第21話 気付き

「姫!大丈夫か?姫!」

「うぅん……」


 このシチュエーション、もう何度目だろうか。気付くと私は草むらに寝転んでいた。目を開けると、白い雲が映えるように青々とした空が見える。眩しい……光に目を慣らそうと何度か瞬きを繰り返す内、心配そうにこちらを覗き込む影が視界の端で揺れている事に気付く。目を凝らすと、見慣れたマクガフィンの姿がそこにはあった。

 ぼんやりとした意識が急に鮮明になり、私は弾けたように飛び起きると、すぐさま彼を抱き締めた。


「あぁ!マクガフィン!戻れたのね、良かった!良かったわ!」

「あぁ姫、泣かないでくれ……また水浸しになったら大変だぜ」


 安堵と喜びから、抱き付いたと同時に泣いていたらしい。頬を伝った涙がマクガフィンの丸い耳や顔の布地に染み込んでいく――懐かしい。幼い頃はずっと、彼が涙を拭ってくれていた。「ぬいぐるみはタオルじゃないのよ!」なんて、母さんによく怒られたっけ。

 一番最初に私が彼を汚したのは確か、プレゼントされた日の夜だ。とにかくずっと一緒に居たくて、彼を抱き締めたまま眠ったら案の定、よだれでベトベトになってしまったのだ。膝の上に乗せたままご飯を食べて、スープを全部引っ掛けてしまった時もあったっけ。初めて母さんから怒られたのも多分その時で、私は泣きながらずっと、洗濯機の前で洗い終わりを待っていた。

 彼とは本当に、ずっと一緒に居た。つまらないわがままで親と喧嘩した時も、友達と喧嘩した時も。泣きじゃくりながら彼を抱き締めると、どんな時でも優しく涙を拭ってくれたのだ。


――改めて、マクガフィンを見つめる。

 何度も私のよだれと涙を吸って、ゴワゴワと毛羽立った生地。連れ回す際にずっと握っていたせいか、両手の肉球のスポンジは表面が剥げて中の素材がペタペタとくっ付く。背中を見れば、大きな焦げ……これも私をストーブの火傷から守ってくれた結果だ。縫い直した右眼も、公園のフェンスか木の枝かに引っ掛けて取れたのだ。もし彼が居なかったら、それらは私に刺さっていたかも知れない。

 思い出の傷と別に、この世界で受けた怪我もちらほら見えた。ボロボロの手先に泥だらけの足元。私を守る為に、彼は自ら進んで傷ついていたのだ。

 そうして彼と向き合って、私は漸く気付いた。出会った頃の輝きを明らかに失っている筈の今のマクガフィンを、あの時以上に素敵だと、大切だと言える理由に。


「マクガフィン……ごめんなさい、やっと気付けたわ。アナタはずっと、本当に私を守ってくれていたのね」

「な、なんだよ今更。当然さ。言っただろ、守るって」

「違う、違うのよ。私は分かってなかったの。ごめんなさい。でも理解した。だからもう大丈夫よ。アナタが新品に戻る必要なんて無いの」

「それって、どういう……」

「マクガフィン。アナタがいま不安に思ってる事はね。全部、私達の過ごした思い出。アナタという存在の証明なのよ」


 そうだ。側から見れば薄汚れた彼の身体は、私が一緒に居たせいでボロボロになったのだ。私が彼を連れ回さなければ、彼が私を守ろうとしなければ、こんなに汚れる事はなかった。私と彼が出逢わなければ、彼はきっと、綺麗な新品のままだった。

 でも。だからこそ。新品と比べれば欠点に違いないそれらのキズは、同じ時を生きた私達にとっての価値となる。これは二人が一緒に過ごした証。刻んできた歴史なのだ。

 そう考えると、そのキズ達のなんと愛おしい事か!


「私が最初に目を背けた所為だわ。こんなにも愛おしいアナタを、長い間忘れて過ごしていたんですもの。幻滅するのが怖くて……いいえ。きっと、当時の私は幻滅してたんだと思う。でももう違う。過去の記憶に縋って、今を蔑ろにしていた私の方が間違ってたのよ」

「あぁ、そうか。そういう事か……!だから、オイラは新品になって自己喪失したんだ。オイラは醜くなってたんじゃない。このキズは、ただの時間による劣化じゃない!オイラが姫と過ごしたって事を、オイラが選んできた過去を、オイラのアイデンティティを肯定してくれる、唯一無二の印なんだ!」

「あぁ、嬉しい!今までずっと伝えられずにいた事をやっと言葉に出来たわ」

「ありがとう、姫。オイラ、漸く自信が持てたぜ。あの時から今までずっと、間違ってなかったんだ」

「お礼なんて。元はと言えば私が遅過ぎたのよ。ずっと不安だったでしょう。ごめんなさい」

「謝らないでくれよ。オイラこそ、姫の事を待たずに自分で解決しようとして、ややこしくして済まなかった。新品になった程度で解決するような簡単な問題じゃないって、分かっていた筈なのに。空回っちまってたんだ」

「もうこれで、大丈夫ね」

「あぁ。大丈夫だ」


 私達は暫く、心の底から溢れる喜びに溺れて抱き合った。遂に私達は旅を共にするパートナーになれた。そんな気がした。

 そうして気持ちが落ち着いて、私は唐突に自分が置かれた現状を把握しなくてはいけないという使命感に駆られた。


「なぁマクガフィン。そういえば、一体あの水筒はなんだったのかしら?ここは何処?黒い箱からは脱出出来たみたいだけど」

「あぁ、それは……」

「その説明は吾輩からさせて頂こう。アリスさん」


 懐かしい声に振り向くと、海原の様に広がる草原に二つの影が立っていた。




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