第9話 フーダニット卿の時計塔

 濃紺の夜空に包まれた町並みが、薄黄緑色のぼんやりとした光に包まれる。フーダニット卿は町に向かって両手を掲げた。


「そうそう、それで良いのよ。理想はそうやって叶えるべき……賢者を志していても結局、貴方は何処までも愚者なんだから」

「旦那様……」


 サラリーが縋る様な目で彼に声を掛けるが、反応は無い。お茶会の面々は皆、静かにその様子を見守っていた。


「ねぇ、誰も止めないの?このままで良いの?」

「ワシは傍観する事しか出来んな。何より姫の言う通り、このままお茶会を続けても賢者になれるか分からん。こちらの方が確実だし、彼にとっては良い選択だろう」

「……そんなワケないッ!」


 私の言葉にカエル男爵がたじろいだ。皆の視線が一斉にコチラへと向いて、自分が思いの外、大きな声で叫んでいた事に気付く。しかし、止まれない。もう我慢出来なかった。これ以上、影の少女の“らしい”言論に自己を否定された誰かが、そのままただの勢いに振り回されて破滅するのは見たくない。


「フーダニット卿は絶対に愚者じゃない!傍観や怠惰ってスタンスで賢者になったアナタ達からしたら、他者との関わりを増やして闇雲に動き続けるのは滑稽かも知れないわ。余計な物事には下手に首を突っ込まない方が賢い生き方だと思ってるんですもの、世界の調和の為にわざわざ魔女に立ち向かうなんて愚かに思えるわよね。でもこの不条理な世界で、自分以外の存在に手を差し伸べて、他者を食い物にせず自分なりの方法でがむしゃらに理想を叶えようとしている彼の生き方は、間違い無く慈愛に満ちた高潔なものよ!たとえ世界から認められなくても、アナタ達がどれだけ否定しても、私だけは!フーダニット卿は賢者になれると信じているわ!!!」


 私が啖呵を切ると、ネコの侯爵が私を宥めようと話し掛けてきた。


「アリスさん、何もそんな感情的になる事はないだろう……それに一度お茶会をしただけで、君に彼の何が分かると言うのかね?」

「そ、そうだぞ、アリスさん。ワシらは何度も彼とお茶会を繰り返し、共に過ごし続けてきた仲だ。どう考えてもワシらの方がフーダニット卿のことをよぉく知っておる!」

「あら男爵、おかしな事を言うのね。それなら彼への思い入れもアナタ達の方が深いはずじゃない。今まで彼の事をずっと見てきたんでしょう?いまフーダニット卿のやろうとしている事は、これまでの努力をまるっきり、全て否定してしまう事なのよ?それでも、アナタ達は本当にコレで良いと思うの?彼のやり続けてきた事が、本ッ当に無駄だったと思うの?」

「グェッ!それは……」


 カエル男爵が頭を抱える。やっぱりそうだ、影の少女の勢いに任せた暴論はフーダニット卿を惑わせたが、この場の空気を完全に支配した訳では無い。まだ説得出来る。


「ねぇ!納得出来ないでしょう?止めましょうよ!」

「止めるって言っても……俺から言わせれば、彼の選択を否定するのにも材料が足りない」

「そんな悠長に構えてられないでしょ!このままだとフーダニット卿は取り返しのつかない事になるのよ!」

「グゲゲゲッ……確かに一理ある……」

「ちょっと、こんな娘の言う事に何を靡いているのよ!貴方は傍観の賢者でしょ?大人しく、黙って見ていれば良いのよ!」

「ゲゲゲッ……失礼、フーダニット卿!一旦待たれよ!」


 悩み始めたカエル男爵を黙らせようとした影の少女の台詞が、逆に煽りとなったようだ。カエル男爵は叫ぶや否や、テーブルの上にあるティーポットを二つとも薙ぎ倒した。


――ガチャン!

「ああぁっ!男爵!また溢した!」

「仕方ない、緊急事態じゃ!」


 二人のやり取りとは裏腹に、倒れて蓋の開いたティーポットは空っぽで、一滴も紅茶が溢れる事は無かった。然し、暫くして倒れた容器の中から、その可愛らしいサイズにはおおよそ似つかわしくない、恐ろしい轟音が響いて来た。


――ドドドドドドド……


「……ッチィ!」


 何かを察したらしい影の少女が、大きめの舌打ちを一つ放つ。次の瞬間、テーブルのシーツが真っ黒に染まった。そして……

――ヒュンッ!

