第6話 初めての町と愉快なお茶会

「はぁ……はぁ……」

「姫、大丈夫か?」

「えぇ、なんとか……けど、一度深呼吸させて欲しいかも」


 影の少女を追い掛けて、私達は水上に現れた小道を走り続けていた。もう七、八分近く走り続けているが少女との距離は一向に縮まらず、道の向こうに見えていた新たな土地にすら一向に着く気配がない。流石に息が切れてきた。


「この世界じゃ、向こうで云う身体能力や体力の概念はない筈なんだが。まだ感覚が慣れてないのかも知れないな」

「どういうこと?じゃあこの息切れや疲労感は私の気のせいってワケ?」

「まぁ多分、そのハズだ……」

「……」


 マクガフィンに言われ、改めて落ち着いて考えてみて確かに、と気付く。プロポーションを保つ為にジョギングを日課にはしていたが、結構なハイペースで五分以上走っていたにしては持っている方だ。というより、走った直後にはいつも少なからず感じる脹ら脛の突っ張る感覚が無い。どうやら疲労感は本当に思い込みから来たものだったらしい。


「どうだ?疲れてないだろ?」

「……確かにそうかも知れないけど!そもそもどうしてわざわざ走って追い掛けてるの?さっきみたいに飛べばイイじゃない!」

「それはダメだ。あの向こう岸に向かってるだけなら確かに姫の言う通り、飛べばすぐ着くかも知れない。でもオイラ達はあの少女を追い掛けてるから訳が違うんだ」

「もう、またルールがあるの?」

「ルールというか、そうだな。この世界の移動に距離が関係ないのは説明しただろ?距離が関係してない分、何処かに移動する際の手順は難しいんだ。例えば、電車移動を想像してくれ。同じ電車に乗れば間違い無く同じ駅で下車出来るが、少女が各駅停車、オイラ達が急行に乗ったとする。急行が止まらない駅で少女が下車したら、オイラ達は数駅飛ばした先の駅で降りて、戻りの各駅停車に乗ってから引き返さなきゃならない……分かるか?」

「うーん、つまり私達が少女との距離を詰める為に急いで飛んじゃうと、少女が寄り道した時に見失っちゃうって事?」

「その通り!さすが姫だ、理解が早いな。この世界は特にそれが顕著でな、徒歩でなきゃ行けない場所、逆に飛ばなきゃ行けない場所、とか色々あるんだ。ひどい時には森の中の木を一本、右に行くか左に行くかって差で全く違う場所に通じたりする。あの少女を追い掛けるには常に同じ方法で移動してないと絶対に見失っちまう」

「飛ばない理由は分かったけど、こんな一本道で……」

「少女がずっとこの道を歩いているから仕方ない。いやぁそれにしても姫は凄いぜ、疲れないって事も知らずにずっと走ってたんだからさ。あぁそう言えば、まだまだ教えてないことがあって……」


 私が不満そうにしているのに焦ったのか、マクガフィンは露骨におだてながらこの世界についての説明を続けた。時間の流れ、季節の巡り、音のこと、色のこと……

 この世界の色や音の認識に関しては基本的に私の住んでいた世界と同じだが、そういう概念も含め大体の事は地域毎に住んでいる者達の趣味嗜好に左右されており、例えば時間や季節なら夜のエリアや冬のエリアなど当人達にとって最適な空間が入り混じって存在しているらしい。そういう干渉を受けていない、いわゆる世界自体の基本的な気候は温かく、小春日和のお昼の時間帯がずっと続いている環境だと言う。

 さっき空を飛んでいた時に時間の流れが緩やかに感じられたのはそういう中間地帯では本当にゆっくりとしか時間が経過していないからで、ある場所では凄まじい早さで時間が進んでいたり、珍しい所では逆行しているエリアすらあるらしい。


