第57話 皇帝
私のいる塔から皇帝の私室のある皇宮までは、実は結構な距離がある。
城の外にある塔からは、城内に入る時と皇宮へ入る時と、二重の検問を通らなければならないので、顔パスのウォルフやエルマーが一緒でなければ、私一人では絶対たどり着くことができない。
夜も遅いので、城内の通路を歩いている者は貴族の世話係のメイドか、警備の巡回兵くらいなものだ。
そんな人気のない城内の通路を、エルマーに先導されて歩いて行く。
皇帝の私室に入る前、エルマーがふと話しかけて来た。
「サラさん、陛下はお酒を召し上がっておられます。何かあれば私をお呼びください」
「何かあればって…?」
「陛下は酔った翌日、記憶を失くされることがあります。そのような状況で同衾していた女性が怪我をしていたことが何度かありました。おそらくは酔った勢いで乱暴されたのではないかと」
「え…!」
「私は衝立の向こうへ行くことは禁じられておりますので、お呼びいただかねばお助けすることはできません」
「は、はい…!わかりました」
もしかして、お酒が入ると暴力振るうパターン…?
いつも温厚な人がお酒で豹変するとかって聞いたことがある。
ちょっと怖いな…。
それでも私は断ることも出来ず、皇帝の部屋に恐る恐る足を踏み入れた。
いつも点いている光石の照明が消えていて、薄暗かった。
エルマーに手を取られて、仄かな光を頼りに広い部屋の奥へと進む。
灯りは、奥の衝立の向こうから漏れ出ていた。
エルマーは衝立の前で待機して、私をその向こうへ送り出した。
衝立の奥へ行くと、ふかふかの絨毯の上に皇帝のものらしき礼服や靴などが脱ぎ散らかされていた。
その先にあるソファに、皇帝キュリオスは腰かけていた。
皇帝はガウンをひっかけただけの裸同然の格好で、目を瞑っているように見えた。
彼の座るソファの脇には、自立式の照明具があって、それがこの部屋の唯一の灯りだった。
私が近づくと、皇帝は目を開けた。
「来たか、サラ」
「は…はい」
「隣へ座れ」
「はい…」
私が皇帝の隣に座った途端、肩に腕を回してきた。
なんだかいつもと様子が違う彼に、少し戸惑った。
薄暗いせいか、皇帝の表情がよくわからない。
お酒の強い匂いがした。
やっぱり酔ってるんだ。
「あの…陛下は、貴族のパーティーに行かれてたんですよね?」
「くだらんパーティーだった。あんな強欲な連中と同じ空間にいるだけで性根が腐りそうだ」
皇帝は吐き捨てるように言った。
「皇帝陛下をパーティーに呼べるなんて、有力な貴族なんですね」
「ああ、無視するわけにもいかんからな。顔を出して用件だけを済ませてきた。後は母上に任せて帰ってきたのだ」
「…お酒、飲んでるんですね」
「あの連中と話すより、一人で飲んでいた方がマシだ」
よく見ると、床にお酒の瓶や器が転がっていた。
飲み足りなかったのか、帰って来てからも随分と飲んでいたようだ。
皇帝ともなると、いろいろと気苦労もあるんだろうな。
皇帝は、ふぅ、と深く息を吐いて、真剣な顔で私を見た。
その息さえお酒臭くて、私はどうしていいかわからなくなって席を立とうとした。
「…あ、あの、お水…持ってきますね」
「いらぬ」
皇帝は私の腕を掴んで引き寄せた。
再びソファに座らされた私は、驚いて彼を見つめた。
「あ、あの…?」
「体の印もとっくに消えているはずだ」
「え…?」
「いい加減、余のものになれ」
皇帝は私の肩を抱き寄せて、顔を近づけて来た。
予想外の展開に、私は動揺した。
「あ、あのっ…!私、そういうつもりじゃ…」
「余が嫌いか?」
「嫌いじゃ…ないです…。でも…私、貴族じゃないし、身分が…」