 テーブルから黒い塊が頭上へ飛び上がったかと思うと、それは空中で翼を広げ、大きな鳥へと姿を変える。


「楽しいお茶会だったわ!それじゃ、お先に!キャッハハハ!」

「えっ!どういう事?」

「おのれ!シーツを使ってカラスに化けおったか!相変わらず逃げ足の速い……」

――ドドドド……

「マクガフィンどうしよう!逃げられちゃう!」

「任せろ……うわっぷ!」

――ザッパァン!!!


 マクガフィンが影の少女を追い掛けようと構えたタイミングで、ティーポットから一気に紅茶が押し寄せてきた。滝の様な勢いで襲い来るそれは力強い波で、テーブルの周りに居た私達は水圧に耐え切れず一気に押し倒されてしまった。そのまま広場はあっという間に真っ赤な紅茶で満たされていき、お茶会のメンバーは全員仲良く、紅茶のプールに溺れる事となった。


 ティーポットから出続ける紅茶の水流に振り回されながら、必死に考える。これからどうなる?冷静に観察すると、私達を呑み込んだ紅茶は何故か下へと流れて行く気配を見せず、その場に留まり続けてどんどん大きくなっていた。広場は小高い丘の上だというのに、テーブルの傍らにある大きな木を中心に謎の表面張力が働いているかのように、水滴形に留まっている。水位はどんどんと高くなっていき、やがて木の幹が全て浸かろうかという所まで上がった。そして木の葉の先にちょん、と触れた途端、紅茶はパチン!と弾けて保っていた形を崩し、町の方へと流れ落ち始める。

 私達はなす術なく、紅茶の流れと共にウォータースライダーの様に広場から滑り落ちていった――


 怖い。怖い怖い怖い怖い怖い……水に対してこの感覚を抱くのは、いつ以来だろう。確か幼稚園くらいの時だ。お風呂での水遊びが大好きだった私は、初めて両親にプールに連れて行って貰った。腕に浮き輪を付けて、ただ水に浮かぶ楽しさではしゃいでいた私は、別の人達がとても早く泳いでいるのを見て羨ましくなった。

 その時、両親はまだ早いだろうと言ってちゃんとした泳ぎ方は教えてくれなかったので、私は驚かせるつもりで親の目を盗んでプルーサイドの壁を蹴り、見様見真似でクロール泳ぎをやってみたのだ。

 最初の方は良かった。腕を回す度に、バタ足とは全く違う感覚でグンと身体が水中を進むのを実感出来た。それは壁を蹴った時の推進力で、ただの勢いに過ぎなかったが、子供の私には分かるはずもない。そのうち腕の浮き輪が片方、肘先までズレたのを感じた。けれど、泳ぎの体勢から浮かぶ体勢に戻す方法が分からない。プールサイドの壁を掴みたいが、今自分がプールのどの辺りに居るのかも分からない。がむしゃらに腕を回すと、遂に浮き輪が抜け落ちた。バランスが取れなくなる。パニック。水が鼻に入ってきて苦しい、口で息を吸おうとするが、開けた途端、口からも容赦無く水が入って来る。バシャバシャと水面を叩く音が、五月蝿く耳にこだまする。さっきまで楽しかった水が、こんなにも恐ろしく私に襲い掛かってくるなんて。怖い。前に進もうとバタ足を続けるが、力むばかりでどんどん足は下がっていき……あっという間に、私は溺れてしまった。


 水の中は、とても静かだった。


「姫!姫!大丈夫か!」

「お父……さん?」

「しっかりしろ!オイラだ!マクガフィンだ!」

「あ、ああ!ゲホッ!ゲホッ……」

「落ち着いて、ゆっくり深呼吸するんだ、いいな」

「スゥゥ……ハァ〜」

「どうだ?」

「ふぅ、ありがとう。もう大丈夫」


 どうやら紅茶に流されている間に溺れて、気を失っていたようだ。そういえばプールで溺れたあの時も、お父さんに助けて貰ったっけ……

 アレからトラウマになる事もなく、小学生になってから水泳教室に通うくらいに泳ぎが好きだったからすっかり忘れていたが、確かに初めてのプールの思い出は苦いものだった。帰り道、車の中で「どちらが目を離したか」と喧嘩する両親を見て申し訳ない気持ちになりながら、車に揺られていたのだ。そんな郷愁に浸りながら辺りを見回すと、そこは見慣れない場所だった。

