1章 目覚めたのは元婚約者の体の中!?

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一体どれほどの時間がったのか、暗く何もない世界をただよっていたわたくしは、ふと何かに引っぱられるような感覚を覚えて目を覚ました。

 初めて見るてんじょうに目をまたたく。


『ここは……? ――――え!?』


 自分自身のつぶやきにおどろいた。発した声は自分のものとは思えないほど低く、まるで男の人の声のようだった。思わずのどに手を当てると、ありえないでっぱりにれた。


『!?』


 驚いて飛び起きると、いつもより体が軽い気がした。

 不思議に思いながら体を見下ろして、言葉を失った。豊満とまではいかないまでも、あったはずのほどよい胸のふくらみがなくなっていたのだ。よく見れば、着ているのはいつものネグリジェではなく、上品なはだざわりの男性用のしんだった。

 おそる恐る真っ平らな胸に手を当ててみる。見た目通りのぜっぺきで、やわらかみのない固いむないた


(一体何が起こっていますの!?)


 ベッドからして全身が見える鏡の前に立ったわたくしは、鏡の中に映った自分の姿を見てこうちょくした。

 きんぱつに青い目の整った顔立ちの青年――そこにいたのは、わたくしの元こんやくしゃのジルベルト様だった。

 鏡に近づいていろんな角度から見てみてもジル様。

 まえがみをかき上げてまじまじと見てみてもジル様。

 りょうほおを強めにつまんでばしてみてもジル様。

 つまんだところが痛くない。ということは、やっぱり夢……?

 かくにんのためにもうちょっと強くつねってみる。


「イタタタタ!」


 勝手に口が動いたと思ったら、いきなり体の自由がかなくなった。続けてわたくしの意思に反して言葉が続く。


「うわっ! え……なんで僕こんなところに――」

『ええ!?どうして口が勝手に!?』


 わたくしが疑問を口にするとちんもくが流れた。

 おたがい押し黙ること数秒。


「は!?」

『え!?』


 どちらからともなくとんきょうな声が上がった。ただし、どちらもジル様の声だ。

 ――もしかしてわたくし、幽霊になったの……?

 鏡の中のジル様はきょうがくした表情のまま見事に固まっていた。そのままぎこちない動きで口元に手を当ててだまり込んでしまったジル様に、おもむろに声をかけてみる。


『あの……ジル、さま……?』

「…………」


 こんわくしているのか、ジル様の視線が左右にれた。

 ジル様は無言のまま口元をおおっていた手を目元に持っていき、深くため息をついた。ついでに反対側の手で左頰がつねられる。先ほどと同じで痛みはない。


「イタタ……夢じゃないし―― 一体何が……ハッ、まさか何か変なものに取りかれてしまったとでも――」

『変なものって……仮にも婚約関係にあった者に対してずいぶんな言い方ですわね』


 しつけな物言いに、思わずいやったらしく言い返してしまった。

 どうもそれがいけなかったらしい。わたくしの言葉に、ジル様が不快だといわんばかりにけんにしわを寄せた。


「ずいぶんもなにも、あなたと婚約した覚えはないのですが……どなたかとかんちがいされているのではありませんか?」

『はぁ!?』

(一方的にこんやくしたあげく、コーデリア様とけっこんしておきながら何を言っていますの!?)


 あんまりな言いようにこうしようとして、ふと鏡に映る彼の顔にかんを覚えた。

 何かしら? と違和感の正体を確かめるべくおく辿たどって、最後に見たジル様よりもいくらか若く見えることに気がついた。


『…………あの、つかぬことをおうかがいしますが、いまおとしはいくつですか?』

「十七ですが?」

『十七!?』


 よどみなく返ってきた答えに耳を疑った。

 おかしい。歳が合わない。いえ、そもそもこのじょうきょう自体が十分におかしいのだけれど。

 あの日―― コーデリア様に階段からとされて死んだ時、わたくしは十八歳だった。

それなのに、わたくしより誕生日の早かったジル様は十七歳だと答えた。


(…………時間が、もどってる?)


 いぶかしみながらもう一度確認してみる。


『本当に、本当に十七歳なんですか?』

うそをついてどうするんですか」

『で、ですわよね』


 平静をよそおったものの、内心それどころではない。


(やっぱり時間が巻き戻ってる!?)


