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*****



 なにか大事なものを失った気がしますわ。

 ショックが大きすぎてまともに頭が働かない。放心したままお屋敷へと帰ってきたわたくしを待っていたのは、さらに追い打ちをかけるようなイベントだった。

 やや広めのダイニングで食事を終えたジル様は、お部屋に戻るなり明日の授業の予習を始めた。こんな時でも勉強をおろそかにしないジル様の神経はどうなっているのかしら。

 わたくしなんて、未だショックから立ち直れていないのに。

 放心したままジル様の勉強風景を眺めていると、不意にドアをノックする音が響いた。


「ジルベルト様、おの準備ができました」


 落ち着いたこわはチャーリーさんのものだった。

 ジル様は「わかりました」と開いていた教科書を閉じると部屋を出た。

 階段を下りて一階にあるだつじょに来たところで、わたくしはようやく自分がどこに向かっているのかに気がついた。


(お風呂!?)


 初めて足をみ入れるお部屋だけれど雰囲気で脱衣所だとわかる。ということは、あの奥に見えるとびらの向こうはお風呂ということになる。


『ああああのっ!』


 狼狽えた声で制止すると、ジル様は動きを止めて、言われるのがわかっていたかのようにため息をついた。


「あなたが言いたいことは予想がつきます。大方、裸を見たくないからお風呂に入らないでほしいとでも言うのでしょう?」

『う……はい……』

「さすがに入らないというのは無理です。ですので、これでどうですか?」


 そう言って、ジル様はややはばのある布を取り出して目に巻きつけた。視界を遮られて、明るいか暗いかくらいしか判別できなくなる。


「これでしたら、あなたも見えないでしょう?」


 ジル様の言う通り、確かにこれならうっかり見てしまう心配はなさそうですけど……かくししたままで、まともにお風呂なんて入れるのかしら?

 やや不安に思いはしたものの、せっかくのジル様の厚意に水をさすのも悪いと思って、『目隠ししてくださるなら』と見守ることにした。


 この後、ジル様はわたくしが心配した通り至る所にぶつかりまくった。お風呂へ続くドアに額をぶつけ、よくそうひざをぶつけ、あげくの果てに段差につまずいて転んだ。その拍子に目を覆っていた布が外れてしまい、ジル様の裸が視界に飛び込んできた。


『きゃあああああっ!』


 浴室にわたくしの悲鳴(ただしジル様の声)が響き渡る。あまりのしょうげきしゅうしんが限界をえてしまい、わたくしはその場で意識を手放したのだった。



*****



 深夜。

 わたくしはうすぐらいベッドの中で目を覚ました。

 薄明かりに照らされてぼんやりと映し出された天井の模様には見覚えがあった――ジル様のお部屋だ。

 ゆっくりと体を起こしてから、体が自由に動くことに気がついた。

 静かにベッドを出て鏡の前で自分の姿を確かめてみる。

 大きな窓から差し込む月明かりに照らされたほどよくきたえられた男の人の体は、どこをどう見てもジル様の姿で、昼間のことが全部夢だったらよかったのにと思った。

 最悪な一日でしたわ……。

 いもづる式に気を失う直前のことまで思い出してしまって、恥ずかしさのあまり顔を手で覆った。


(結婚前の乙女になんてものを見せつけてくれましたの!)


 おトイレもお風呂も生活する上では避けて通れないものだと頭では理解しているつもりでも、気持ちが追いついてくれない。


(無理無理無理無理! ぜったい、ぜーったい、無理ですわ!)


 これが毎日とかげきが強すぎて心臓が持ちそうにない。このままでは目的を達成する前に羞恥心でしょうめつしてしまいますわ。

 そう思ったわたくしは、目的達成のため早々に行動を起こすことにした。

 まずはアリーシャに未来で起こることを知ってもらう必要がある。

 問題はどうやってそれを伝えるかだけど……。

 部屋の中をぐるりと見回したわたくしは、まどぎわにあるジル様の机の上―― 立てられていた羽ペンを見て手紙を書くことを思いついた。


(そうだ、手紙……! こっそり渡すことができれば、ジル様に知られることなくアリーシャに真実を伝えることができますわ!)


 秘密裏に行動するにはジル様がている今しかない。

 ジル様を起こさないようにしんちょうに机に座ると、レターセットを探してサイドキャビネットの引き出しに指をかけた。


(勝手に開けてごめんなさい!)


 心の中で謝ってから、音が立たないようにゆっくりした動作で引き出しを引く。

 目当てのものは二段目の引き出しにあった。

 真新しい白いふうとう便びんせんを取り出して、封筒に【アリーシャ・メイベル様】と書く。に自分の名前を書くなんて不思議な感じですわねと思いながら、続けて便箋へとペンを走らせた。

はいけいアリーシャ・メイベル様】と書きはじめた手を一度止めて、このあとどう書き進めようかと筆を迷わせる。

 筆を宙に泳がせながら、昼間見たアリーシャの姿を思い出す。これから何があるのかもわかっていない一年半前のわたくしは、なんの疑いもなくジル様と接していた。

 いきなり『未来のアリーシャです』なんて書いても信じてもらえるはずがないだろうから、名前は書かずに事実だけを書き進めることにする。

 ジル様がコーデリア様とこんにしていることや、学園卒業後に婚約破棄を言い渡されること、さらにはコーデリア様に階段から突き落とされて命を落としてしまうこと。

 最後に、このような未来をむかえたくなければ、アリーシャからジル様に婚約破棄を突きつけるようにとえておく。

 なんだかきょうはくぶんのようになってしまいましたわね。

 もう一度読み返して、ふと冷静になった。名前のあるなしにかかわらず内容があやしすぎる。

 こんな怪しい手紙、仮に渡せたとしても信じてもらえるわけがない。せめてもっとしんぴょうせいのあることを書かなければ。

 となれば、やはりジル様が浮気している証拠を書く必要がある。今日のところはこれ以上書くのは無理だと判断して、書いた手紙を捨てようとしたところで、机の横に備えつけられたゴミ箱が空っぽなのに気づいた。

