第2話 喪失

「んっ…」


 誰かに唇を塞がれている。


「んんー!」


 え?

 ええ?

 なにこれ?

 誰かが覆いかぶさっている。

 抵抗しようとしたけど、両腕が縛られているみたいで言うことをきかない。

 顔をそむけても、その唇が追いかけてきては塞がれる。


「ん、やっ、嫌!誰?」


「…ようやく目を覚ましたな」


 目を開けると自分を抑えつけている人物の、その顔がうっすらと見えた。

 薄暗くて、元々目が悪いせいもあってか、至近距離でもその顔はぼんやりしている。

 ほんのりとした灯りに照らし出されたのは銀色の髪をした、知らない男だった。


「誰…?」

「おまえのご主人様さ」

「え?」


 頭がぼんやりしている。

 寝かされたまま、両腕を頭の上で紐のようなもので拘束されていることに気付いた。

 何か嗅いだことのない、ハーブみたいな匂いが鼻腔をくすぐった。


「え?何…?」


 目の前の男は、私の顎を捉えた。


「やっぱり起きてないと面白くないからな」


 そういうと、再び男の唇で口を塞がれた。


 嘘…。

 私、今、キスされてる…?

 し、知らない男に!?


「いやっ…!」


 私は顔を振って男のキスを拒絶した。

 こんなのダメ…!

 だってファーストキスなのに…!!


「そう来なくちゃな。高い金を出して買ったんだ。楽しませてもらう」

「買った?それ、どういうこと?」

「おまえは奴隷商人に売られて、俺に買われたんだよ」

「ど、奴隷…?」

「おまえの体は隅から隅まで、よ~く調べさせてもらった」

「ええっ!?」

「初物か?」


 男はいきなり私の胸を鷲掴みにした。


「きゃあ!」


 その時初めて自分が裸だってことに気付いた。


「何するの!」

「…決まってるだろ。ベッドの上ですることは一つさ」

「い、嫌っ!やめて!」

「大丈夫、痛くないようにしてやるから」

「そ、そういう問題じゃ…ひっ」


 彼はそう言うと、私の首筋に唇を這わせた。

 なんだかぞわぞわする。

 これ、もしかして強姦されてる…!?


「い、いやあああ!誰か!助けて、誰か!」

「クッ…誰に助けを求めてるんだよ?」


 男の手が無遠慮に体を這いまわる。


「やだぁ!」

「…いいぜ、もっと啼けよ」

「お願い、やめて…!」


 両腕を拘束されていて、何の抵抗もできない。

 脚をジタバタさせても、男に抑えつけられてしまう。


「やだぁ…!は、初めてなのに…」

「本当に初めてかどうか、確かめてやるよ。まあ、嘘だったとしても、その様子じゃ経験は少なそうだしな」

「っ…」


 恥ずかしさと恐ろしさとが交錯する。

 まだ誰にも触らせたことのない体を、こんな男に奪われるなんて…!


「こんなの、嫌ぁ…!」

「フッ、新鮮な反応だ。興奮するな…」

「痛ッ…や、やめて」

「フッ…生娘というのも案外間違いではなさそうだ。もっと、トロトロになるまで可愛がってやるよ」


 喘ぐ私の口を塞ぐように唇を押し付け、歯列を割って舌を侵入させてきた。

 舌を絡める深いキスに、私は一瞬驚いて目を見開いた。


「んっ…」


 甘く激しい口づけに一瞬、思考を奪われた。

 こんなの、初めて…。

 これが、本物のキス…?


「下手だな。キスもしたことないのか?」


 男はクックと笑った。

 下手って言われても、したことないんだから仕方ないじゃない。


 そう言ってやろうかと思ったけど、男の指が与える快感に翻弄され、私は思考を奪われてしまう。

 やだ、私、無理矢理襲われているのに…。


 その時は不意にやって来た。

 激しい痛みと喪失感、そして理不尽に対する抗議の感情が入り混じって、涙が溢れてきた。

 私の頭の中は、 


 なぜ?

 どうして?


