……」


 ジル様の返事に、今にも泣きだしそうだったコーデリア様の顔がぱぁっと明るくなる。彼女は折りたたまれていたハンカチを開いて、もっと近くで見てくださいとジル様に体を近づけた。

 赤やピンクの小さな花が左下と右上にれいに刺繡されていたハンカチは、本人が上手にできたと言うだけあってかなりの力作だった。


「綺麗な花ですね。これは何という花なんですか?」

「アネモネです」


 花の名前を聞かれたコーデリア様がはにかむようにほほんだ。

 アネモネ。花言葉は確か【あなたを愛する】とか【はかないこい】とかだった気がする。

 そういえば、思い出してきましたわ。

 確かこの授業、花言葉を調べてその花を刺繡したハンカチを誰かにプレゼントするというしゅのものでしたっけ。プレゼントする相手は親でも兄弟でも好きな人でもいいというので、わたくしはジル様にお贈りしようと花言葉を調べてナズナとブルースターの花を刺繡したのでした。

 ジル様が花言葉まで知っているかはわからないけれど、婚約者のいる相手に【愛してます】という花言葉の花を刺繡したハンカチを贈ろうとするなんて正気のとは思えなかった。

 あまりのことにぜんとしていると、ふとコーデリア様のかたしにこちらを見ているアリーシャの姿に気がついた。

 その不安げな表情に、この時のことを思い出した。

 帰りにハンカチをおわたししようと思っていたわたくしは、ジル様がコーデリア様からハンカチをもらっているのを見てすっかり渡す気をなくしてしまいましたのよね。楽しそうにお話しする二人を見ているのがつらくなって、教室をそっと抜け出して、中庭で一人泣きましたっけ。今でもとても悲しかったのをよく覚えている。

 ────でも、本当は違った。

 ジル様はちゃんと婚約者であるわたくしのことを優先してくれて、きっぱり受け取れないと断ってくれていた。

 時をえて知った真実は、わたくしが思っていたものとは全く違うものだった。


 コーデリア様の長いまんばなしが終わるころには、教室からアリーシャがいなくなっていた。


「アリーシャ……?」


 ジル様が小さく呟きをもらし、教室内をぐるりと見渡す。目線の動きからアリーシャをさがしているのがわかった。

 わたくしはアリーシャの場所を教えようと口を開きかけ、きゅっと口を結んだ。

 かつてのわたくしがそうだったように、おそらくいまごろは中庭で泣いているはずだ。きっと涙でぐちゃぐちゃになっているに違いない。泣きらした顔なんてジル様には見られたくないだろう。そう思ったから、わたくしはあえてアリーシャの居場所を教えなかった。

 ジル様は最後にもう一度アリーシャの席に目を向けると、そのまま教室を出て人けの少ないろうを走りだした。

 移動教室で使った教室、図書室、医務室、食堂。

 広い学園内を走り回るジル様を間近で見て、『どうして』と心の中で呟く。

 どうしてこんなにいっしょうけんめい捜してくださるの?


『もうとっくに帰ってしまったのではないですか?』


 教室とうと特別棟をつなぐ渡り廊下まで戻ってきたところでぽつりと話しかけてみる。

 アリーシャの机にかばんがかかっていなかったのをジル様も確認しているはず──もう帰ったと思われても仕方のない状況で、試すようなことを言っている自覚はあった。

 けれど、ジル様は「いいえ」ときっぱり首を横に振った。


「放課後、少し会えないかと言っていたんです。アリーシャが何も言わずに帰るなんてありえません」


 傾いた赤い太陽が誰もいなくなった廊下を照らして、足元のかげが大きく伸びる。

 まだ学園内のどこかにいると信じてくださっているジル様に心を打たれ、わたくしは今まで黙っていたアリーシャの居場所を伝えることにした。


『…………中庭です』

「中庭?」

『中庭の、池の近く……おそらくそこにいます』


 かつて、二人の仲を誤解したまま教室を出たわたくしが向かった場所がそこだった。

 どこでもいいから人のいないところへと足の向くままに歩き回ったせいで、どういう経路を辿たどったかまでは覚えていなかったけれど、ハンカチを池に落としてしまったことだけはせんめいに覚えていた。

 ジル様は理由も聞かずに廊下の手すりをえて中庭に降り立つと、池のある西側に向かってけ出した。

 あしの長いジル様は走るのも速くて、目的の場所にはあっという間にたどり着いた。

 きょろきょろとあたりを見回すジル様の視界が、風になびく銀の髪をとらえた。


「アリーシャ!」


 ジル様が駆け寄りながら声をかけると、木の幹に背中を預けるようにして座っていたアリーシャがびくりと体をふるわせた。けれど、声をかけられたアリーシャはこうちょくしてしまったかのように、こちらを振り返ろうとはしない。

 そうしているうちにジル様がアリーシャのもとにたどり着いてしまう。膝をついて正面からアリーシャの顔をのぞき込むと、案の定彼女の目は泣き腫らしたように赤くなっていた。


「アリーシャ、何かあったんですか!?」


 アリーシャの泣き顔を見たジル様が彼女の両肩を揺さぶった。違う、というようにアリーシャが頭を横に振る。


「では、誰かに何かされて!?」


 それも違うとアリーシャが頭を振って否定する。大きなひとみが潤んでポロリとおおつぶの涙があふれた。

 あわてたジル様がポケットからハンカチを取り出して差し出せば、アリーシャは潤んだ目をジル様に向けたままじっと見つめた。そのくちびるが小さく震えた。


「……ど、して……? コーデリア様とご一緒だったのでは……?」

「確かにコーデリア嬢とは話をしていましたけど、放課後はあなたと約束をしていたでしょう?」

「……だから、追いかけてきてくださいましたの?」


 消え入りそうな声で尋ねられ、ジル様は「ええ」と頷き返した。そうしていつまでっても受け取ってもらえないハンカチでアリーシャの涙のあとをそっとぬぐうと、どこかに視線を彷徨さまよわせてから彼女のとなりに腰を下ろした。