 自分が立てた仮説を否定したいのに、机の上にかざられた一年半前のカレンダーが無情にも現実をつきつけてくる。

 いやな音を立ててはやがねを打つ心臓はわたくしのものか、ジル様のものか―― そんなことを考えていると、トントンとドアをノックする音がひびいた。


「おはようございます、ジルベルト様」


 落ち着いたトーンの男の人の声が呼びかけてくる。ジル様は小さく「チャーリーか」と呟きをもらすと、声のボリュームをおさえてわたくしにうったえてきた。


「見つかるとやっかいです。そうなる前に早く僕の体から出ていっていただけませんか?」


 ことづかいはていねいだけど、カチンとくる言い方にムッとなる。

 言われなくたって、こっちだって自分を裏切って婚約破棄してきた相手といっしょにいるなんてまっぴらめんというものだ。

 わたくしはジル様の体を出ようとして……出ようとして―― 。


(え、ちょっと待って。これ、どうやったら出られますの!?)


 どういうわけか手も足も動かない。動かそうと思って動かせるのは口だけだということに気づいて、サーッと血の気が引いていく。


『…………』

「どうしました?」


 急にしゃべらなくなったせいか、鏡に映るジル様から訝しむような視線を向けられる。

 でも、正直そんな不躾な視線も気にならないほどわたくしはあせっていた。


(どうしよう……一体どうしたら出られますの!?)

『…………あの』


 き出した声がふるえた。はくはくと口を動かしてようやく言葉を続ける。


『わたくしも一刻も早く出ていきたいのですが……』

「ですが?」

『これ、どうしたら出られますの……?』

「……………は!? ちょ、ちょっと待ってください! それって、出ていけないってことですか

!?」

『…………』


 沈黙をもってこうていすると、ジル様はかみをわしゃわしゃとかき乱しながら狼狽うろたえた声を上げた。


「そんな! 困ります!」

『わたくしだって困りますわ!』

「というか、大体あなた何なんですか! 勝手に人の体に取り憑いてきて!」

『なっ……! わたくしだって好きでこんなことになっているわけではありません! というか、本当にわたくしのことがわかりませんの!? わたくしはアリ――』


 アリーシャですと言いかけた時、バンッとドアが開いて、モップをやりのように構えた男性が部屋に飛び込んできた。しら交じりのくろかみをオールバックにした初老の男性には見覚えがあった。

 たしか、バートル家のしつのチャーリーさんだ。


「ジルベルト様! ご無事ですか!?」


 そう言ってチャーリーさんは部屋の主であるジル様のもとにると、部屋の中をぐるりと見回した。どうやらジル様の言い争うような声が部屋の外までもれていたようで、心配したチャーリーさんがもの片手に加勢しに来てくれたらしい。けれどジル様以外いるはずもなく、鏡の前で一人たたずむジル様を見てげんな顔をした。


ぞくはどちらでございますか?」


 部屋のどこかにひそんでいるかもしれない賊にけいかいしながら、チャーリーさんが話しかけてくる。


(賊……賊って、わたくしのこと!?)

「いや、賊ではなく――」

『賊だなんて、あんまりですわ!』


 ジル様の言葉をさえぎって抗議したしゅんかんばやい動きで口元をふさがれる。しかし時すでにおそく、ジル様から発せられた女性のようなをチャーリーさんに拾われてしまっていた。

 ぱちりと目をまばたいたチャーリーさんが聞き返してくる。


「ですわ……?」


 ジル様は口元に当てた手で顔半分を覆うと、あきらめたように深いため息をついた。

 当初はかくし通すつもりだったジル様もこうなっては仕方がないと、チャーリーさんにありのままを話すことにしたようだ。


「にわかには信じがたい話だけど、朝起きたら女性のゆうれいに取り憑かれていて……」

『ですから、わたくしも好きで取り憑いたわけではないと言っているではありませんか』


 ジル様から【わたくし】といういちにんしょうが飛び出したのを聞いて、チャーリーさんが驚愕の表情をかべる。


「なんとおいたわしい! ジルベルト様、すぐにお助けいたします!」


 チャーリーさんはそう言うやいなや部屋を飛び出していくと、わきつぼかかえて戻ってきた。そして勢いのまま壺のふたを外して、中に入っていた白い粉をジル様に向かって投げつけてきた。