「そうそう、さっきのハート岩を見て察したかと思うが、ここじゃ質量保存の法則はアテにならん。アイツらにはそんな難しい事を細かく考えて世界のバランスを保とうなんて意識はねぇからな……逆に言えば、意識して想像出来さえすれば正確にその物理的作用を引き起こす事も出来る。つまり時間が逆行してる場所を作り出したヤツはエントロピーやら何やらと難しい事を細部まで想像した結果、その事象を引き起こしたんだな……勿論、時間の逆行なんてのはこの世界でも異端だ。そんな事、普通の奴らには想像もつかない。それに理解の範疇を超えた場所に入ると否応無くその支配下に置かれちまうから、それを嫌がってみんな避けてるんだ。オイラからすれば、一度見てみたい気もするが……姫はどうだ?」

「私は、そうねぇ……面白そうだとは思うけど」


 一体いつまでこの道が続くのか。そればかり気になってマクガフィンの話をボーッと聞き流していた私が反応に困っていたその時、いきなり辺りに轟音が響き渡った。


――ゴオオオオオオオオ!ガシャン!


「なっ、なぁに?」


 まるで地下鉄のホームで直ぐ側を急行列車が走り抜けて行ったときのような、くぐもった鉄の音。続いて聞こえた衝撃音は、スーパーで子供がショッピングカートを勢い良く列に戻す時の音にも似ていた。


「おぉ!姫、見ろよ!」

「そんな、いつの間に……?」

「ほらな!オイラの言った通りだろ!地道に追い掛けて正解だった!」

「これは町なの?」

「多分な!コレだけ頭数がいりゃあ、《出口》の情報を持ってるヤツもいるだろう」


マクガフィンは満足そうに頷いている。先程まで遠く延びていた水上の小道は何処へやら、辺りは既に大地が広がっており、少し傾いた太陽は夕方にならない程度にお昼を過ぎた明るさだ。そして土地の中央、私達の目の前には巨大な建築物が聳え立っていた。突如出現したそれはゴシック建築の教会を想起させる豪華絢爛な建物でまるで城の様に大きく、その迫力に圧倒されてしまう程だった。

 建物の天辺には釣り鐘がぶら下がっており、その下には満月を思わせる大きな白い円盤が設置されている。普通の設計で考えるなら本来、その位置にある物は時計だろうと予想されたが、その円盤は時を指し示す針も、目盛りすら見当たらなかった。

 周辺に広がる土地には疎らに家が並び、小規模な城下町といった雰囲気で幾つもの住人らしき影が動いているのが見える。ハート岩の観客の時と明らかに違っていたのは住人達が各々、自由に過ごしているという点だ。集団を装った植物の騒めきとは違い、場の空気がある程度の活気を持って賑わっていたのだった。大勢がバラバラな意思を持った上で集まってそこに生きているのが分かって、私は何やら懐かしい気分になり安堵する。

 思えばこの世界に来てから立て続けに、傲慢な人としか遭っていなかった。他者との関係性を軽んじ、孤独に生きる者と対話するのはとても疲れると思い知った。もしこの世界にああいった孤高の存在しか居なければ、情報集めは絶望的だろうと身構えていたのだ。そういう意味ではここに居る彼等は少なくとも、このコミュニティー内での意思疎通を日常的に行なって生きているようである。

 ある所では二人一組で餅つきのような作業を行なっていたり、列になってリレーで何かを運んでいたり。会話をしながら楽しそうに過ごしている……彼らの見た目は様々だが明らかに一つの目的に向かって協力し合っているのが分かった。誰かが他人と関わり合って生きているのを目の当たりにして、こんな穏やかな気持ちになれるのは自分でも意外だった。

 何故このコミュニティーを見て安心したのか自問してみて、ふと頭をよぎったのは「無敵の人」というワードである。社会的ステータスの無い人が犯罪行為に走り易いという理論を揶揄した言葉で、“無敵”というのは本当に敵がいないという意味では無く、守るモノが無いという意味である。現実世界において犯罪行為には相応の刑罰が定められているが、それらは全て一定の社会的地位がある者にしか抑止力として働かない。例えば家の無い人にとって刑務所での服役は寧ろ衣食住の提供であり、逮捕されたり前科が付く事による社会的信用の喪失も、それが元からゼロの人にとってはリスクにならない。つまり失うモノがない人は犯罪行為に対して躊躇する理由が無いという理屈である。

