第58話 侵入者

「ああ、俺だ」

「嘘…、そんなはずない」

「嘘じゃない。本物だ」


 夢じゃないんだろうか。

 だってこんなところにいるはずがない。

 ここはメルトアンゼル皇国のお城の中で…他国人の彼が勝手に入って来れるような場所じゃない。

 本人を目の前にしてもまだ、私は疑っていた。


 するとガイアの顔をした人物は、傍にやってきてその胸に私を抱き寄せた。


「サラ…、会いたかった」


 彼の胸に強く抱きしめられて初めて、それが現実だとわかった。


「無事でよかった。攫われたと聞いて、心配したんだぞ」


 ガイアの顔がこんなに近くにあることが、まだ信じられなかった。

 アイスブルーの瞳が、私を見下ろしている。

 見慣れているはずの顔なのに、すごくドキドキする。


 端正な顔が近づいて来て、私の唇に口づけた。


「ん…っ」


 ああ、この唇の感触。

 私の知ってる唇だ。

 知っている匂い、知っている胸、息遣い、体温…。

 何もかもが懐かしく感じた。

 こんな風にキスされたのは、もう随分前のことのような気がした。


 ついばむような軽いキスから始まり、やがて舌を絡めるような深く濃厚な口づけになって、私は夢中になった。

 ようやく唇が自由になったかと思うと、今度は息が苦しくなるほど強く抱きしめられた。


「ガイア…本物…?」

「ああ。やっと信じたか?」


 別れて数か月しか経っていないのに、なんだかもうずっと長い間会っていなかった気がした。

 背伸びをし、両腕を伸ばして背の高い彼の首に抱きついた。


「ガイア…ガイア」


 ガイアは私の体を優しく抱き留めてくれた。

 私たちは、しばらくそうしてお互いの体温を確かめるように抱き合っていた。

 ガイアは私の額に口づけを落とした。

 それがなんだか懐かしくて嬉しくて、涙が出てきた。


「…また泣く」

「ガイアのせいだよ…」

「そんなに俺に会いたかったのか?」


 相変わらず自信満々で偉そうだ。

 だけどその言葉は私の気持ちをストレートに言い当てていた。


「…うん…会いたかった」

「素直だな」


 彼の手が私の頬に触れる。

 その親指で、頬の涙をそっと拭ってくれた。

 アイスブルーの澄んだ瞳が、私を優しく見つめる。

 もうそれだけで、胸がいっぱいになった。


「…どうやってここまで入ってきたの?」

「協力者が手引きしてくれたんだ」

「協力者?この城の中にいるの?」

「ああ。おまえを迎えに来たんだ。すぐにここから脱出しよう」


 彼はそう言って私の腕を取った。


 脱出…?

 ここから逃げるってこと?


 それで、ハッと我に返った。


「ダメ、無理…!」


 私は彼の手を振り払った。


「どうした?」

「私がここから逃げたら、アデレイドさんが追ってくるに決まってる」

「そんなことはわかっている。だから連中の手の届かないところへ逃げるんだ」

「逃げるってどこへ?アデレイドさんはガイアの素性も屋敷の場所も知ってるのよ?私を探して、屋敷を襲うかもしれない。そしたらサンドラさんやあの屋敷にいる人たちを危険に晒すことになっちゃうんだよ?」

「そんなことは想定内だ。屋敷の者たちには別の場所に移ってもらえばいい。おまえは何も心配しなくていいんだ」


 ガイアは余裕のある顔で言った。

 私が心配するようなことは、彼にはとっくにお見通しなんだろう。

 だったら、私をどこへ連れて行くって言うんだろう。

 まさか…アレイス王国のお城?