 で埋め尽くされていて、何の感情も沸いては来なかった。

 ただ、体に感じる痛みだけが私を苛み、涙が零れた。


「…どうして、こんなことするの…?」

「おかしなことを訊く。おまえは俺の奴隷になったんだぞ?」


 奴隷って何?

 何でこんなことになってるの?


 目の前にいるのは知らない男。

 何が何だかわからぬまま、組み敷かれて、乱暴されて。

 こんなのって、ない…!


 いつ終わるともない男の行為に、私は目を瞑ってひたすら耐えていた。

 心が伴わない行為に、何の意味があるんだろう。

 こんなの、ただの虐待だ。


 何で?

 どうして私がこんな目に?


 渇く暇がないほど涙が流れ続けた。


 荒い息が耳元に感じる。

 男はようやく動きを止めて、全体重を私の上に掛けた。

 不愉快な重さだった。

 やがて彼は私の上から退くとこう言った。 


「間違いなく処女だったな」


 彼がベッドのシーツを指し示した。

 そこには赤いシミがついていた。

 ドキッとした。


「ひっ…血!?生理…?」

「処女喪失の証だ。そんなことも知らんのか」

「えっ…?嘘…わ、私、処女を…失ったの…?」

「クッ、おかしな奴だな。今まで何をしていたと思ってるんだ?」


 初めての時は出血するものだと、話には聞いていた。

 だけどこんなに出血するとは思っていなかった。

 それでようやく自分が大切なものを失ったことに気付いた。


 こんなの嘘よ。

 夢だ、きっとこれは夢。

 悪い夢を見てるんだ。


 ふと、私の頬に光る涙を見て、男がそれを人差し指で拭った。


「そんな顔をするな。かなり優しくしてやったつもりだぞ?」

「これで?無理矢理こんな酷い事されてどこが優しいの?!」


 私は泣きながら叫んだ。

 すると男は愉快そうに笑いながら言った。


「酷い事か。おまえにしてみればそうだろうな。この世界は理不尽で溢れている。だが、おまえはそれを受け入れねば生きてゆけぬのだと理解しろ」


 両手を縛られたまま、私は泣き出した。

 私がこんな辛い目に遭っているのに、どうしてこの男は笑っているの?


「何を言ってるのかわかんないよ…」

「泣いても何の得にもならんぞ」

「もうやだ…。最低、最悪…っ!」


 この夢、どうして醒めないの…!


「ヤるだけやって満足したら、おまえを処分するつもりだったが…」

「え…?」


 処分?

 処分て何?

 もしかして殺される…の?


「気が変わった。俺が飽きるまでここに置いてやる。飽きたらその後はその体で稼いでもらう」

「は?稼ぐって…?」

「娼婦として、客を取ってもらう」

「しょう…ふ?嘘でしょ…?それって、売春…ってこと?」

「ああそうだ。それまでは愛玩奴隷として俺に奉仕するんだ」

「そんな…!冗談でしょ?私、奴隷なんかじゃないわ!」

「おまえが生き残る方法はそれしかない」

「生き残るって…?私、こ、殺されるの…?」


 涙でぐしゃぐしゃな私が問い掛けても、彼は答えてくれなかった。

 意味が分からない。

 何がどうなってるの?


「さて、まだ夜は長い。続きをしようか」

「ま、まだするの?」

「おまえのカラダ、すげー良かったからな。一度では物足りん。朝までつきあってもらうぞ」

「や、やだぁ…!赤ちゃんできちゃったらどうするの!」

「心配するな、避妊の香を焚いている。これを吸っている間は、孕むことはない」

「えっ?この匂いって、お香なの…?」


 男はニヤリと笑いながら、縛られていた私の両手を自由にした。

 そうして今度は背後から抱きしめられる。

 耳元で男が囁いた。


「おまえは俺の奴隷だ。それをわからせてやる」


 それは無慈悲な言葉に聞こえた。

 奴隷だなんて、意味が分からない。

 こんなの、嘘だ…。


 夢か現実かわからないまま、私は一晩中この男に嵐のように抱かれ、そのうちに意識を手放した。

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