 私が今、目の前で集団生活する彼等を見て得た安心感は、直前に会った二人がある意味で“無敵”だったからではないだろうか?他者と関わらず、自分の中で育てた価値観、世界観にだけ縋って自分を肥大化させた彼等は、きっと自分と違う意見を出す者全員が敵に見えていたに違いない。私が世界観を合わせて話していた束の間は話が通じる様に思えたが、その内容は一方的な押し付けばかりで対話は出来ていなかった。この世界に現実の様に平和を保つ礎となる法律があるとは到底思えないが、いきなり切り掛かって来たド・タイプや植物で襲い掛かかってきたハート岩のようなタイプはこの集団には属していないだろう事は想像に難くなかった。


「姫?何ボーッとしてんだ?」

「あぁ、ごめんなさい……ここは平和だなって思って」

「確かにな。ここにゃさっきみたく交戦的なヤツは居ないだろうよ。ほら、見てみな」


 マクガフィンの指差した先には大きな木。作業している住人達から少し離れたその木の下でテーブルを囲んでいる一団は、どうやらお茶会をしているようだ。座っているメンバーはカエル、ネズミ、ネコ、ウサギ……そしてなんと、影の少女も混じって愉しげにお茶を飲んでいた。


「あっ!あんな所に、いつの間に!」

「姫もお茶会に混ざってくると良い、きっと歓迎されるさ。オイラはその間に一通り聞き込みして来るからさ」

「え、う〜ん」

「なんだ、心細いのか?」

「少しね」

「大丈夫、この敷地から出ない限り、そうそう迷子にはならない。彼女も腰を落ち着けてるし、逃げはしないはずだ」

「でも……」

「それに、お茶会に居るヤツらは少しクセの強い輩が多そうだ。オイラが話すとまたつまらん言い争いになるかも分かんねぇ、だからあっちのヤツらには会話が得意な姫から《出口》の事を聞いて欲しいんだ」

「えぇ?私、別に話すの得意じゃないわよ。ハート岩の時だって何も聞き出せなかったし……」

「アレは相手が特殊過ぎた。この敷地内で過ごしてるって事はある程度は話が通じるはずだろ?けど、ああいう輩は機嫌を損ねると何も話してくれなくなるからな……オイラはまどろっこしいのが嫌いだから直ぐに語気が荒れちまうんだよ。その点、姫は丁寧な口調だし落ち着いてる」

「まぁ、そういう意味ならマクガフィンよりはマシだと思うけどね?」

「だろ?何より姫の影が打ち解けてんだからさ、自信持って」

「……うん、分かったわ。やってみる」

「ありがとう!じゃオイラは忙しそうなあっちの方からチャチャッと話聞いてくるよ。また後で。何かあったら直ぐ駆け付けるからな」


 マクガフィンはそう言うと、餅つき作業をしている二人組に近付いて行った……木の人形と、トカゲの二人である。暫く見ていたが何事も無く打ち解けたようで、まさに談笑といった感じで作業の邪魔をするでもなく、必要な会話を済ませると別の住人に声を掛けに行く。どうやら彼方は彼に任せて大丈夫そうだ……よし。


 私は深呼吸すると大きな木を目指して歩みを進める。新しい環境で、既に出来ているグループに一人で入っていくのには勇気が要る。思い出したのは小学生の頃の記憶だ。

 こんな歳になって、まだあの頃みたいな気持ちになるなんてね……


 小学一年生の夏、親の都合で引っ越す事になった私は折角仲良くなったクラスの友達と離れる悲しさと、新しい場所への不安でいっぱいだった。「引っ越したくない」と散々駄々を捏ねて、両親を困らせたのを憶えている。余りの荒れように、近所に住んでた祖母が「ウチで預かって今の学校に通わせようか」と提案していた程らしい。