「ジルベルト様の中にいるあくりょうめ! 今すぐジルベルト様の中から出ていきなさい!」

「うわっ!」

『キャッ!』

「ちょっ……落ち着い……ゲホッ!」


 落ち着いてと言おうとしたひょうに白い粉がもろに口の中に入ってしまい、あまりのしょっぱさにジル様がむせた。体を共有するわたくしもきょうれつな塩味に目を白黒させる。

 身を清めるには塩がいいとは聞いたことがあるけれど、こんなの幽霊じゃなくてもびっくりして体から出ていきたくなると思った。

 ジル様は一心不乱に塩をらすチャーリーさんにめ寄ると、そのうでつかんで塩の入った壺を取り上げた。


「チャーリー!」

「はっ!」


 ジル様の声に、チャーリーさんが我に返ったように動きを止めて姿勢を正した。

 自分より取り乱している人がいると自分がしっかりしなければと思うものらしい。かくいうわたくしも塩を撒き散らすチャーリーさんを見ていたら、不思議と冷静にならなきゃと思えるようになっていた。

 いっぱく置いて、塩まみれになったジル様を見たチャーリーさんの顔色がみるみるうちに青くなっていく。


「も、申し訳ございません! 私としたことが取り乱しました……とりあえず急ぎだん様にお知らせしなくては……!」

 ずれた眼鏡をくいっと上げてきびすかえそうとしたチャーリーさんを、ジル様が止める。


「いや。父にはまだ黙っておこう」

「しかし……」

「バートル家の次期当主が幽霊に取り憑かれたなんて世間に知られたら、家のけんに関わることになる。そうなる前にみつになんとかしないと……」


 不本意だといわんばかりに、ジル様の眉間にぐぐっとしわが寄せられる。どうやらジル様は領地ではなれて暮らすご両親には隠しておくつもりらしい。

 ゴシップ好きな貴族のことだ、あることないこときゃくしょくされておもしろおかしく言いふらされるにちがいない。そうなったら家の評価は地に落ちてしまうだろう。どこで情報がもれるかわからない以上、秘密を共有する人数は最小限にとどめておいたほうがいいというジル様の判断は正しいように思えた。

 わたくしとしても、婚約破棄された相手の中から出られなくなったなんて知られたら、メイベル家末代までのはじである。秘密裏に何とかしたいのはジル様と同じだった。

 ただこの三人でどうにかできるものなのかははなはだ疑問なのだけれど。


『あの……お塩でもどうにもならなかったものを、わたくしたちだけでどうにかできるとは思えないのですが……』


 正直な気持ちをすると、ジル様は今後の方針について教えてくれた。


「それについてですが、僕の友人にこういった事象にくわしい方がいましてね。彼なら秘密裏にどうにかしてくれるかもしれません」

「ああ、ブライト様でございますね。なるほど、あの方でしたらジルベルト様のよき相談相手になってくださることでしょう」


 チャーリーさんが思い当たる人物の名前を挙げてなっとくしたようにうなずいた。その名前を聞いたわたくしも、なるほどと思った。

 ジル様のお友達であるブライト・レイ様はとくしゅいえがらの生まれで、一族そろって何かしらの特殊能力を有している。血筋的にもうらな退たいはいしゅつしているので、しんれいひょうなどといった現象にも詳しいのではないかというのがジル様の見立てだ。


「さて、動くなら早いほうがいいでしょう。今日はこのまま学園に向かいます。チャーリー、馬車の準備を」


 ジル様の指示を受けて、チャーリーさんが「かしこまりました」と部屋を出ていく。

 学園というなつかしい響きに、本当に今が一年半前なのだと実感していると、ジル様が踵を返して鏡の前に立った。おもむろに持ち上げられた手がえりもとのボタンを外しにかかる。


『えっ!? あの! 何を!? 何をなさっていますの!?』

「何ってえですが?」


 いきなりのことにびっくりして声を上げると、ジル様はきょとんとしてもう一つむなもとのボタンを外した。はらりと前がはだけてはだしゅつする。それを鏡しに見てしまい、狼狽えた声を上げてしまう。


『お、お待ちください!』

「今度はなんです!?」

『女性の前で服を着替えるなんて、は、は、れんです!』


 破廉恥と言われて、ジル様があらわになった胸元を隠すように襟元を合わせてぎゅっとにぎりしめた。


「破廉恥って……そもそもこれは僕の体なのですが……」

『わかっています! わかっていますけど……!』


 一つの体を共有しているのだから、着替えだってけて通れないのはわかっている。 けれど、だからって納得しているかといえば別問題だ。

 見せられるこちらの身にもなってほしいと訴えると、ジル様からあきれたような声が返ってきた。


「では、僕にこのままで出かけろとおっしゃるのですか?」

『う……』


 さすがに寝衣のまま出かけろというのはこくな話だ。無茶なことを言っている自覚はあったけれど、ずかしいものは恥ずかしい。言い淀んで口をパクパクさせていると、ジル様はくるりと体を反転させて鏡に背を向けた。