「見つけられてよかった……何があったんですか? 僕でよければ聞かせていただけませんか?」


 ジル様がやさしい声で問いかけ、気遣うようにアリーシャに目を向ける。その視線の先で、アリーシャはジル様の視線からのがれるように目をそらし、かすかに震える手でスカートのすそを握りしめた。


「…………」


 不安そうな彼女の表情からは、コーデリア様から贈られたハンカチのことを聞きたい、けどこわくて聞けない──そんなかっとうが見て取れた。自分のことだからか、彼女が何を考えているのか手に取るようにわかった。

 誤解なんだからさっさと確かめてしまえばいいのにと、目の前でもじもじする自分にもどかしくなってくる。


(ああ、もう! じれったいですわね!)


 ジル様にはしゃべらないでくださいと言われていたけれど、このままではらちが明かないと思って、ジル様に一言断ってから口を開いた。


『一言だけ言わせてください──アリーシャ、ジル……僕はコーデリア嬢のハンカチを受け取っていませんからね』

「っ!」


 なるべくジル様っぽく聞えるように伝えると、アリーシャは深い青色の目を大きく見開いて小さく息をのんだ。


「ほんと、に……? 本当にコーデリア様からもらっていませんの……?」


 その一言でジル様はアリーシャがなぜ泣いていたのか察してくれたらしい。わたくしの言葉をいで今度はジル様が答える。


「ええ。渡されましたけど、受け取りませんでしたから」

「どうして……?」

「どうしても何も。あなたという婚約者がいるのに受け取るわけがないでしょう?」


 ジル様はそう言うと、アリーシャから少し目をそらしてうなじのあたりをかいた。


「その……アリーシャは僕に……」

「え?」


 上手く聞き取れなくてアリーシャが聞き返すと、ジル様は意を決したように先ほどより大きな声でり返した。


「アリーシャは僕に作ってくれなかったんですか?」

「ふぇ!?」

「あなたも授業でハンカチに刺繡をしたのでしょう?」

「はい……あの、でも……わたくしの作ったものなんかで本当によろしいのでしょうか……?」


 鞄からオフホワイトのハンカチを取り出してもじもじするアリーシャに、ジル様はかんはつれずに答えた。


「ええ。あなたのがいいんです」


 その一言を聞いて、アリーシャはきょかれたような顔をしてから満面の笑みを浮かべた。シンプルな言葉はしっかり彼女の胸に届いたらしい。


(うんうん、誤解が解けてよかったよかった──って、全然よくありませんわ! ああ、なんてこと……裏切られるってわかっているのに、これ以上二人を仲良くさせてどうしますの!?)


 二人の楽しそうな会話を流し聞きつつ、わたくしはジル様の中で頭をかかえるのだった。


 帰りの馬車の中で、ジル様はアリーシャからもらったハンカチをきもせずにながめていた。ハンカチにいつけられた小さな青い花と白い花の刺繡はお世辞にも上手とは言えないえで、作った本人からすると、まじまじと見られると恥ずかしい。

 ジル様はわたくしのがほしいと言ってくれたけれど、いざもらったらこんな下手な刺繡でがっかりしているんじゃないかしら? と心配になって聞いてみる。


『そんなにそれがほしかったんですか?』


 とつぜん動いた口にびくりと体を震わせたジル様は、少しおくれてから口元に笑みを浮かべて「ええ」と頷いた。


『……コーデリア様のを断ってまで?』


 かく対象に出してしまったのは、どう見たってコーデリア様の刺繡のほうが出来が良かったからだ。


「どうしてコーデリア嬢が出てくるんですか」

『だって、どう見たってコーデリア様のほうがお上手だったではありませんか』

「たしかにコーデリア嬢の刺繡はお店で売っていてもそんしょくない出来でしたけど、上手い下手はこの際どうだっていいんですよ。アリーシャが僕のために作ってくれたってことが大事なんです」


 ジル様はそう言ってハンカチに刺繡された青い花をそっとなでると、ふと何かを思い出したように顔を上げた。


「そうだ、あなたにもお礼を言おうと思っていたんです。今日はありがとうございました」

『え?』

「アリーシャの居場所を教えてくれたでしょう?」

『べ、別にあなたのために教えたわけでは……』


 わたくしはただ誤解したままのアリーシャが可哀かわいそうだったから少し助言しただけ、そう自分に言い聞かせる。


(なによ。調子がくるうじゃない)


 いなくなったアリーシャを学園中捜し回ってくれたり、ハンカチをもらってうれしそうにしたり────これじゃあ、まるでジル様がアリーシャわたくしのことを好きみたいじゃないですか。

 そこまで考えてから、ふとある可能性に思い至った。

 もしかして、ジル様とコーデリア様はまだこいびと同士にはなってない……? それならジル様がコーデリア様よりも婚約者であるアリーシャを優先するのもつじつまが合う。

 本当のところどうなのかしらと聞いてみようかどうか迷っていると、「それにしても」とジル様が先に口を開いた。


「どうしてあなたはアリーシャが中庭にいるとわかったのですか?」

『それ、は……』


 わたくしは答えに詰まった。かつての自分がそうだったからとは言えるわけがない。どうにかして誤魔化さなければと言葉を探したわたくしは、『幽霊だけが使えるとくしゅ能力です』と苦しすぎる言い訳でその場をしのぎ、かんじんなことを聞きそびれてしまった。

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