61 イーシュ
何十年か前の事。社のあちら側から、迷い込んできたものがいた。
蛸にも見え、海月のようでもあり。真っ黒な正体不明のその者に、皆誰も近寄ろうとはしなかった。そいつも、何やら聞き取れぬ言葉を発し、独り陰にいる事が常であった。
このままでは、あまり宜しくない。小さな不和は、やがて大きな亀裂をもたらす。
「見知らぬ土地でことばも通じず、不安も大きいだろう?」
今まで見ていた所から察するに、それはまだ幼子だと思われた。言葉の意味は取れずとも、感情の機微には敏い風にも見えた。
怯えさせてはならない。この子には何の罪もないのだから。
「お前が怯えているように、周りもまた少し怯えているのだよ」
何事か呟き、奥へ隠れる。しかし時折こちらを伺うという事は、心を閉ざしてはいないという事。
「済まないね。通れる時は通れるんだが、今はそうではないようだ」
社を見にくる幼子は、こちらを振り向きまた呟く。
「……そちらが恋しかろう。何か慰めに、なれば良いのだが……」
そろりと、細い腕が幾本か伸ばされた。それは私の髪先を、僅かばかりに握り締める。
「……私はここにいる。いつでもおいで。ほら、周りも」
顔を巡らす私に合わせ、幼子も周りを窺った。縁から覗き込む者、岩の隙間、擬態して近寄ろうとしていたり。
「仲間になりたそうに、お前を見ているよ」
皆だんだんと、この子への警戒を解いていた。
この子は聡い。こちらの言葉もほぼ理解し、自分の置かれた状況も、とても冷静に受け止めた。
「イーシュ! あっちに何かあるって!」
「イーシュ違う! イーシュ!」
舌足らずながら名前も教えてくれた。どうしても私達には『イーシュ』としか聞き取れなかったけれど。
「あっ姫様!」
どうやら私は好かれたようで、見かける度に抱きつかれた。
「おやイーシュ。どうしたんだ」
「さっきね! 皆でね! でっかい流木を見つけたの! 姫様も見に来て!」
「分かった分かった。引っ張らないでくれ」
イーシュは元来明るい子らしい。そして強くもある。
「あ! イーシュ! ずるいぞ!」
「姫様! 私達も行きます!」
この子が来てから、周りも明るくなったように思う。
「ああそうだね。皆で行こうか」
私もそうだ。
いつからだろうか。この子を大切だと理解したのは。
「……*a*……*or……」
眠れないと私のもとに来たイーシュは、魘されるようにあちらの言葉を呟く。恐らく、父を母を探している。
「イーシュ……」
それを口惜しいと、思ってしまう。さ迷う腕や脚を握り、囁きを返す。
「私はいるよ。お前の傍に」
「…………ひめ、さま…………」
その流れは穏やかに、イーシュは安心して微睡んでいく。それを嬉しいと思ってしまう私は、相当毒されているようだ。
なのに! 守るべきあの子を! 私は!
「死ぬ気はありません。なので選びません」
髪の毛がギリギリと絞めてくる。そして力を吸い取ってもいく。
「十年前、お社が弾ける時」
姫様の顔が歪む。
「……まだ言うか」
「あなたよりイーシュが、早くそれに気付いた。そしてそれを抑えようとした」
「その口を閉じろ」
言うなり髪が、口どころか顔全体を覆う。
「……」
けれどこの程度、問題なく引き剥がせる。
「っ……姫様」
全てを取るのは面倒だ。口さえ動けば良い。
締め上げた髪を外された姫様は、少し驚いた顔になった。
「……お前……」
「そして一時、見事抑え込んだ。あなたがそれを更に抑えるのを見届けて、イーシュは崩れました」
だからあの海域は、それほど荒れはしなかった。
我に返った姫様は、またその顔を歪める。
「知ったような口を、イーシュを! お前が語るな!」
美しく恐ろしく、その顔は怒りに染まる。姫様の気が伝播して、周りの水も揺らめいた。
「姫様、イーシュは強い。それはあなたの方が知っている」
「当たり前だ!」
喰われそうなほど顔を寄せられる。歯、こんなに尖ってたっけ。
「……だから最期の力を使ってまで、あなたをこちらへ寄越したんだ」
その双眸に、悲しみが現れる。違うか。押し込めていた
「ぁのこは……止めろ、私は、護るために! あの子と!」
渦巻いた感情が響いてくる。護れなかった、捨てられた、拒まれた。
「姫様、あなたは生きてます。ダンさんやキンガさん達も生きてます」
「私はあの場で死んだ! 死んだも同然なんだ!」
もう私は何者でもない。愚かな死に損ないなのに。
そう思っていたいと、全身で泣き叫ぶ。
「……じゃあ姫様。イーシュの想いはどうなりますか」
「やめろ……止めろ!」
それこそ幼子のように、私の首を絞めながら姫様は
「私はもう姫などでは無い……! イーシュと共に──」
「っイーシュは『生きて』と言ったんだ! あなたに!」
もう身体に力が入らない。頭だけが妙にはっきりして、脳内の言葉がそのまま出て行く。
「あなたもそれを聴いたはずだ! 朧気に残った力全てで! 皆と生きてって! あなたが大切だから!」
「それでも!」
負い目、愛しさ、責任感や悲しみ、慈しみ、孤独。心の傷。
「……それでも、私は……共に……!」
首にかけられてた手が離れ、顔を覆う。巻き付いてた髪も解ける。
姫様はまた身体を丸め、けれど岩にはならずに、低く高く嗚咽を漏らす。
「……姫様、……」
目は覚めた。私に傷を抉られた、その痛みで。
「……はぁ。起こしたんだ。もう行くぞ」
「いや、まだ……」
このまま残していくのは、さすがに鬼畜が過ぎるだろう。
「戻んぞ。また倒れる気か」
「いやだから、っほぅあ?!」
ひょいと肩に担がれ、あ?! いつの間に狼男に!
「区切りはついただろう」
「いやついてな、待っ?!」
言い終える前に泳ぎ出すな!
「っ姫様! イーシュは還ったけど! 還っただけです! それに還ったって事は此処にもいます!」
伝われ! もう、なんかこう、伝われ!
「あなたも其処にいる! 皆いる! 私もいます!」
こっちを見ない姫様にどれだけ、……でも! 石にはさせない!
「あなたを無理矢理起こした
あれすっごい変な事言ってる気もする! ほらてつが溜め息吐いた!
「姫さっおわっ!」
空間の色が変わる。水じゃなく、空気の満ちる場所に出た。通路に戻ったんだ。
「姫様!」
ガラス越しの青の奥。泣いたままだけど、沈んでいくような揺らぎは感じない。
「……で?
「あっ遠野さ……?!」
降ろしてくれないので見下ろすようになった先で、遠野さんは頭を抱えていた。
「言ってくれますねてつさん……自分の発言が歯がゆかったでしょう」
気を入れ替えるように息を吐き、見た目だけの笑顔を向ける。けど、てつを見、私を見るその目の奥。気の揺らぎ。
「いやあまさか、榊原さん単独でやり遂げるとは。お疲れ様でした」
心配、安堵、驚嘆、憂い……?
……えぇと、やりすぎた、から?
「さて、そうなりますと。一つ伝えなければならない事があります」
そんな感情はおくびにも出さず、良くやったと言うように、堂々と話す。あ、私まだ、力を引っ込めてない。
「これが成功した場合には、『異常同調』の調査、収拾作業へ加えるようにと。これまた退ける事の出来ない指令です」
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