 新しい学校の初日は夏休み終わりの初登校日だった。クラスには一学期に仲良くなったグループが既に幾つか出来上がっていて案の定、私の居場所はなかった。か細い声で自己紹介を済まし、後は静かに授業を受けるだけ。その日はとにかく元の学校のクラスメイト達が恋しくて、お昼休みの時間などは涙を堪えるのに必死だった。一日中、自分をこんな境遇に追いやった両親を恨み、絶対許さない、と怒りを溜め込んでいた。

 だが二日目に体育の授業があったお陰で、その鬱屈とした期間は意外に早く終わることとなる。ペアを組んで準備運動をする時に組んでくれた女の子が、かなりのムードメーカーだったのだ。色んな質問を投げてくれて、合う話題を引き出してくれた。それからチームでドッジボールをする時に周りの子に私の事を紹介して、友達のグループに入れてくれたのだ。そこから皆んなと打ち解けるのは直ぐで、二日目のお昼以降、私の学校生活は元の学校と大差無い日々へと戻った。

 引っ越してからダンマリを決め込んでいた私が「友達が出来た!」とはしゃいで帰って来たのを見て母はとても喜び、お祝いに夕飯を私の好きなハンバーグにしてくれた。帰って来た父は上機嫌の私を見て察した様で「有朱は可愛くて優しい子だから、どこに行っても大丈夫だって父さん分かってたよ」と満面の笑みだった。心の中で、「恨んでごめんなさい」と謝りながらハンバーグを頬張ったのは今でも記憶に刻まれている。

 突然の引っ越しの理由が父の病気の治療の為だと知ったのは、それから随分後になってからだった。私が小学二年生の頃に父は入院し、三年生に上がる前に亡くなった――


「ねぇ!貴女!早くいらっしゃいよ!」

 

 唐突に呼び掛けられ、我に帰る。緊張からか、過去の記憶に浸ってボーッとしていたらしい。相変わらず鈴の鳴る様な声の主は、あの影の少女だ。テーブルから、私に向かって手を振っている。彼女が私の事を認識しているのも驚きだったが、私の口を衝いて出た言葉は更に私自身を驚かせた。


「ごめん!今行く!」


――長方形のテーブルには真っ白なクロスが掛けられており、左右に二つ置かれているティーポットは白い陶磁器で、取手や蓋の際に薄い青緑色の模様が金で縁取られたお洒落な代物だ。いくつも並んでいる大皿も似た系統のデザインで、その上には美味しそうなクッキーやケーキが綺麗に並べられている。

 椅子は向かい合わせに三つずつと、両端のお誕生日席に一つずつ計八脚。迎え入れられた私はウサギとネズミに挟まれて真ん中の座席に着席した。左斜め前にはカエル、右斜め前にはネコ……そして真ん前に影の少女が座っている。


「さ、どうぞ」


 影の少女はまるで古い友人の様に私を席へ案内した後、私のティーカップに紅茶を注いで薦めてくれた。真っ赤な紅茶からはベリーの酸味と、微かにミントの香りが漂う。ハーブティーだろうか?


「ありがとう……」

「あぁ〜、失礼。お名前は?」

「あ、私は有朱っていいます」

「アリス!そりゃ素晴らしい!良い名前だ!カンパイ!」


 名前を訊いてきたカエルがゲコゲコと喉を鳴らしながら、手元のティーカップをグイッと煽った。彼がカップを置くと、私の左隣のウサギが慌てて注ぐ。


「あぁ、すまんね」

「仕方ないですよ。あんたの吸盤じゃこのポットは扱えないんだから……またテーブルを紅茶の海にされちゃ堪りませんよ」

「いや本当に、あのときゃ失礼したよ……まさか延々と紅茶が溢れ続けるとは思わんじゃないか。グェッグェッグェッ」

「それにしても、もう少しゆっくり飲めないもんかね。ショットのお酒じゃあるまいし、毎度毎度一気飲みされちゃ紅茶が可哀想だよ」

「まぁまぁサラリーさん。男爵も好きでやってるわけじゃないんだから分かってあげましょうよ」

「姫の言う通り!悲しいかな、チビチビ飲もうとするとこの広いガマグチを伝ってほとんど端から垂れちまうんだ。一気飲みで所作の見た目が悪い事は詫びるが、これでもワシは口を閉じてから、香りをしっかり味わって飲んでるつもりなんだよ?」