 ゴミ箱をあさられることはないとは思うけど、万が一ジル様に見られないとも限らない。

 捨てるにしても、一度どこかに隠して確実にはいする方法を見つけてからにしようと思ったわたくしは、ひとまず便箋を折りたたんで封筒にしまい込んだ。

 そうしてレターセットを取り出したまま開けっ放しになっていた引き出しを見ると、奥にちょうどいいサイズの箱を見つけた。

 この箱の下ならばそうそう見つからないのではないかしら。

 手紙を箱の下に隠そうと箱を持ち上げた拍子にうわぶたが外れてしまい、中にしまわれていた手紙が散らばってしまう。

 あわてて拾い上げたわたくしは、薄い水色の封筒に見覚えのある字で【ジルベルト・バートル様】と宛て名が書かれているのを見て、ピタリと動きを止めた。


『これ……わたくしが送った手紙……?』


 ひっくり返してみると、思った通り差出人のところには【アリーシャ・メイベル】と書かれていた。散らばってしまった手紙のどれもが、わたくしがジル様に宛てたものだった。


(懐かしい……)


 学園が長期のお休みの時とかに、帰省先の領地から送ったことがたびたびありましたわね。

 どんなことを書いたかしらと、ちょっとした出来心から手紙を開いて読んでみると、領地での暮らしぶりや学園の課題の話が書かれていた。

 一通読んだら懐かしい気持ちになって、もう一通と手を伸ばして読み始める。五通目を読み始めたあたりで、急に体の自由が利かなくなった。


『!?』


 いきなりどうしてしまったのかしらと思っていると、わなわなとくちびるが震えた。


「……なにをしているのですか?」


 底冷えするような声音からは確実におこっているのがわかった。


『お……起きていらっしゃいましたの!?』

「なにを、しているのかと聞いてるんです」


 正面の窓ガラスに映るジル様の顔は、がおのはずなのに目の奥が笑っていなかった。

 まずいですわ。手紙を見つけたけいを話せば、わたくしがアリーシャに手紙を書いていたことまで話さなければならなくなる。ここは下手な言い訳をせずに手紙を読んでしまったことだけ謝ってしまおうと謝罪の言葉を口にする。


『ごめんなさい! つい気になって読んでしまいましたの!』

「だからって、人の手紙を勝手に読むなんて……!」

『わ、わたくしだって、これがアリーシャからの手紙じゃなかったら読みませんでしたわ!』


 人様の手紙を読んではいけないくらいの良識はもっている。読んでしまったのは、これが自分が書いた手紙だったからだ―― そういうつもりで抗議したのに、ジル様は手紙をしまう手をピタリと止めてまゆひそめた。


「……アリーシャのだから読んだのですか?」


 何のために? と言外に問われたような気がして、今のが失言だったと気づいた。

 そういえば、ジル様はわたくしがアリーシャだって知らないのでした。

 えーと。えーと、えーと……。


『よ、読んだといっても、どれも大した内容ではありませんでしたわよ?』

「…………大した内容ではない?」


 ジル様の声がさらに低くなった気がする。


(ヒェ……まずいですわ、絶対怒ってる……!)


 ジル様はゆっくりした動作で手紙をもとの箱の中に片付けると、引き出しにかぎをかけた。

 これ以上何を言ってもジル様を怒らせてしまうだけだと思ったわたくしは、話題をそらしてしまおうとジル様にベッドをすすめてみる。


『よ、夜もけてまいりましたし、おやすみになっては……?』

「…………それで、僕が寝ている間にあなたが勝手に動かない保証はどこにあるのですか?」

『えっと……そうですね―――― では、こうしましょう。朝までわたくしの手とベッドをひもで結んでいただいてかまいませんわ』

「は!?」

『ですから、わたくしの手とベッドを――』

「それだともれなく僕の手もベッドとつながってしまうのですが……」


 だつりょくしたジル様に指摘されて『たしかに』と同意する。同じ体を共有するってゆうずうが利かないものですわね。

 物理的に行動を制限しようとすれば、ジル様にもえいきょうがあるのは致し方ない。

 ジル様はため息を一つつくと、どこからか紐を取り出してベッドの柱にくくりつけた。


『!?』

「…………背に腹はかえられません。今日のところはあなたの提案に従いましょう」


 ほどけないように確認したあと、紐のはしを自分の左手首にきつく結びつけた。

 よほど手紙を読まれたのがげきりんに触れたと見える。

 うう……こんな状態ですぐにねむれるかしら……。

 そんな心配もよそに、ごろりとベッドに横になるとすぐにねむおとずれた。幽霊でもつうに眠くなるらしい。

 アリーシャに宛てた手紙も引き出しの中に一緒にしまわれてしまいましたし、今日は大人しく寝るしかありませんわね。

 うとうとしながら先ほど読んだアリーシャの手紙の内容を思い出す。どれも他愛もない話ばかりで、大事に取っておくようなものではなかった。

 ジル様の目が閉じて、わたくしの視界もやみに閉ざされる。ふわふわしたここで誰に言うでもなくぽつりと呟いた。


『でも……意外でしたわ……手紙を大事に取っておいてくださっていたなんて……』


 少しして、ジル様が小さく笑う気配がしてわずかに口が動いた。

 なに? なんて言いましたの……?

 かすかな声を聞き取ることのできないまま、わたくしはまどろみの中に身を委ねた。




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