 第一印象は船の貨物室。床は木の板で、周りをぐるりと螺旋状に階段が囲んでいる。壁には幾つか円形の窓があり、そこから陽射しが注ぎ込んでいる。階段を舐めるようにして上を見上げると、気が遠くなりそうな程高い吹き抜けがあり、遠くに見える最上部では複雑そうに歯車が動いていた。


「ところで、ここは何処なの?」

「良い質問です!ご紹介しましょう、此処は吾輩の家であり工房であり研究室!フーダニット卿の時計塔!……の、中です」

「あ、フーダニット卿!もう大丈夫なのね?」

「その節は大変、ご心配とご迷惑をお掛けしました。まさか、あの短時間でこの吾輩が籠絡されるとは露ほども思わず……恐ろしい相手です。アリスさんが居なければ、吾輩は完全に愚者に堕ちていたことでしょう。感謝してもし切れません。本当に有り難うございます」

「あぁ!そんな、良いのよ頭なんて下げなくって!とにかく、無事で良かったわ」


 仰々しく頭を垂れようとするフーダニット卿を慌てて止めた。私は彼が立派だと感じたから、なんとかしたいと思ったのだ。尊敬する相手からの感謝ほど、くすぐったいものはない。


「えっと、それで、どうして私達は時計塔の中に居るの?他の四人は何処に?」

「広場から溢れた紅茶に流されただろ?オイラ達はそのまま、紅茶と一緒に時計塔の中に転がり込んだのさ」

「実はお茶会で振る舞っているあの紅茶は、この時計塔の地下で大量に生産しているのです。ティーポットは端末で、注ぎ口から適量が転送され、半永久的に注げる様に設計しているのですが、万が一、ティーポットが割れたり、倒れたりした時に許容値を超えた場合、供給をストップして溢れた分がそのまま帰ってくる様にしているのです。あの広場から無限に紅茶が流れ出続けるなんて事になれば町の全員が溺れ死んでしまいますし、仮に避難出来ても、作業場が荒れて大変ですからね……紅茶は既に、木の床から下の貯紅茶槽に無事戻りました。他の四人はお茶会のテーブルの後片付けをしています。あの窓から外の様子が見えますよ。さぁ、時計塔の中を案内して差し上げましょう」

「あ、でも私、影の少女を追い掛けないと……」

「それに関してはだが、フーダニット卿に何か案があるようだ。折角だし見物させて貰おう」

「マクガフィンがそう言うなら……」

「決まりですね!お見せしたい物が沢山あるのです。此方へどうぞ、足元に気を付けて」


 フーダニット卿の誘導に従って、私達は時計塔を登る。螺旋状の階段はツギハギだ。艶やかでシックな木彫の素材が続いたかと思えば、工場の非常階段のような鉄板だったり、踏み抜いてしまわないか不安になる程に軋む木の板切れだったりした。


「この時計塔は、円錐形の基盤を持っていて、周りの部分に増築を重ねて居るのです。ほら、こことか……」


 フーダニット卿が指差した窓から見えたのは、どう見ても宙に浮いた状態の一軒家だった。宇宙空間の様な背景にポツリと浮かんで……しかも、それが幾つも見える。


「え、これって……どうなってるの?」

「ティーポットと変わりません、転移窓が……いや、転移ドアと呼ぶべきですかね。この壁一面に並んでいるドアが総て転移ドアで、対応した部屋と繋がっているのです」

「外から見たときは装飾ばかりで、こんなのが浮かんでるのは見えなかったわ。というより景色も違うみたい。町も見えないんだけど?」

「あぁ、それはそうでしょう。ここの窓は内側を見せてますから」

「内側?」

「装飾で飾り立ててある部分はただの外壁なんです。外からの見栄えを良くしようと思って始めたんですがね、皆んなに自由に作業してもらう内に、分厚くなってしまいまして、今では防壁になってます。今、アリスさん達が居るのは時計塔の内部、核の部分です。で、今覗いて貰った窓は内部と外壁の間の空間が見える窓です」

「えぇっと?つまり、私が外から見てた時計塔と、実際の時計塔は別物ってこと……?」

「別物というか、建物としては一括りで時計塔なんですが、殻で覆った様に二層になっていて、今居る建物との間に空間を内包してるんですよ。魔法瓶構造なんです」

「あぁ!なるほどね!理解出来たわ」

「そしてこっちが、外壁の窓と重なっている窓です。さっきと違って外の様子が見えるでしょう?」


 フーダニット卿の言う通り、そちらの窓からは温かな昼の陽射しが差し込んでいた。覗くと、下の方には作業をしている住人の姿。遠くには大きな木が立っており、その木陰でさっきの四人がテーブルにお茶菓子を並べているところが見えた。


