第53話 庭園

 私は初めて訪れる庭園に目を奪われていた。

 そこは私たち異界人の制限区域外の場所で、遊歩道に沿って様々な種類の花々が植えられ、歩きながら草花を眺められる美しい庭園だった。


 突然訪れた皇帝に私は、庭を散策するだけだからと、普段着のまま連れ出された。

 塔を出て、城壁の内側をぐるりと回って城の中央の庭園へとつながる遊歩道を、皇帝と歩いた。

 少し離れてエルマーがついて来ていた。


「素敵なところですね」

「先代の皇帝が整えた自慢の庭園だ。ここには皇族と身分の高い貴族しか入ることはできぬ」


 どうりでさっきから誰にも会わないはずだ。


「先代って…お父さんですか?」

「ああ。庭いじりくらいしか取り柄のない男だったと母はよくボヤいていた」

「アデレイドさんでもそういうこと言うんですね」


 アデレイドも旦那さんの愚痴を言ったりするんだな。

 ちょっと意外な気がした。


「母は野心家だからな。覇気のない父とは最後までそりが合わなかった」


 なんかそれはわかる気がする。

 アデレイドさんってなんかこう…グイグイ来る感じがするもんね。土いじりが好きな草食系男子には難しい相手かもしれない。


 そうして歩いていくと、噴水のある広場にやってきた。

 広場の奥は、なだらかな丘になっていて、そのずっと奥の方まで緑の芝生が広がっている。

 その丘の上には白い石造りの東屋あずまやがあった。


 ちょうどその時、そこで三人のうら若い貴族の令嬢たちがお茶会を開いていた。


「お茶会日和ですわね」

「マリーさん、日に焼けてしまいましてよ。こちらへ」

「あら、クララさん」


 派手なドレスを身に着けたマリーとクララといううら若い女性たちは東屋の傍で佇んでいた。


「マリー様、クララ様、お茶のお支度ができました。東屋へどうぞ」


 彼女らに声を掛けたのは初老の男性だった。

 白シャツにえんじ色のリボンタイを締め、その上から黒いベストのスーツを身に纏った、オーソドックスなスタイルの執事である。


「マルガレーテお嬢様はこちらへ」

「ええ」


 執事の傍にはもう一人、ひときわ着飾った令嬢がいた。

 マルガレーテと呼ばれたその令嬢は薄紅色のドレスを纏い、首には大きな赤い宝石のついたネックレスをつけた美女で、それは執事の主の娘であった。


 マリー、クララ、マルガレーテという三人の女性たちが席につくと、執事は茶器にお茶を注ぎ始めた。

 彼女たちの前のテーブルには軽食やお菓子などが並んでいた。


 うら若き貴婦人たちは噂話に花を咲かせていた。

 彼女らのもっぱらの話題は、次の皇妃に誰が選ばれるのかということだった。


「いろいろな方のお名前がお妃候補の噂に上りますけど、まだどなたにもお声がかかりませんわね」

「皇帝陛下は面食いですもの。難しいのですわ」

「やはり皇妃に相応しいのはマルガレーテ様をおいて他にはいませんわね」


 マリーが言った。


「ええ、同感ですわ。それにディラン公爵家は皇族の血統に連なる名家ですもの」


 それにクララも同意した。


「家柄、容姿、どれをとっても文句のつけどころがありませんわ」