「そんなもの、どうとでもなる。余の決めたことに誰も文句は言わせぬ」
「へ、陛下…」
私は答えに迷っていた。
皇帝のことは嫌いじゃない。だけど、恋愛対象として考えたことはない。
「女というものは余の顔色を窺って、愛想笑いで相槌を打つだけのつまらぬ存在だ。そのくせ怠惰で贅沢で傲慢ときている。なのに余の前では口答えもせず、従順な人形を演じて抱かれるだけだ。だから時々、生きた人間かどうか確かめるために痛めつけてやりたくなる。だがおまえは違う。賢く、表情豊かに自分の言葉で余と対等に話す。おまえのような女は初めてだ」
少し呂律のまわらない口で言うと、皇帝はいきなり私を引き寄せ、唇にキスした。
私は驚いて目を見開いた。
「ん…っ」
皇帝は、口づけしながら私のガウンを脱がせ、キャミソールの肩紐に手を掛けた。
「っ…!」
私は咄嗟に自分の胸の前で両腕を交差させ、キャミソールが落ちないように押さえた。
それが気に入らなかったのか、皇帝は唇を離し、私の両手首を掴んだ。
キャミソールがストン、と太股まで落ちた。
皇帝は胸元から脇腹へと視線を移した。
「消えているな」
「あ…」
彼は私の体を覗き込むようにキスマークが消えているのを確認した。
脇腹近くにあったはずのそれはもう跡形もなく消えていた。
「あ、あの私、まだ生理…」
「構わん」
どうしよう、どうしよう。
私は震えながら、皇帝を見つめた。
不意に皇帝は私の首にかかっているネックレスの青い宝石を指で掴んだ。
それをじっと見て、フンと鼻を鳴らした。
「おまえが余のものになったらこの青い石よりも、もっとずっと価値のあるものを贈ってやる」
「陛下…、私は…」
皇帝がこの宝石を贈った男に対抗心を抱いていることは明らかだった。
皇帝は私の両肩を押してそのままソファに押し倒した。
体の上にのしかかられて、もう抵抗できなくなった。
皇帝はもう一度キスをしてきた。
強い力で抑え込まれながら、彼の片手が体を這いまわるのを感じた。
「あ…っ」
彼の手が私の太股を撫でる。
その指は内腿をまさぐり、下着の中へ侵入しようとした。
私は咄嗟に彼の腕を手で押さえた。
「や…っ、ダメ…」
「今まで我慢してやったんだ。今日こそ余のものになってもらう」
皇帝の手は私の制止を振り切って下着の中に強引に入り込んだ。
「やだ、やめて…お願い…!!」
皇帝は私の反応を楽しむように笑いながら、下腹部から手を引き抜いた。
その指先を眺めながら、ニヤリとした。
「余に嘘をついたな?生理は終わっているじゃないか」
「あ…」
バレてしまった。
もう言い訳できない。
「ならば遠慮はいらぬな」
再び唇を奪われる。
お酒の匂いが鼻を突いた。
「ん…ふっ」
庭園でされたキスなんかよりももっとずっと濃厚なキスだった。
ガイアしか知らなかった唇は、他の男性の唇を受け入れて戸惑っている。
舌の絡め方も、何もかもが違う…。
私、ガイア以外の人に、抱かれようとしてる。
「皇帝…陛下…、ダメです、私…」
皇帝は無言で私の唇から首筋へと唇を移動させた。
荒い息遣いだけが耳元で聞こえる。
私は流されるまま、彼の愛撫に身を委ねていた。
「あっ…ん」
私の体は、その違いを感じていた。
ガイアとは違って、少し性急で乱暴に感じる。
ガイアは私の気持ちいい所を知ってて、丁寧に時間をかけて感じさせてくれたけど、酔っているせいなのか皇帝の愛撫は本能的で、ただ行為をむさぼっている感が否めなかった。
比べるもんじゃないってわかってるけど、私の中でその違和感はだんだんと大きくなっていった。
やっぱりダメ…
こんなの違う。
私が欲しいって思ってるのは…
それに、他の男性と比べながら抱かれるなんて、最低だ…!