「彼らも、吾輩の暴走を止める為に一役買ってくれたのですね……」


 フーダニット卿がしみじみとそう言った。


「あの人達、影の少女に合わせて色々言ってたけど、きっと本心じゃないわ。日和見主義なのよ」

「いや、彼らの言った事もまた真実なのです。だからとやかく言うつもりはありません。寧ろ、今まで培ってきた事を棒に振る様な暴挙に出た吾輩が悪いのです。唆されたからと言っても、行動を起こしたのは自分自身……やはり、賢者と名乗るにはまだまだ未熟ですな」


 ホゥホゥ、と笑いながら、彼は歩みを進めた。


「そういえば、アナタとサラリーには名前があるのに、どうして残りの賢者には名前が無いの?見た目と位で呼び合ってたわよね。賢者になると名前が無くなるのかと思ってたけど、それだとド・タイプやサラリーに名前があるのは辻褄が合わないし……」

「あぁ、気になりますか。彼らの二つ名を思い出してみて下さい」

「怠惰と、傍観と、生命?」

「それらは総て、原初に近い物なんです。意識の元ですね。傍観は怠惰から生まれた、なんて事も言われていますよ」

「どういう事?」

「ああ見えて、あのメンバーの中での古株は怠惰のネコ、生命のネズミなんです。怠惰の賢者は元々誰からも知られていないまま賢者となり、生命の賢者は賢者になってから会った者全員を消していますから、同じく名が広まる事が無かった。彼らは元の名前を忘れたのです」

「まぁ名前なんて、二つ名か見た目のあだ名で呼べば良いもんな」


 マクガフィンがぶっきらぼうに言った。そう言えば、彼も自分の名前をアナグラムで適当に名乗っていたっけ……


「その通り。寧ろ古の賢者には名前の無いお方の方が多いのではないでしょうかね」

「サラリーは新しい賢者なのね」

「彼は少し、怪しい所がありまして。というのも、傍観と怠惰の賢者の指示を最適なタイミングで出す、という役割自体、眉唾ものなのですよ」

「好機の賢者ね……確かに一人だけ曖昧な感じはするけど」

「吾輩の考えでは、本来二人の出す指示というのは、多少前後しても有効なものだと思うのです。つまりタイミングは関係無い。ただ、当時サラリーがギャンブルの調子が良くなっていて、全ての物事の好機を見極められると思い込んだ結果、自信過剰から賢者を名乗る様になったのでは無いかと……」

「それって……本当は賢者じゃないって事?」

「えぇ。賢者は本来、その存在が自分の在り方を突き詰めた時になれるものです。だから純愛や怠惰といった感情に即したモノだったり、生命のような哲学的な概念になる。しかし好機というのは、自分でなく他者や、もっと大きな流れに依存したモノですから、根本から毛色が違うのですよ。個が何かできるモノではない」

「確かにそう言われてみると、そんな気もするわね」

「まぁ、流れを読む感覚を突き詰めて賢者になったと言われれば、それはそれで納得するけど、一般の存在からすれば結果論にしか見えないもんなぁ」

「その通り。ただ、侯爵と男爵が納得しているので問い詰める事はしませんが。自分に自信を持てていると言うのは、羨ましい事です。もっと自信を持てれば、吾輩も……」

「大丈夫!きっとなれるわよ」

「有り難う、アリスさんは優しいですね」

「そういえばフーダニット卿、時間が逆行するエリアを作ったのがアンタだって聞いたぜ!オイラはてっきり、そんなもんを生み出したのは時の賢者だろうと思ってたんだ」

「あぁ、アレですか……確かに、当時が一番賢者に近かった気がしますね。アレから吾輩は自分の至らなさを痛感し、自信喪失するばかりで……あ、ここだ。まず最初にアリスさんにご覧頂きたい物がありまして」


――ガチャリ

 扉を開いた先には、小さな子供部屋があった。積み木やミニカー、おままごとのオモチャなんかが散乱している。中に入るとフーダニット卿は、玩具箱からまるで聖典のように恭しく、一冊のノートを取り出してきた。


「それは?」

「地図です。ここにきっと、アリスさん達の望む《出口》の事が書いてあります」

「えっ、《出口》……?」


 驚く私を尻目に、彼はゆっくりとノートの頁を捲り始めた。

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