「極力目に触れないようにします。これ以上はどうにもできないのでまんしてください」


 そう言って着替えを再開させる。どうやら鏡に映らないようにはいりょしてくれたらしい。

 とはいえ、ジル様と視界を共有しているせいで完全に見ないというのは無理だった。

 ほどよく筋肉のついた体が視界に入ってきて顔を覆いたくなったけれど、あいにく手は自由に動かない。

 結果、わたくしはしゅうえながらジル様のお着替えを見守ることになった。

 学園へと向かう馬車の中は重苦しい空気が漂っていた。

 静かな分、ガラガラと車輪の音がやけに大きく聞こえる。腕を組んだままのジル様はいらちを隠すことなく小さく息を吐いた。

 もの言いたげなため息に、わたくしは思わず口を開いた。


『何か思うところがあるのでしたら、言ったらいいじゃないですか』

「…………あなたのせいでおくれてしまったではありませんか」

『まぁ! わたくしのせいだとおっしゃいますの!?』


 家を出る時間が遅くなってしまったのはわたくしのせいだと言われてムッとして抗議すると、ジル様からも非難の言葉が返された。


「あなたが何度も狼狽えるから着替えに手間取ったんじゃないですか!」

『しょうがないでしょう!? 男の人のはだかなんて見るの初めてだったんですもの!』

「僕だって女性に見られながら着替えるのは初めてでした!」

『…………』

「…………」

『…………』

「…………不毛な言い合いはやめましょう」


 ジル様がため息をついて窓の外に目を向けた。お互いにそれ以上口を開くことはなく、馬車の中に沈黙が流れる。

 小窓に映りこんだジル様の整った顔をながめながら、改めて自分がジル様の中にいることを思い知らされる。


(それにしても、どうしてこんなおかしなことになってしまったのかしら?)


 この機会に状況を整理してみる。

 今のところわかっているのは、死ぬ一年半前に時をさかのぼっていることと、なぜだかジル様の体の中から出られなくなっているということくらいしかない。しかも、わたくしには体を動かす権利はないらしく、自由に動かせるのは口だけというものすごく不便な状況だ。

 生前読んだ本によると、このように死んで時を遡る現象を【逆行】というらしいのだけれど、わたくしのように自分ではないだれかの中によみがえる話なんていまだかつて読んだことがない。しかも、よりにもよって婚約破棄してきた相手の中とか最悪にもほどがある。


(これ、絶対戻ってくる体をちがえてしまったやつですわ……)


 もともとうっかりしているところがあったとはいえ、こんなところで発揮しなくたっていいのにと自己けんおちいる。

 そんなことを考えていると、ジル様の口が「さっき」と動いた。


「チャーリーが部屋に来る前に、何か言いかけていましたよね?」

『え?』

「『わたくしは』って」

『あー……それでしたら、わたくしはアリ』


 そういえば名前を言いかけたままだったと、言いそびれてしまっていた名前の続きを言おうとして―― 開きかけた口を閉じた。

 これだけお話ししていても、ジル様はわたくしのことがわかりませんのね。何を言ってもジル様の声になってしまうから仕方がないとはいえ、婚約者だったわたくしのことに気づきもしないなんて。

 そのしょうに、わたくしがアリーシャだと暗に示していた【婚約関係にあった者】という言葉も勘違いではないかといっしゅうされてしまっている。


 ―― すみません、アリーシャ。あなたとの婚約をさせてください――


 今でも耳に残っているあの言葉を知っているのはわたくしだけなのかと思ったら、なにやら悲しいを通りして腹立たしい気分になってきた。

 もとはと言えば、ジル様が婚約破棄なんてするから、コーデリア様に階段から突き落とされてこんなことになったのに。おまけに逆行先を間違えて、ジル様の中から出られなくなってしまっただなんて……こんなの情けなさすぎてジル様に知られたくない。