「そ、それなら良いですけど……」


 男爵と呼ばれたカエルは、喋りながらまたもやグイと一口に紅茶を飲み干した。サラリーと呼ばれたウサギがまた注ぐ。二人の様子を滑稽そうに眺めている影の少女は、このテーブルでは既に姫と呼ばれているらしい。


「毒なんか入ってないから、安心しなよ。お嬢さん」


 緊張している私を気遣ったのか、声を掛けてくれたのはネコだ。続けてネズミが捲し立てる。


「そうだよ!この紅茶を淹れるために最初の葉っぱや果実を集めたのは何を隠そうこのオレ様なんだぜ!ストレートで飲んでもミルクティーにしても、クッキーにもケーキにもチョコレートにも合う、最高のブレンドさ!」

「ありがとう、警戒してる訳じゃないんだけどね。座って会話にも混ざらずに直ぐ口を付けるのは失礼かと思って……」

「ガハハハ!大丈夫だよアリスさん!このお茶会は無礼講さ!でなきゃサラリーのような平民とこのワシがこんな優雅にゆったりとお茶を愉しむなんて出来ないだろう」

「そうよねぇ男爵。本当になんて素晴らしいお茶会なのかしら!カンパイ!」


 影の少女の掛け声に合わせて、皆んな揃ってティーカップを掲げる。思わず私もカップを持ち、一口飲んだ。


「……美味しい」

「だろう!なんてったってオレ様が……」

「そうだな。最高の紅茶だ。ところでネズ公、材料は何処から採ったんだ?」

「うっ……侯爵様の御庭です」

「だろう、素材を見極めるオマエの選定は素晴らしい才能だが、その眼鏡に適うだけの品質に植物を育て上げたのはこの俺だ。余り自分の手柄ばかりを謳うのは良くないな」

「反省します……」

「ちょっとちょっと辛気臭いわよ!侯爵もネズミさんも、無礼講でしょ!」

「あぁ、そうだったな。悪い。しかし躾は別なのだ」

「そうです。あんまり長い間このお茶会に居たもんで、侯爵様と同じ立場にいると思い込んじまいました。あっしはしがない召使いなんで……」

「そう卑下するな。今の注意はオマエに決して慢心して欲しくないから言ったのだ。実際、俺だけではこのお茶会に招かれる事も無かっただろう。俺の庭とオマエの選定があってこそ、この紅茶が出来たのだ」

「侯爵様……嬉しゅう御座います!」

「皆様失礼した。このお茶会に湿っぽいのは似合わんな。カンパイしよう!」


 今度はネコの侯爵に合わせて、ティーポットが掲げられる。落ち着いて観察すると、皆揃いも揃って紳士貴族といった装いである。ネコの侯爵はフワリとしたガウンを羽織り、鍔広の帽子を被っている。カエルの男爵ははち切れそうなスーツに身を包み、小さなシルクハットをちょこんと頭に乗せている。ウサギのサラリーも同じくスーツで、鼻先に掛けた眼鏡がオシャレだ。彼はしょっちゅう腕時計を見るのが癖らしい。潤んだ目で紅茶を飲むネズミは緑のシャツに薄茶色のズボンと比較的軽装で、農夫の作業着に近い。赤い羽根の付いた麦わら帽子を被っている。目を濡らし、鼻を鳴らしているのは先程の侯爵とのやりとりで感極まったからだろうか。


 さて、一頻り観察をし終えたところで一つの結論に辿り着く。どうやらこのお茶会は無礼講ではあるものの、全員が元から対等な関係では無いらしい。向かい合う形でそれぞれ目上の者と目下の者が分けて配置されている様だ。あれ?という事は私の立場って……?


