55 生々流転
「……」
肉眼でも分かる裂け目。そこから暴力的なまでに押し寄せてくる、異界の
まるで亀裂そのものが、痛みを訴えてくるようで。
〈──何が、誰か……! 苦し──助けて……──〉
「……なんで、そんなに」
泣いてるの。叫んでるの。助けを求めて来るのは、どうして。
〈……──痛い、嫌だ。死にたくない……なんで……!〉
意識をそこへ、向ければ向けるほど、強く。喘ぎ、泣き叫ぶ声が、私に入ってくる。辺りを破壊する淀みや濁りも、私に向かう。
〈なんで、なんで?! ここはどこ……厭だ、厭だ!〉
「っ……あなた達に、何が」
お社へ近付く。もう還れない
〈こんな、嫌だ! 死にたくない……死にたくない……!〉
もうそこしか、縋れないかのように。
「私に……あなた達を助ける、事は……」
〈──だ、嫌だ! ……痛いよぉ……────んで、どうして?! もう駄目だ。もう終わり──〉
声と共に、濁流が私にぶつかってくる。なんとか足を進める。
「……あー、もー……頭が……がんっがんする……!」
何か言ってないと呑み込まれそう。後少し、少しで亀裂に、手が届く。
〈──けて! 助けて! 誰か! ──ずじゃなかったんだ……──厭だ! もう殺し──〉
「お待たせ! しました! ……っ?!」
亀裂に触れた瞬間。指先から電流が走ったような、引っ張り込まれるような感覚に陥った。
いや、これは。何か、縋るみたいな。
「なんなの本当……! こっから……」
お社と取って代わるように、大きく広がった亀裂──傷口。そこにこびり付く……違う。
〈なんで?! ──どこ……? ──嫌だ。死にたくない──、……! 助け──〉
亀裂そのものから響く、慟哭。
「……あなた達は、何を」
より鮮明になるそれに、思わず息を呑む。
〈──苦しい、苦しい……もう、止めて──〉
そこまで、生きるも死ぬも出来ないほどの、何をされて。
これをした奴は、何を思って。
「……あの兄弟も、他のひと達も、…………てつも」
泣き叫ぶ声、助けを求める声、何も分からず苦しむ声。
「同じ事を」
された、んだろうか。……そうなんだろうな……そう、そういう事か。
そういう事をする奴が、またてつに手を伸ばしてるのか。
「また同じ事を? てつに? こんな目に会わせるために?」
深く、亀裂に。混ざる。行き場を無くしたひと達が、一層入り込む。
〈嫌だ、嫌だ厭だ嫌だ! ──何……なにが──助けて、殺して! ──〉
「私が、少しでも。あなた方の苦しみを、解き放てるなら……」
声を、一つ一つ掬い上げる。
お疲れ様、本当にお疲れ様。……今度は、どうか。こんな苦しみを知らずに、生きて。
〈──! ──……、…………〉
声が小さくなる。だんだんと穏やかに、微睡むように。
「……もう大丈夫。もう休んで、眠って、また還って来て」
声が止む。淀みが消える。
風が、吹き抜けた。
「っ! ……ぅぐっ」
全身の力が抜けて、思わず膝をつく。しかも勢いがついたので、ちょっと痛い。
「は、あ……」
もう、叫びは聞こえない。濁流は収まり、裂け目も小さく、流れも穏やかになった。
「あー」
終わった。出来た。何がどうしてこうなったのか分からないけど、収拾はついた。
「後は」
「流されたひと達の、ほ……ぅ?」
集められた
「……だれ?」
そのすぐ傍。知らない
「てつ……?」
てつはどうしてか、動かない。
「ってつ!」
窪地の斜面を駆け上がる。てつの気は歪み、砕け、千千に乱れ、恐れと困惑がない交ぜになっている。
何かあった、確実に何か。てつに何か!
「てつ! 何が、あ」
飛び出す勢いで縁を登りきる。その少し遠くに。
「は?」
乱雑に集められた結界と、てつと。
てつを抱き締める誰かがいた。
「え、は、はい?」
何、誰? どういう状況? 見てはいけない状況?
「て、てつ……?」
その
「……え、あ。夢で、見た」
人だと、鈍った思考が回り出す前に、そのひとは忽然と姿を消した。
「へぇ?!」
えっ待ってどこ行った?! は?! そもそも何今の?!