 ここにきて名前を知られたくないと思ってしまったわたくしは、ジル様に「アリ?」と聞き返されて、『アリ』から続く名前をさくした。


『アリ……アリ……アリ―― アリし日の名前なんて忘れてしまいましたわ! ですから、わたくしが何者かなんて聞いてもでしてよ』


 とっさに別の名前なんて出てこなくて、苦しまぎれに名前を忘れてしまったことにする。

 体がない今の状態では、わたくしがアリーシャだと証明する手立てなんてありはしない。

 バレるはずはないと高をくくって、ついでに何者かについてもせんさくしないでほしいとけんせいをかければ、ジル様はなぜだか可哀想かわいそう

なものを見るような目を小窓に映る自分に向けた。


『どうしてそんな残念な子を見るような目で見ますの!?』

「いえ……おくそうしつなわりにずいぶんと元気な幽霊だなと思いまして。本当に覚えていないのですか?」

『なっ……わたくしが噓をついているとでも!?』


 内心ギクリとしながら反論すると、「そうではありませんけど」と歯切れが悪そうに返された。

 これ以上はボロが出そうだと話をそらそうとしたところで、馬車が止まった。

 馬車を降りたわたくしは、学園を前に懐かしさを覚えた。授業が始まるにはまだゆうがあることもあって、正門から校舎に続く並木道にはぱらぱらと生徒が歩いていた。

 ジル様は教室へと向かわず、特別とうのほうへ歩みを進めていく。

 どこへ向かっているのかしらと思っていると、図書室の前で歩みが止まった。じゅうこうなドアが開くと古い本のにおいがした。ジル様は迷うことなくえつらんスペースの奥へと歩いていくと、一番奥のテーブルに黒髪の男子生徒を見つけて声をかけた。


「おはようございます、ブライト。ちょっと他言無用で相談にのっていただきたいのですが、今いいですか?」

「おはよう、ジルベルト。めずらしいね、君が僕に相談なん――…」


 ねんれいよりもがらな体格のブライト様は、ジル様に声をかけられて読んでいた本から顔を上げ―― その顔を見るやいなや黒曜石のような目を大きく見開いた。


「ジルベルト、その中の人どうしたの……!?」


 目の下にくっきり浮いたくまも相まって、おばけでも見たような表情をしたブライト様は、あからさまに顔を引きつらせて【中の人】と言った。


「わかるのですか!? 」

『わたくしのことがわかりますの!?』


ジル様と順番に聞き返すと、ブライト様は驚いたように目を見開いたまま固まってしまった。ややあって、まばたきと共にブライト様がゆるりと首を横にった。


「いや、僕にわかるのはジルベルトに二人分のオーラが重なって見えるってことだけだよ」

―― 二人分のオーラが重なって見える――

 そういえば、ブライト様は人のオーラを見る能力があると以前言っていましたっけ。

ジル様の中にいるわたくしの存在に気づいたのもその能力のおかげらしい。オーラが二つ重なっている状態というのは、幽霊に取り憑かれた人によく見られる現象だと教えてくれた。

 ジル様はそれなら話は早いと、ブライト様のとなりの席に座って本題を口にした。


「取り憑いた幽霊に出ていってもらう方法も知っていますか!?」

「そりゃ、うちの蔵書を調べれば方法くらいは見つかると思うけど……」

「でしたらお願いします、力をかしてください! こんなことが世間にわたったらバートル家は終わりです」

 ジル様は額に手を当ててなげいた。ブライト様はそんなジル様の顔をじーっと見つめて、質問を変えた。


「…………本音は?」

「…………もし世間に知れ渡ったら、アリーシャや彼女のご両親になんて思われるか……婚約が白紙になったら目も当てられません」


 しきで聞いたものとは異なる理由を聞いたわたくしは、本音だというジル様の言葉にカッとなった。


『白紙になったら目も当てられないだなんて……そんなことが言えるのでしたら、どうして婚約破棄なんてなさいましたの!?』


 ジル様もブライト様もとうとつなわたくしの発言にびっくりしているようだ。ジル様の表情はわからないけれど、ブライト様の表情からもそれが伝わってくる。一拍置いてからジル様が反論してくる。


「婚約破棄なんかしてません! 先ほども言いましたが、あなた僕をどなたかと勘違いしてらっしゃるのではないですか!? 僕は今まで一度も婚約破棄なんてしたことはありませんけど!」