「ちょっとアナタ!話を聞かせて頂戴!一体アナタはどういう存在なの?私の影から出てきたわよね?」

「あら、その焦り方……何か気付いたのかしら?でも気にする事はないのよ。偶々こういう配置になっただけで、このお茶会は立場の差が無い無礼講なんだもの」

「私が気にし過ぎだって言いたいの?」

「ええ。まぁどうしてもって言うんなら席を交換してあげても良いけど」

「姫が向こう側行くんならワシも移動しようかな!グェッグェッ!」

「っ!いいわ、私の難癖だったかも。謝るわ。でもアナタは私の影なんでしょ?ふらふらせずにいい加減に私のところに戻ってよ」

「いやよ。だって貴女こそふらふらしているもの。他人の事をとやかく言えないでしょ?この世界に来てからずっと、あのぬいぐるみにおんぶに抱っこじゃないの」

「それは……」

「この世界の勝手が分からないから?言い訳は良くないわよ。流されずに生きてれば、ある程度の存在感は得られる筈だもの。今の貴女はペラペラよ。まぁ影が無いから仕方ないのかも知れないけど、貴女みたいに芯が無い存在の影に戻るなんて真っ平ごめんだわ」

「けどアナタは私が居ないと存在すら出来なかったでしょう!」

「確かにそうね。けど私が離れて行動したお陰で貴女はハート岩から助かったでしょ?存在の後先から生まれる主従関係なんて無いのよ。今この時点で、私の方が貴女よりも優れた存在だって事実だけがあるの」

「アナタ……一体何がしたいの?」

「何にも?けど可能なら、この世界にずっと居たいわ。とっても気分が良いんですもの」

「アリスさんは元の世界に戻りたいのかい?」

「当たり前よ、早く《出口》を見つけて帰りたいわ」

「なるほど……」

「侯爵さん、《出口》について何か知ってらっしゃって?」


 影の少女に尋ねられ、ネコの侯爵は髭を撫でながらゆっくりと答えた。


「確か……この世界の《出口》は限られた賢者のみが知っているという話だった筈だ。元は皆の知る場所にあったが、世界の拡大に合わせて愚者が増えた為に、《出口》がそれを嫌って姿を隠すようになったとか……」

「《出口》にも意思があるの?」

「いえ、《出口》に意思があると言うよりは、世界の意思によって《出口》が隠されたと言った方が正しいだろうな。世界の意思とは即ち、この世界のバランスを保っている一部の賢者達による総意だ」

「その賢者は何処にいるのか知ってる?」

「賢者達は殆ど隠遁している。皆が世界の事を考えていた頃は全員が賢者として互いを尊敬し合っていたが、新たな意識が増える度に世界のバランスを保とうとする共通認識が薄れてしまい、バランスを無視して自らの存在を大きくする事を優先する自分勝手な輩が増えてしまったからな……賢者が愚者に負ける事は滅多にないが、賢者はそもそも争いを好まない」

「危険な愚者が存在感を増す前にさっさと叩けば良いのにな!お陰で賢者に挑もうとする愚者は強大な力を得ている事が多い!賢者に勝てるつもりで挑むからな、賢者が勝っても負けても、どちらにしろ大きく存在感の移動が起きて結局バランスが揺らぐ事になる。厄介な事にな!」


 横槍を入れてきたカエル男爵がゲゲゲッと笑う。


「仕方が無い。もはや賢者達は世界のバランスを保つ為にその身を窶しているからな、悪い芽を摘む為に動く事も、その移動で強い存在の影響下に入る事も嫌がっているのだろう。下手な事をして取り込まれれば逆効果だ」