「は、いやなんってつ、て……てつ?! 大丈夫?!」
駆け寄っても返事をしない。揺さぶってもされるがまま。
「あ、あの、何が」
周りにいたひと達も、顔を見合わせ戸惑いを示すばかり。怪我とかは無いみたいで、そこは良かったけど。
「てつ、ねえ、何?! 何が?!」
あああ私も混乱してる!
剥製のように動かないてつを、揺さぶるしか出来なくて。けどその四つ足は、縫い止められたようにびくともしない。なのにその
「てつ! てつ!! 戻ってこい! まだいくな!!」
良く分からない台詞を吐きながら、思いっきり顔を殴った。本当に混乱してたんだと思う。
「っ…………、……あ゛?」
「てつ!」
気付いた?!
「は、あ?! 何してんだ
「こっちが聞きたい!」
「ああ?!」
てつが反射的に牙を剥く。
「よし、戻ってきたね?」
「は、何を、言っ……て……」
てつの揺らぎが?! また囚われる!
「行くなってば!」
「っ?! ばっ……いちいち殴んじゃねえ!」
今度は拳が大きく空振る。てつは目にも留まらぬ速さで、積み上げた結界の上に。
「何も! 問題はねえんだよ! 落ち着け!」
「そっちに言われたくな……いいや! 良い! 正気になったんなら良い!」
「もとから正気だ!」
誰が! ……や、言い合いしてる場合じゃないんだった。
「……てつ、それなら。このひと達を運んで、バラけたメンバーを集めて、遠野さんを探さないと」
「あ、お、おお……」
「姫様は! 姫様はご無事か?!」
結界の中から声が上がる。
「……無事です。船の方は、私達のメンバーも、先にそっちに行った方々も。姫様含めて全員無事です」
遠かったからかな。船との繋ぎが切れたりもしてないし、皆だんだん落ち着いていってるのが解る。
姫様はあのまま、目を覚ましてないけれど。
「皆さんも、すぐそちらへお運びします。安心して下さい」
ほっと息を吐くひと達へ目を向けながら、メンバーの位置を探る。
「……おい、杏」
「なに?」
気付いて、こっちに来る。AとBと、それぞれ固まって動きながら。
「お前、そろそろ限界だろう」
「は? まだ……っ?」
視界がぶれた。……ああ、もう。意識すると来るんだよ、こういうのって。
「ぅえ……あったま
「無理すんじゃあねえよ……」
てつの声に覇気がない。さっきの事があったから、強く言えないのか……?
「後少しなんだよ……? もう、遠野さんさえ、見つければ……」
どこに行ったんだ、あの人。
「止めろ、俺が探す」
「そんなら二人で探す……」
「お前……」
この場一帯に気を巡らす。てつも渋々、揺らめきを辿り出す。
「……
「船からこちらへ……? 何が、何かやったのか……?」
B班の人が訝しむ。
「亀裂を、出来るだけ元に戻しました。今、遠野さんを探してます」
「は?! 戻した?!」
うるさいな。集中したいんだけど。
「遠野を探す……力を、使ってるのか」
「何を、して、どうやって……」
辿る。遠野さんの欠片、残滓。漂う海中から、それが零れ出す場所を。
「おい、聞いて──」
「いた!」
私が振り向くのと、てつが駆けるのが同時だった。
「は? 何が」
「遠野さんです!」
言いながら水を掻く。全身の力を込めて、てつを追いかける。
「遠野さんが?!」
弱い。揺らめきがとても弱い。このままじゃ。
「おい待て!」
「榊原さん!」
「待てないのでついてきて下さい!」
A班はすぐに私を追ってくる。B班は躊躇い、顔色を悪くしてから追いかけてきた。
「……てつ!」
それほど遠くない、白化した珊瑚が覆う岩の割れ目。そこへてつが首を突っ込み、遠野さんを引っ張り上げる。
「遠野さん! ……てつ! 遠野さんは」
無事かと。そう聞く前に、声が途切れた。
「護符とやらが、砕かれてやがる」
口を離した、てつが呟く。溜め息と共に。
遠野さんの、ぐったりと力の抜けた肢体。半分閉じられた瞼の奥の、その瞳に。
光は、無かった。
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