どうにかして逃げるしかない。
でも、強い力で押さえつけられていて、体をよじることさえ困難だ。
私は、彼の下から逃れようと、じたじたともがいた。
ふいに、皇帝の体重がズシリとのしかかってきた。
お、重い…!
私は力を振り絞って、両腕で皇帝の胸を押し戻した。
すると、皇帝の体は意外にも簡単に、私の上からズルリと絨毯の上に転げ落ちた。
「えっ?」
あまりのことに驚いて、起き上がってソファの下を見た。
皇帝はソファ下の床に大の字になって転がっていた。
何事か、異変が起こったのかと驚いて、皇帝を観察すると、彼は目を閉じたまま、すうすうと寝息を立てて眠っていた。
ホッとした。
どうやら酔いつぶれて寝ちゃったみたいだ。
「ふぅ…た、助かった…」
あのままだったらたぶん、最後までされちゃってたかもしれない。
そして私はそれを拒否できなかっただろう。
私はホッと息をついて起き上がり、身なりを正した。
「エルマーさん、エルマーさん、来てください」
私は抑えた声でエルマーを呼んだ。
彼はすぐさま来てくれた。
そして、床に転がって眠っている皇帝を見つけて絶句していた。
「行為の最中に寝落ちとは珍しい。よほどあなたに心を許しているんですね」
「いえ、たぶん、お酒をたくさん飲んだせいだと思います」
「陛下は結構お酒には強い質なんですよ。この程度で寝落ちなんかしません」
「そうなんですか?」
「陛下はこれまで多くの政敵を葬ってきました。敵は一掃されましたが、密かに恨みに思う者もいるでしょう。そんな不安から解放されようとよくお酒を召し上がっておられるのです。ですが、このように無防備に眠ってしまわれることなど初めてです」
「疲れていたんでしょうか…」
「そのお疲れを癒すために夜毎女性を抱いておられたのですが、誰も陛下のお心の安らぎにはなれなかったようです。これまで寝室で共に朝を迎えた女性はおりません」
エルマーは眠っている皇帝を抱え上げて、奥の部屋へと運んで行った。
奥の部屋には皇帝の寝所がある。常に暗殺の危険と隣り合わせだった彼は、即位してからこれまでそこに女性を入れたことはないとエルマーは言った。
たいていはここで行為を終えた後、女性を追い出して、奥で一人で眠るのだそうだ。
ここへ来た時、皇帝は私に『余のベッドで一緒に寝て行くか?』なんて冗談めいたことを言ってたけど、それってなかなか貴重なことだったんだ。
エルマーは皇帝を寝室に寝かせて戻ってくると、私を塔の部屋まで送ってくれた。
無口な彼は、私を塔まで送ると、軽く会釈をして引き揚げて行った。
「はぁ…」
一人になると、私は部屋のベッドに座り込んで深くため息をついた。
皇帝が酔っていてくれて良かった。
彼のことは嫌いじゃないけど、特別好きってわけでもない。
最後までしたらきっと後悔すると思った。
…だけど、次は断れないだろう。
一体どうしたら…。
「ため息などついて、どうした?」
突然、男性の声がした。
「えっ?」
驚いて部屋の中をきょろきょろと見回した。
一体どこから声がしたの?
すると、ベッドの脇からゆらりと黒い影が現れた。
「きゃあ!」
私は悲鳴を上げて思わずベッドから立ち上がった。
「な、何?誰?」
「シッ、静かに」
「こ、来ないで!人を呼ぶわよ!」
黒い影だと思ったのは、黒いフードを被ったマント姿の人物だった。
「俺だ、サラ」
その声に聞き覚えがあった。
その人物は黒いフードを後ろにはねのけて顔を晒した。
私は目を見開いて、その人物の顔を凝視した。
それはそこにいるはずのない、私が良く知っている顔だった。
「ガイア…!?」
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