『でしたら、あなたに婚約破棄されたわたくしは何だというのですか!?』

「だから! その相手は僕じゃないと言っているではありませんか!」

『いいえ、あなたです! この、裏切り者!』

「僕じゃありませんってば! 大体あなた自分の名前も忘れてしまっているくらい記憶があやふやなのでしょう!? 」

『うぐっ……!』


 ここでそれを持ち出されるとは思わなかった。まさか名乗らなかったことが裏目に出るなんて……。

 わたくしが言い淀んだすきをついて、ブライト様がわたくしたちの間に割り込んでくる。


「まぁまぁ、二人とも落ち着きなよ」

『「これが落ち着いていられるとでも!?」』


 ジル様とわたくしの発言が見事にかぶった。ブライト様はびっくりしたような顔をして目を瞬くと、ククッと笑った。


「君たち息ぴったりだね。まぁ、なんとなく事情はわかってきたよ。その上でいろいろとつっこみたいところはあるけど、僕的にはジルベルトがアリーシャじょうとの婚約を破棄した

だなんて、よほどのことがない限り考えられないかな」

『…………』

(ブライト様もジル様のかたを持ちますのね)


 くやしさのあまり黙り込んでいると、ブライト様にポンと肩をたたかれた。


「とりあえず何とかできないか僕のほうでも調べてみるから、ジルベルトたちは周りにしんに思われないように大人しくしてて。あんまり目立つと、レイ家うちの退魔師を呼ばれて大々的にじょれいするなんて事態になりかねないからね」


 柔らかい口調なのにどこかを言わせぬものを感じて、わたくしはひるみながらもブライト様の忠告に頷き返すしかなかった。


 一時間目の開始が迫っていたこともあり、教室に移動することになった。

 本の片付けをしてから追いかけるというブライト様を図書室に残して、ジル様とろうを歩く。生前よりも少し高い視界に、わたくしよりも速い歩行―― ジル様と一緒に歩いていたときは意識したことがなかったけれど、ジル様はわたくしの歩調に合わせてゆっくり歩いてくれていたのだとわかった。今になって気づいた彼のづかいに心の中が温かくなる。

 教室に近づくにつれて廊下を行きかう人が増えてくる。この朝のふん、懐かしいですわ。ジル様の視界を通して生きていたころのことを思い出していると、不意に「ジルベルト様!」と背後から声がかけられた。その瞬間、冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。

 聞き覚えのある少女の声に体がこわる。駆け寄ってきたその人物を正面から見た瞬間、わたくしの体をゾワッとしたものが駆け抜けた。体が自由に動いていたら反射的にげ出していたかもしれない。


(コーデリア様……できればもう二度とお会いしたくはありませんでしたわ)


 背中の中ほどまであるふんわりしたくりいろの髪をしたコーデリア様は、ジル様のそばまで駆け寄ってくると、制服のスカートのすそをつまんでれいなカーテシーをろうしてみせた。


「おはようございます! 今日はいつもより遅いのですね」

「おはようございます、コーデリア嬢。ちょっと……いろいろありまして」


 ジル様がぼやかして伝えると、コーデリア様はすっと手を伸ばしてきてジル様の髪に触れた。


「ふふっ、ぐしが乱れてます」


 乱れた髪をぐしで整えたコーデリア様は、ジル様とのきょを縮めて声をひそめた。


「ところで来週のダンスの授業ですけど、ペアの相手はもうお決まりですか?」


 手を前にしてもじもじと指をいじりながら、くりっとした大きな茶色の目がうわづかいで見つめてくる。異性じゃなくてもとてもわいらしく見える仕草だ。ジル様だってときめかないはずがない。


(…………ずいぶん親密そうではありませんか)


 心の中にドロドロと黒い感情ががってくる。


『なるほど……今までもこうやって二人でこそこそしていましたのね?』

「え?」


 忠告も忘れてしぼり出した声に、コーデリア様がきょとんとした。ほぼ同時にジル様の手がばっと口元を覆った。


『ふご……!』


 ぐぐっと口に力がめられる。その力の入れようからは、大人しくしててと言われていたでしょう!?というジル様の心の声が聞こえてくるようだった。どちらが先にしゃべるか口の動きがせめぎ合う。その異様な空気を察したのか、コーデリア様が「ジルベルト様……?」と怪訝な視線を向けてくる。

