1-2
*****
なにか大事なものを失った気がしますわ。
ショックが大きすぎてまともに頭が働かない。放心したままお屋敷へと帰ってきたわたくしを待っていたのは、さらに追い打ちをかけるようなイベントだった。
やや広めのダイニングで食事を終えたジル様は、お部屋に戻るなり明日の授業の予習を始めた。こんな時でも勉強をおろそかにしないジル様の神経はどうなっているのかしら。
わたくしなんて、未だショックから立ち直れていないのに。
放心したままジル様の勉強風景を眺めていると、不意にドアをノックする音が響いた。
「ジルベルト様、お
落ち着いた
ジル様は「わかりました」と開いていた教科書を閉じると部屋を出た。
階段を下りて一階にある
(お風呂!?)
初めて足を
『ああああのっ!』
狼狽えた声で制止すると、ジル様は動きを止めて、言われるのがわかっていたかのようにため息をついた。
「あなたが言いたいことは予想がつきます。大方、裸を見たくないからお風呂に入らないでほしいとでも言うのでしょう?」
『う……はい……』
「さすがに入らないというのは無理です。ですので、これでどうですか?」
そう言って、ジル様はやや
「これでしたら、あなたも見えないでしょう?」
ジル様の言う通り、確かにこれならうっかり見てしまう心配はなさそうですけど……
やや不安に思いはしたものの、せっかくのジル様の厚意に水をさすのも悪いと思って、『目隠ししてくださるなら』と見守ることにした。
この後、ジル様はわたくしが心配した通り至る所にぶつかりまくった。お風呂へ続くドアに額をぶつけ、
『きゃあああああっ!』
浴室にわたくしの悲鳴(ただしジル様の声)が響き渡る。あまりの
*****
深夜。
わたくしは
薄明かりに照らされてぼんやりと映し出された天井の模様には見覚えがあった――ジル様のお部屋だ。
ゆっくりと体を起こしてから、体が自由に動くことに気がついた。
静かにベッドを出て鏡の前で自分の姿を確かめてみる。
大きな窓から差し込む月明かりに照らされたほどよく
最悪な一日でしたわ……。
(結婚前の乙女になんてものを見せつけてくれましたの!)
おトイレもお風呂も生活する上では避けて通れないものだと頭では理解しているつもりでも、気持ちが追いついてくれない。
(無理無理無理無理! ぜったい、ぜーったい、無理ですわ!)
これが毎日とか
そう思ったわたくしは、目的達成のため早々に行動を起こすことにした。
まずはアリーシャに未来で起こることを知ってもらう必要がある。
問題はどうやってそれを伝えるかだけど……。
部屋の中をぐるりと見回したわたくしは、
(そうだ、手紙……! こっそり渡すことができれば、ジル様に知られることなくアリーシャに真実を伝えることができますわ!)
秘密裏に行動するにはジル様が
ジル様を起こさないように
(勝手に開けてごめんなさい!)
心の中で謝ってから、音が立たないようにゆっくりした動作で引き出しを引く。
目当てのものは二段目の引き出しにあった。
真新しい白い
【
筆を宙に泳がせながら、昼間見たアリーシャの姿を思い出す。これから何があるのかもわかっていない一年半前のわたくしは、なんの疑いもなくジル様と接していた。
いきなり『未来のアリーシャです』なんて書いても信じてもらえるはずがないだろうから、名前は書かずに事実だけを書き進めることにする。
ジル様がコーデリア様と
最後に、このような未来を
なんだか
もう一度読み返して、ふと冷静になった。名前のあるなしに
こんな怪しい手紙、仮に渡せたとしても信じてもらえるわけがない。せめてもっと
となれば、やはりジル様が浮気している証拠を書く必要がある。今日のところはこれ以上書くのは無理だと判断して、書いた手紙を捨てようとしたところで、机の横に備えつけられたゴミ箱が空っぽなのに気づいた。
ゴミ箱を
捨てるにしても、一度どこかに隠して確実に
そうしてレターセットを取り出したまま開けっ放しになっていた引き出しを見ると、奥にちょうどいいサイズの箱を見つけた。
この箱の下ならばそうそう見つからないのではないかしら。
手紙を箱の下に隠そうと箱を持ち上げた拍子に
『これ……わたくしが送った手紙……?』
ひっくり返してみると、思った通り差出人のところには【アリーシャ・メイベル】と書かれていた。散らばってしまった手紙のどれもが、わたくしがジル様に宛てたものだった。
(懐かしい……)
学園が長期のお休みの時とかに、帰省先の領地から送ったことが
どんなことを書いたかしらと、ちょっとした出来心から手紙を開いて読んでみると、領地での暮らしぶりや学園の課題の話が書かれていた。
一通読んだら懐かしい気持ちになって、もう一通と手を伸ばして読み始める。五通目を読み始めたあたりで、急に体の自由が利かなくなった。
『!?』
いきなりどうしてしまったのかしらと思っていると、わなわなと
「……なにをしているのですか?」
底冷えするような声音からは確実に
『お……起きていらっしゃいましたの!?』
「なにを、しているのかと聞いてるんです」
正面の窓ガラスに映るジル様の顔は、
まずいですわ。手紙を見つけた
『ごめんなさい! つい気になって読んでしまいましたの!』
「だからって、人の手紙を勝手に読むなんて……!」
『わ、わたくしだって、これがアリーシャからの手紙じゃなかったら読みませんでしたわ!』
人様の手紙を読んではいけないくらいの良識はもっている。読んでしまったのは、これが自分が書いた手紙だったからだ―― そういうつもりで抗議したのに、ジル様は手紙をしまう手をピタリと止めて
「……アリーシャのだから読んだのですか?」
何のために? と言外に問われたような気がして、今のが失言だったと気づいた。
そういえば、ジル様はわたくしがアリーシャだって知らないのでした。
えーと。えーと、えーと……。
『よ、読んだといっても、どれも大した内容ではありませんでしたわよ?』
「…………大した内容ではない?」
ジル様の声がさらに低くなった気がする。
(ヒェ……まずいですわ、絶対怒ってる……!)
ジル様はゆっくりした動作で手紙をもとの箱の中に片付けると、引き出しに
これ以上何を言ってもジル様を怒らせてしまうだけだと思ったわたくしは、話題をそらしてしまおうとジル様にベッドを
『よ、夜も
「…………それで、僕が寝ている間にあなたが勝手に動かない保証はどこにあるのですか?」
『えっと……そうですね―――― では、こうしましょう。朝までわたくしの手とベッドを
「は!?」
『ですから、わたくしの手とベッドを――』
「それだともれなく僕の手もベッドと
物理的に行動を制限しようとすれば、ジル様にも
ジル様はため息を一つつくと、どこからか紐を取り出してベッドの柱に
『!?』
「…………背に腹はかえられません。今日のところはあなたの提案に従いましょう」
ほどけないように確認したあと、紐の
よほど手紙を読まれたのが
うう……こんな状態ですぐに
そんな心配もよそに、ごろりとベッドに横になるとすぐに
アリーシャに宛てた手紙も引き出しの中に一緒にしまわれてしまいましたし、今日は大人しく寝るしかありませんわね。
うとうとしながら先ほど読んだアリーシャの手紙の内容を思い出す。どれも他愛もない話ばかりで、大事に取っておくようなものではなかった。
ジル様の目が閉じて、わたくしの視界も
『でも……意外でしたわ……手紙を大事に取っておいてくださっていたなんて……』
少しして、ジル様が小さく笑う気配がしてわずかに口が動いた。
なに? なんて言いましたの……?
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