 それこそ無理だ。


「…だけど、私が戻ってもガイアを困らせるだけでしょ?」

「なぜ俺が困るんだ」

「私、聞いたんです。ガイアがアレイス王国の王子様だって。ガイアは貴族のお嬢様と結婚して、次の王様になるんでしょう?そしたら私の居場所なんかないじゃない」

「…そうか、聞いたのか」

「…どうして黙ってたの?」

「俺が王子だと知ったところで、奴隷のおまえには関係ないことだろう?」


 その言葉は私の胸に突き刺さった。


「そ、それは…そうだけど…。だったらどうして会いに来たのよ…。奴隷なんか放っておけばいいじゃない…!」


 私は彼に背を向けた。

 こんなときでも意地悪な彼が腹立たしい。


「自分の持ち物を取り戻しに来て何が悪い」


 彼は私の背後から顔を寄せ、耳元で囁いた。

 

「ルドヴィカとは結婚しない」

「え…?」


 私は驚いて振り向き、彼に向き合った。


「婚約は破棄してきた。俺はそのために王都へ行ってきたんだ」

「本当に…?」

「ああ、本当だ。だから何も心配はいらん。俺の元へ戻ってこい」


 ガイアは私に手を差し出した。

 だけど私はその手を取ることを躊躇した。


「おまえがこだわっているのはウルリックのことか」


 私はハッとしてガイアの顔を見た。


「図星だな」

「…ガイアは私がウルリックさんに襲われること、知ってたんでしょ?実験だなんて言って、薬を盛られて、体の自由を奪われて…すっごく怖かったんだから…!」

「すまなかった。まさか奴があんな姑息な手段を使うとは思わなかったんだ」

「でも、ウルリックさんはガイアから私の同意を得るならいいって、許しを貰ったって言ってたわ」

「…ああ、その通りだ」

「…!」


 私は耳を疑った。

 こんなにすんなりと認めるなんて。

 やっぱり、ウルリックのすること、ガイアは認めていたっていうの?

 そんなこと言うはずないって思ってたのに。

 …信じてたのに。


「同意なんて、するわけないじゃない!ガイアは私が他の人に抱かれてもいいって思ってたの?」

「おまえが断れば、奴も諦めると思っていた」

「なら、どうして初めからウルリックさんの行動を止めてくれなかったの!」


 私は責めるように言った。

 だって、おかしいよ。

 ウルリックの言う事は聞くくせに、私の意思は無視なの?

 奴隷には意志なんかないって思ってるの…?


 すると彼は眉間に皴を寄せて、片手で白金プラチナの髪をわしゃわしゃと掻きながら、大きくため息をついた。


「…正直に言おう。俺は異界人としてのおまえの性質を知っておきたかったんだ」

「…!」

「だから、ウルリックを止めなかった」


 その言葉に私はショックを受けた。

 それが本音…?

 ウルリックの言った通りだったんだ…。


「結果的におまえを実験に使うようなことになってしまって、すまないと思っている。ユージンが間に合ったようで良かった」


 間に合って良かった?

 本気で言ってるの…?


「俺の魔力が飛躍的に上昇したことは知っているな?」

「…はい」

「それは俺がおまえを抱いたからだ。その恩恵としておまえは俺に膨大な魔力を与えた。この力は強大だ。実際、俺はこの力を使ってメルトアンゼル皇国に奪われた国境砦を取り返したんだ。おまえもこの話は知っているはずだ」

「え…!」


 その告白を聞いて、思い出した。

 それは以前、商談先で話題になっていたことだ。

 あの時は、この世界にも優秀な魔法師がいるんだなってくらいにしか思っていなかった。

 それがまさかガイアの仕業で、皇帝を敗走させた張本人だったなんて。


「この力を初めて使った時、その威力に俺自身も驚いた。その時ふと、疑問に思ったことがあった。おまえが俺以外の誰かにも、同じように恩恵をもたらす可能性があるのではないかと。ウルリックも同じことを考えていた」

「…私が他の人に抱かれても、魔力を与えるのかどうかってこと…?」

「そうだ。もしそうなら、なんとしてもおまえの秘密を守らねばならん。秘密を知った者が魔力を欲して、おまえを狙うやもしれん。それを確かめるため、おまえを調べさせて欲しいというウルリックの申し出を許したんだ」