 その時、よく通る声がジル様の名前を呼んだ。


「ジル様!」


 聞き覚えのある―― いや、聞き覚えのありすぎる声にギクリとした。ジル様が声の方向を振り返ると、思った通りわたくし、、、、がいた。

 こしのあたりまで伸ばしたぎんぱつをハーフアップにした一年半前のわたくしが、深い青色の目をうれしそうに細めてこちらに向かって歩いてくる。コーデリア様は「……それではまた教室で」と言うと、わたくしとわるようにジル様のわきとおり抜けていった。

 生きている自分がいるかもしれないとは思っていたけれど、実際に本人を前にすると不思議な感覚で、息をのんだまま動けなくなってしまった。

 一方、わたくしとは対照的にジル様の頰がゆるんだ。


「おはようございます、アリーシャ」

「おはようございます。今日は珍しく遅いのですね」


 アリーシャと名前を呼ばれた生前のわたくしがにこやかにあいさつわして、並んで廊下を歩き出す。ジル様がいつもより登校が遅い理由を口にする。


「ええ、さっきまで図書室にいたので」

「何かお探しの本でもありましたの?」

「いえ、ブライトに少し用があって……」

「まぁ、そうでしたのね」

「ええ」


 自然と会話がれる。

 ジル様が隣を歩く生前のわたくし―― アリーシャをこっそりぬする。

 その視線の先で、アリーシャはジル様が見ていることにも気づかず、何か話したほうがいいかしらと視線を彷徨さまよわせていた。

 思えば、昔からわたくしとジル様は会話が続かないことがよくあった。

 何か話さなければと思うのに、ジル様相手だとすごくきんちょうしてしまって長く話を続けられなかったんですよね。ジル様はジル様でわたくしに質問を投げかけるばかりで、こちらから聞かないとあまり自分のことを話してくれませんでしたっけ。

 会話のないまま教室のドアをくぐり、それぞれの席へと分かれる。

 自席に着いたジル様は机にひじをついて、いのるような姿勢で組んだ手に額をくっつけた。


「今日はいつもより話せた……」


 あんしたようなため息とともに呟きがもれた。くちはしが上がっているのでいつもより話せて嬉しいということなのだろう。


 真っ先に思い浮かんだのはコーデリア様だった。上目遣いで可愛らしくダンスにさそわれたら嬉しくもなるだろう。それはきっと会話も上手うまく続かないような婚約者よりもりょく的に見えたに違いない。わたくしは自分とコーデリア様をかくしてため息をついた。


 ジル様の中で一時間目の授業を聞き流しながら物思いにふける。

 時が巻き戻ったこの世界は、卒業の半年前―― ちょうど夏季の長期きゅうが終わったあたりだった。つまり、わたくしがジル様から婚約破棄を言い渡されるのは半年後。先ほどコーデリア様がダンスの授業に誘っていたくらいですし、おそらくすでにジル様はコーデリア様とこいびと同士になっていたと考えていいだろう。一体いつから? と先ほどの二人のやりとりを思い返して、心の中に黒いものが広がる。わたくしという婚約者がいながらうわをしていただなんて許せませんわ。ギリッとおくみしめれば、わたくしがしゃべると思ったのか、ジル様の口元に力が込められた。

 自由に体を動かすこともしゃべることもままならないこの状況で、わたくしはこれからどうしたらいいのかしら。ほうに暮れながら、今後の身の振り方を考えているうちに一時間目が終わった。