「あら、貴方達やけに詳しいのね?実は賢者本人だったりして」


 影の少女がボソリと呟くと、カエル男爵の目がギョロリと動いた。サラリーが慌てて立ち上がると、あからさまに話題を変えようと喋り出す。


「あぁ!皆さん紅茶切れてませんか?ほら侯爵!姫もアリスさんも!注がせていただきますね!あら?ネズミさんは泣き疲れたのかな?もう眠られておいでで……」

「……」

「……」

「いやぁ麗しいご婦人が二人もこのお茶会に来るなんて……こんなに盛り上がるのは久しぶりですよねぇ!本当に素晴らしいことですよ、カンパイ!」

「……」


 サラリー以外誰も話さず、ただ静かにティーカップを傾けた。カエル男爵の口の端から紅茶がだばだばと滴り落ち、スーツの襟が真っ赤に染まる。


「あの……皆さん?」


 サラリーの必死のアピールも虚しく、誰も反応しない。少し可哀想になって来たが、私も場の空気の重さに口を開く事が出来ない。そのうち彼は頭を掻きむしり始める。腕時計を確認すると、彼の赤い瞳がカッと見開かれた。


「ああぁっ!!!皆さん!時間です!!!」

「おぉ!もうそんなに経ったのか!すまんな姫、一旦お開きだ」

「逃げられると思って?」

「逃げやしない。来るのさ……グェッグェッグェッ!」

「えっ?時間って何のこと?」

「説明するには時間が足りないな。申し訳ないアリスさん、少し待てば分かるよ」


 カエル男爵の不気味な笑いとネコの侯爵の意味深な言葉に身構えた時だった。目の端に映っていた中央の建物が、ぐにゃりと大きく揺らいだ様に見えた。


――ブウウゥゥン……ブォンブォンブォンブォン……


 直後に聞こえて来たのは、なんだか酷く気分を不安にさせる、低く響く音。その音は何か得体の知れない工場の機械や、或いはとんでもなく大きな蠅の羽音をイメージさせた。


「うおおおぉっ!来やがった!」

「むぅ……!」

「キャッハハハハ!変な音ねぇ!」

「!!!」


 テーブルを囲む皆にもその音は聴こえている様だ。眠っていたネズミも吃驚した様子で目を覚まし、鼻をひくひくさせながら辺りを見回す。周辺で作業をしていた住人達は皆、頭を抱えて苦しみ出した。太陽がグングンと動いて地平線へと消える。代わりに月が出て、周囲をぼんやりと照らした。


「あぁ、まただ。ダンナぁ勘弁してくれぇ!」

「いつ聞いても慣れねぇぜ全くよぉ」

「頭が割れそうだぁ」


 お茶会のテーブルに座っている私達を除いて、住人達は全員持ち場を離れ各々の家の中へと帰って行く。不気味な音と周囲の反応に戸惑っていると、作業場の方からマクガフィンが駆け付けて来た。テーブルから離れ、耳を塞ぎながら彼の側へと駆け寄る。


「姫!大丈夫か!」

「マクガフィン!一体何が起きたの?」

「作業員の話だと、コレは調律ってヤツらしい。一定の周期でこの音が鳴って全員の体内時計をリセットするらしいんだが……」

「何それ、どういう事?」

「強制的な睡眠時間みたいなもんだ。アイツらの話だと、暫く待ってれば鳴り止むらしい」


――ブォンブォンブォン……ビビビビビ……キイィィィン……


 マクガフィンの言う通り、建物から出ている不快な低音はその周期が段々と早くなっていき、周波数が安定したのか不快に感じる音域を脱した。そして、まるでモスキート音の様に響いている感じが耳に残ったままやがて聴こえなくなった。


「ふぅ……」

「収まったみたいね……ところで情報は集まった?」

「ここの作業員達はあの中央の時計塔の部品を作っているらしい。この土地は他に比べてかなり安全な場所だから、芯の弱い奴らが自分を守る為にやって来る。そして存在を守って貰う代わりに時計塔の主と契約するんだ」