 ガイアの言おうとしていることはわかる。

 きっと、彼の言うことは正しいんだ。

 だけどそこに私の意思はない。

 あるのは異界人としての価値だけ。


「…結局、ガイアは私を異界人としてしか見てなかったんだね」

「そうじゃない、俺はおまえの力を知ろうと…」

「私には異界人だってことは忘れろって言ったくせに!」


 自分の気持ち全部を否定された気がして、悲しくなった。

 また涙が溢れだしてくる。


「私のことより魔力の方が大事なのね?そのためなら、私が他の人に抱かれても平気なんだ?」

「そうじゃない!俺だって悩んだんだ。自分の女が他の男に抱かれて平気なわけがあるか!」


 即答する彼に、私は目を見開いた。

 私のことを「自分の女」って言った…。


「おまえの持つ力のことを知りたいと思う反面、おまえをウルリックに渡したくないという気持ちも強かった。…あの朝まで、俺はハッキリと決めかねていた。奴の申し出を条件付きで許しはしたが、やっぱりおまえが心配で、ユージンを行かせたんだ。…俺の優柔不断が招いたことで、辛い思いをさせたことはすまなかった」


 ガイアは額を押さえて苦悶の表情を見せ、私に謝罪した。

 今まで見たことのない顔だった。


「…そんなに心配なら、どうして自分で助けに来てくれなかったの?ユージンさんを寄越すくらいなら、ガイアが来てくれれば良かったのに。私、何度も何度もガイアを呼んだんだよ?あの時、ガイア自身が助けに来てくれたら私…、それだけで良かったのに…」

「…俺にも事情があったんだ」


 何もかも、言い訳に聞こえてしまう。

 私がどんなに想っても、ガイアには届かない。

 王子っていう立場を捨ててまで、来てくれたりはしないんだ。


「ねえ…ガイアにとって私って何?」

「おまえは俺の奴隷だ」

「…そう…そう…だよね」


 正直、がっかりした。

 いつもの感じの、冷静な返答に。

 欲しいのはそんな言葉じゃないのに。

 彼にとって所詮、私は奴隷にすぎないってこと、改めて思い知らされた。

 …期待した私がバカだった。


「もういい…。私、ここに残る」

「何だと?」

「あなたとは行かない」

「せっかく迎えに来てやったのに、俺を拒絶するのか。そんなに俺に腹を立てているのか?」


 彼は苛立ったように、私の両腕を強い力で掴んだ。


「おまえは、何様のつもりだ」


 その乱暴さに、私は怯んだ。


「…だって…私の気持ち、ちっともわかってくれないじゃない!ガイアは私を奴隷としてしか、異界人としてしか見てない。私がどれだけ想っても、ちっとも応えてくれないじゃない…!」


 ガイアは困ったような表情をしていた。


「おまえは俺に何と言って欲しいんだ?」

「…そうやって、いつも私にばっかり言わせて…ガイアはずるいよ」


 いつもそうだ。

 私ばかり好きって言って、自分の本心を言ってくれない。


「ガイアなんか嫌い…」


 私がそう呟くと、私の腕を掴むガイアの手に力がこもるのがわかった。


「奴隷のくせに、この俺に随分と偉そうな口をきくようになったじゃないか。皇帝に甘やかされて図に乗っているんじゃないのか?」


 その顔は明らかに怒っていた。

 急に話の矛先が変わったことに私は動揺した。


「急に、何よ…。どうしてここで皇帝が出てくるの?」


 ガイアは、私の顔を覗き込むようにして言った。


「…さっきから俺を責めてばかりいるが、おまえはどうなんだ?」

「え?」

「おまえは今夜、皇帝の寝所に行っていたのだろう?」

「どうしてそれを…?」


 彼は態度を豹変させ、強い力で私をベッドに押し倒した。


「きゃっ!」

「あの男に抱かれたのか」

「は、話をすり替えないで…!」

「どうなんだ。皇帝に抱かれたのか?」


 彼は纏っていたマントを脱ぎ捨てると、キャミソールの上から私の胸を強く揉んだ。


「い、やっ…!」


 押し倒された拍子に露わになった私の両太腿を、彼は膝で無理矢理こじ開けた。


「俺以外の男に抱かれたりしないと言ったくせに、俺を裏切っているのはおまえの方なんじゃないのか」

「な…!」

「おまえだって、俺の気持ちをわかっていない」


 真剣な彼の顔が、怖かった。


「俺を拒絶するな。おまえは俺のものなんだ。それを思い出させてやる」


 その声はどこか切なく聞こえた。

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