 彼女たちは、同じテーブルにいるマルガレーテを口々に褒め称えた。

 マルガレーテは白い肌と翠の瞳をした美少女で、赤みがかった金髪を美しく結い上げ、花飾りで髪を留めていた。

 濡れたような大きな瞳は、どんな男でも虜にして見せるという自信に満ち溢れていた。


「お二人共、気が早いですわ。まだお妃候補に名前が挙がっているわけでもないのに」

「来週の皇太后様のサロンには招待されているのでしょう?」

「ええ」

「決まりですわ。ねえクララさん?」

「ええ。次のサロンでは皇妃候補の方々が勢ぞろいするという話ですわよ。きっとそこで皇帝陛下の第一夫人に指名されるに違いありませんわ」


 マルガレーテはお茶の入った器を手に、愛想笑いをした。

 周囲に言われるまでもなく、彼女は自分こそが妃に相応しいと考えていた。

 若い皇帝が即位した頃から、両親にも期待され、自分でも意識するようになった。

 皇帝は冷血で恐ろしく、愛人をモノのように扱うという噂だが、名門大貴族の令嬢である自分には気を遣って優しく接するはずだと思っている。

 そして皇帝に愛人が何人いようと、皇妃にさえなれればそれでよいのだと理解もしている。愛人などどうにでも始末できる。


 だが皇妃になるためには、皇太后に気に入られることが大前提である。

 現に有力な皇妃候補と見られていた貴族のある令嬢が、皇太后のサロンでマナー違反を犯して睨まれ、その後皇太后からサロンには二度と呼ばないと宣言された。彼女が皇妃レースから脱落したことは明らかで、皇妃をめざす貴族の令嬢たちにとっては大きなショックだった。


 その時、クララがふと噴水の方に目をやった。


「あら、あちらをご覧になって。噂をすれば、皇帝陛下ですわ」


 クララの言葉を受けて、令嬢たちが噴水の向こう側に目をやると、そこに若き皇帝の姿を見つけた。


「陛下がこんな明るい時間にお出ましになるのは珍しいですわね」


 マルガレーテは目を細め、噴水の向こう側の通路を歩く皇帝の姿を見た。

 その隣には、彼女らの知らない女性がいた。


「あら…隣にいるのはどなたかしら」


 その女性はまっすぐで艶やかな黒髪を結いもせず、肩の下まで無造作に下ろしていて、地味目のワンピースを着ていた。

 何より彼女らを驚かせたのは、滅多に笑わない皇帝が、その女に笑顔を見せていたことだった。


「…随分と親しそうですわね」


 マルガレーテは苛立ちを隠せずに言った。

 クララとマリーも、その女性を好意的には見ていなかった。


「地味ないで立ちですわ。あんな普段着で陛下と歩くなんて非常識すぎますわ。メイドか下働きの女じゃありませんの?」

「まさか!皇帝陛下がメイドを連れてこんな昼間から庭園を散歩なさるはずがないわ」

「ではあれは誰なんですの…?」


 マリーとクララは身を乗り出して皇帝と歩く見知らぬ女に注目した。

 マルガレーテも、普段着のその黒髪の女を凝視していた。

 黒髪は美しかったけど、華奢で胸も尻もそれほど豊かではないように見える。自分と同じか、年下のようだが、そんな見ず知らずの女がなぜ皇帝と昼間から庭園を歩いているのか。