「契約?」

「この世界の生き物の寿命に関してはまだ説明してなかったか」

「寿命?そんな概念があるの?自分の理想像を体現して好きに生きるって話しか聞いてないわ」

「理想像を持っている奴らに関しては、姫の言う通り寿命は無い。だが中には理想像が決まっていないヤツも居る。そういう輩は存在感の強い奴に取り込まれて自我を失くしたり、自分の存在意義を見つけられずに無くなっちまうんだ。この土地の住人達は殆ど、自分達のなりたいモノが決まってない奴らなんだ。なりたいものは見つからないけど死ぬのは嫌で、誰かに取り込まれるのも御免、って奴らがここで時計塔造りの仕事に従事してるってワケさ」

「それってこの時計塔の主に取り込まれている、って事にはならないの?」

「取り込まれるって事はその存在の為に自我を奪われる事なんだ。ここの主は自我を奪う事は無いし、住人が理想像を掴めば契約を破棄して、そいつらを巣立たせるらしい。未熟な理想像が固まるまで、自分の存在の芯が育つまでのモラトリアム期間を安全に過ごす為の謂わば学校みたいな場所らしい」

「ふぅん、色んなタイプが居るのね」

「まぁ弱いヤツらを手当たり次第に取り込んで大きな存在を目指すよりも、そうやって理想像を持つ別個の存在を育てて、派閥として徒党を組んだ方が長期的に見ても強固な存在だろうからな。純粋に慈善活動ってワケでも無いらしい」

「なるほどね……」

「お茶会はどうだった?」

「賢者の話を聞いたわ、世界のバランスを保つ為に愚者と戦ってるって話よ」

「おぉ!コッチでも聞いたな。《出口》を知ってるって奴らだろ?そいつらの居場所まで知っている奴は居なかったが」

「お茶会の人達も、賢者の居場所までは知らないって。けれど、影の少女が妙なことを言い出して……」

「妙な事?」

「お二人さん!そんな所に突っ立ってないで、早くこっちに座ってくれぃ!」

「急いで下さい!そろそろ旦那様が出て来ちまう!」


 カエル男爵とサラリーに急かされて、私達はお茶会へと戻る。私がさっきと同じ真ん中の席に座り、マクガフィンが作業場に近い右手側の席に座ろうとした。するとテーブルの蝋燭に火を灯していたネズミが慌てて注意する。


「あぁ、ダメだよ。そこは旦那様の席なんだ」

「旦那様って、時計塔の主のこと?」

「その通り。そして旦那様はこのお茶会の主催者でもある。我々は客人だ。旦那様はあっちの時計塔からこのテーブルにやって来るから、上座は反対側の席になる」

「オイラは目上の立場じゃねぇぜ」

「目上かどうかは関係無い。兎に角、我々は招かれた側で、旦那様は招いた側だからそうなってるんだ。一番出口に近い下手の席は主催者である旦那様の固定席ってワケだ」

「ふぅん、そうかい。そんなら仕方ない」

「すまんね。席さえ気を付ければ気楽なお茶会だから……」

「!来るぞ」


 サラリーがピクッと耳を動かして反応すると、時計塔の方から重い扉が何重にも開く音がした。そして中から大きな影がのそりと出て来る。時計塔内部はとても明るいらしく、開いた扉から眩い光が筋となって溢れ出す。肝心な姿は逆光でシルエットしか見えないが、大きなシルクハットを被ってステッキを持っているのが分かる。時計塔の主は辺りをくるりと見回すと、つかつかと歩いてこちらのテーブルへとやって来る。

 近付いてきた時計塔の主は、深紫色のコートに身を包んだ白い顔のメンフクロウだった。右目に片眼鏡を掛け、銀色のステッキを持つ手には白い手袋をしている。シルクハットはかなり丈が高く、トップクラウンとツバの広さに対してクラウンの下側はキュッと絞られた特徴的なデザインだ。お洒落なリボンには大きく『6/11』と書かれたメモが挟まっている。メンフクロウはステッキを例の席の背もたれに掛けると、ゆっくりと腰を下ろし一息ついてから嘴を開いた。


「ご機嫌よう!皆さん!今夜は外からの客人が三人もいらしているな、珍しいことだ!」

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