 休み時間になったタイミングで背後から背中をつつかれる。

 ジル様が振り返ると、後ろの席に座るブライト様が身を乗り出して声をひそませた。


「ジルベルト、次の授業けんじゅつだけどだいじょうなの? 医務室で休んでたほうがいいんじゃない?」

「え? なぜ?」


 剣術の授業がどうしたと言わんばかりのジル様に、ブライト様は「だから」と補足する。


「君の中のおじょうさまけんなんて握ったこともないんじゃないの?ってことだよ」


 そうてきされても、わたくしもジル様もブライト様が何をねんしているのかわからず、とう場に移動して授業を受けることにした。


 このあと、ブライト様の懸念通り、振り下ろされる剣にきょうしたわたくしが(ジル様の声で)悲鳴を上げまくってしまい、早々に医務室にてっ退たいする事態となった。


 医務室のベッドにころがるなり、ジル様は目元を覆ってぼやいた。


「今日はやくです……」

『……まったくですわ』


 不本意ながら、わたくしもそれに同意する。

 剣って、向けられるとあんなにこわいものでしたのね……。

 ジル様はいつも簡単そうにはじき返していたから、剣なんて簡単だと思い込んでいた。

 ごめいわくをおかけした自覚はあるのでなおに謝っておく。


『ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした』

「いえ……剣を持つのが初めてなら、怖いと思っても仕方ありませんよ。僕のほうこそ初めにそのことに気づくべきでした」


 あなたのせいで大変な目にいましたと言われるかと思っていたので、ジル様がわたくしを気遣ってくれたのが意外で毒気を抜かれてしまった。

 朝から不毛な言い合いばかりしていたから失念していたけれど、ジル様はもともと気遣いのできるやさしい方でしたわね。

それを思い出してから、いやいやとジル様の中で首を振る。

 どんなに優しく見えたって、この人は婚約者がいる身でありながら浮気できてしまう人なのだ。ほだされちゃだめだと心に活を入れる。

 今朝のジル様とコーデリア様のやりとりを思い出してもんもんとしていると、医務室のドアが開いて生前のわたくし――アリーシャが入ってきた。どうやらジル様が医務室で休んでいると聞いて、授業の合間に様子を見に来てくれたようだ。


「ジル様、大丈夫ですか?」


 アリーシャはベッドで横になっているジル様を見つけるやいなや、駆け寄ってきて心配そうにまゆじりを下げた。

 こんな人、心配しなくても大丈夫でしてよ。

 そう言おうとしたのに、ジル様が口元に力を入れているせいで上手くしゃべることができない。そうまでしてアリーシャに変に思われたくないらしい。根負けしてしゃべるのを諦めると、ジル様が言葉少なに今日は体調が悪いのでこのまま帰ることにしたと伝えた。

 それを聞いて、アリーシャはさらに心配そうな顔をした。

 ジル様を気遣う様子に、この子はまだ何も知らないのねと思った。

 半年後にジル様に婚約破棄されることも、浮気されていたことも、コーデリア様に階段から突き落とされて死んでしまうことも、まだ何も知らないのだ。

 ただジル様の婚約者として好きになってもらおうとがんっていた頃のピュアなわたくし。

 未来であんなことに巻き込まれるなんてと、目の前の何も知らない自分があわれに思えた。

 この時、ふとわたくしはこのために一年半時を遡ってきたのではないかと思った。

 散々な死に方でしたもの。無念すぎてじょうぶつできなかったわたくしを憐れんだ神様がやり直すチャンスをくださったのかもしれない。


(今なら……婚約破棄される前の今なら、ジル様が浮気している証拠を摑んでアリーシャわたくしから婚約破棄をつきつけることができるのではないかしら? そうすれば、アリーシャわたくしはジル様に捨てられたと傷つくことも、コーデリア様に階段から突き落とされて死ぬこともなくなるはず……!)


 そうなれば、きっとわたくしの無念も晴れて成仏できるかもしれない。

 こうしてジル様の体の中に蘇ってしまったのだって、コーデリア様との浮気の証拠を集めるためだって考えれば納得がいく。


(わたくし、きっとそのために戻ってきたんだわ!)


 てんけいを受けたようにひらめいたわたくしは、この何も知らないアリーシャの未来を守るために頑張ろうと決意した。


 その後、アリーシャと入れ違いでやってきたブライト様から、わたくしたちの状況について伝えられた。すぐに解決できるものじゃないことを知らされたジル様は、ブライト様からかばんを受け取って校門に向かって歩きだした。しかし、いくらも進まないうちに不意に足が止まった。

 どうしたのかしらと思って、あたりに人がいないのを確認してからたずねてみる。


『えっと、どうかなさいましたの?』

「……すぐに解決できると思って我慢していましたが、もう限界です―――― トイレに行かせてください……」


 うめくように言われたのは、しくも男子トイレの前だった。

 わたくしはおトイレに行きたいとは感じていなかったけれど、ジル様はずっとトイレを我慢していたらしい。トイレのドアを開けようとするジル様を、はっとなって止める。


『待って! お願い待って! わたくしまだ結婚前なの!』


 うら若きおとなのに男子トイレに入るなんてできないと訴えると、ジル様はせっまったような声で反論してきた。


「僕だって、こんな状態でトイレになんか行きたくないですよ! かといって、女子トイレに入るわけにもいかないでしょう! 他にどうすることもできないんです。目をつむって差し上げますから、どうか我慢してください!」

『ひぃやああああああ!』


 わたくしは恥ずかしさと恥ずかしさと恥ずかしさに、ぎゅっと目をつむってやり過ごした。

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