 マルガレーテは、給仕をしている執事に尋ねた。


「ねえ、爺や。あの黒髪の女性を知っていて?」

「いいえ、存じません」

「そう…」

「ですが、このところ頻繁に陛下の寝所に出入りしている女性がいるとの噂を聞いたことがございます」

「寝所ですって…?」

「おそらくお気に入りの愛人なのでしょう。良家のお嬢様方がお気にされるような者ではないと存じますが」


 執事はそう言って彼女らを安心させようとした。

 だがマルガレーテは、その女が只者ではないと直感した。皇帝をその美貌や肉体で誘惑するような愛人ならば、昼間からあんなすっぴんで出てきたりはしないはずだ。

 彼女らは、ああだこうだ推論を交わしながら二人をじっと見つめていた。


 そんなこととは露ほども知らず、私は皇帝の隣を歩いていた。

 噴水広場の周辺には色とりどりの花が咲いていてとても綺麗だ。


「あの、陛下。連れてきていただいてありがとうございます。…でもいいんですか?私、アデレイドさんに、あまり外に出ちゃいけないって言われてたんですけど」

「構わん。余が許すのだ。それに、若い娘があのような塔に閉じこもってばかりいるのはあまり感心せぬ」

「そりゃそうですけど…」

「そなたもあの娘たちのように、外に出て遊びたいであろう?」

「え?」


 皇帝が指さした方向を見ると、噴水の向こうに東屋が見えた。

 東屋と言っても、公園によくある休憩所みたいな簡素なものじゃなく、白い柱に囲まれた飾り屋根付きの優美な建物だった。

 その中に、綺麗に着飾った女性たちの姿があった。

 テーブルを囲んで、オレンジとかピンクとかひらひらのドレスを着た貴族のお嬢様方が、昼下がりにお茶会を開いているっていう感じに見えた。

 優雅でいいなあ…と、ちょっとだけ羨ましくなった。


 だけど、よく見ると50メートルほど離れた丘の上から、彼女たちは椅子から身を乗り出してガン見していた。


「あ、あの…、何かすっごく見られてるみたいですけど…」

「貴族の娘たちが集まって下らん話をしているだけだ。気にすることはない」

「…でもなんか睨んでるみたいですよ…?」

「フム、せっかくだ。少し見せつけてやるとするか」


 皇帝はいきなり私の肩を抱き寄せて、顔を寄せて来た。


「えっ…?」


 その唇が、私の唇に重ねられた。

 突然のことに、私は何が何だかわからず、目をパチクリと瞬いた。


 え…?

 キスされてる?


 噴水の向こう側から女性たちの悲鳴が聞こえた。

 見せつけるって…あの人たちにってこと?


 それは唇を重ねただけの軽いキスだったけど、私は目を見開いたまま固まってしまった。


「どうした?」

「あっ…いえ、あの…びっくりして…」

「フッ、これくらい挨拶みたいなものだろうに。口づけしたことがないのか?」


 こ、これくらい?

 キスされたんだけど!?

 挨拶って…普通、口にしないよね?

 皇帝にとっては挨拶程度のことなのかもしれないけど、私にとっては…。


「こ、こんな人前で、…恥ずかしいです」

「フ、初心ウブなものだな」


 皇帝は私の耳元で囁いた。

 そしてそのままこめかみにもキスをした。

 カーッと顔が熱くなる。


「か、からかわないでください…!」

「フッハハハハ」


 東屋の方から女性たちの声がまた聞こえた。

 きっと誤解されたに違いない。

 どうしよう、目立っちゃいけないのに…!


「今宵、寝所に来い。そろそろ例の痕も消えている頃だな?」

「え…?」

「言っただろう?あの印が消えたら抱いてやると」


 そういえばそんなこと言ってたけど…まさか本気だったの?

 それは困る…!


「あ、あの、ダメなんです。私今ちょうどアレの最中で…」

「アレ?」

「せ、生理…です」


 なんで男の人にこんなこと言わなくちゃいけないんだろう。

 世の中の女性たちって、どうやって断ってるんだろう?こんな恥ずかしい事、男性に言ってたりするの?


「…そうか。余は別に構わぬが」

「あの、お腹も痛くなったりするから、その…無理なんです」

「わかった。では終わるまで待っていてやる」


 皇帝はそう言ってニヤリと笑った。


 どうしよう。

 生理が終ったら、なんとか言い訳考えないと逃げられなくなっちゃうよ…!

 皇帝のことは嫌いじゃないけど、それとこれとは別だし。


 ガイア以外の人と、キス…。

 自分の意志じゃないとはいえ、なんだか罪悪感…。


 私が他の男性とキスしたなんて知ったら、ガイアはどう思うだろう。

 ヤキモチ妬いて、怒ったりするだろうか。

 ううん、ウルリックに私を抱かせるくらいだもの、勝手にしろとか言って突き放すかもしれない。


 …なんか考えたら辛くなってきた。


 私は落ち込んでしまって俯いたまま、顔を上げられなかった。

 皇帝はそれを、恥ずかしがっているのだと勘違いしていて、私の顔を覗き込んではからかうのだった。

 そして皇帝は東屋の女性たちにわざと見せつけるかのように、私の肩を抱いたまま広場を通り抜けて行った。


 一方、その一部始終を目撃していた東屋の令嬢たちの間には動揺が走っていた。

 マルガレーテも思わずテーブルに手をついて立ち上がっていた。

 その振動で茶器がカチャン!と音を立て、お茶がテーブルにこぼれた。

 良家の令嬢らしからぬその行動に、執事は眉をひそめた。


「人前で堂々とあんなこと…。どういうこと?許せない…!爺や、お願い。あの女のことを調べて。何とかしてちょうだい!」


 マルガレーテは声を震わせて言った。


「かしこまりました。この爺やにお任せください、お嬢様」


 初老の執事は胸に手を当てて、マルガレーテに礼を取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る