第3話 キスの味
千秋さんは錆びた灰皿に最後の灰を落とした。ジュッと火の消える音がする。神経質なほど念入りに潰された。吸い殻はぽっかりと開いた穴に吸い込まれていった。
「千秋さん、」
名残惜しそうな千秋さんの手を取る。一瞬、千秋さんは驚いたように目を見開いた。唇と唇が僅かに触れる。煙草と口紅と、涙の味がする。
「……どうしてキスしたの?」
千秋さんは特に驚く素振りもなく、怒った風でもなく、ただ冷静だった。潤んだガラス玉みたいな瞳が静かにこちらを見つめている。
「……ただのキスです」
私は悪びれもせずに、そう答えた。これはだたのキス。
「そうかな?女同士なのに?」
本当は良くないことだとわかってる。弱っている所に付け込むみたいだ。実際そうなのだけど。
「……この前だって千秋さん、私に吸いかけの煙草くれたでしょう?」
憧れから完全に恋に落ちた日。いつも通り公園に向かうと、やっぱり彼女は一人で美味しそうに煙草を吸っていて、私はそれを横目にポケットを探っていた。そして、ちょうど煙草を切らしていたことを思い出した。
『煙草、切らしてるの?』
一本あげようか、そう言って煙草ケースを取り出してくれたものの、彼女もそれが最後の一本だった。
『これあげる』
決まり悪そうに微笑むと、ほっそりとした指で煙草に僅かに付着した口紅をそっと拭ってくれた。
たった、それだけのこと。
笑えるくらい些細なことだけど、私にとっては十分過ぎる理由にだった。
大きな瞳に、また新しい涙がこぼれ落ちそうになっている。それを拭おうと手を伸ばすと、すっかり冷えてしまった頬に触れた。
「……それと同じことです」
「そっか」
千秋さんは小さく頷くと、今度は私の唇に噛み付くようなキスをした。それは本当に一瞬の出来事だった。
驚いたまま固まっていると、正気に戻すかのように私の頬を小さく二度叩いた。
「……ありがとう、慰めてくれて」
千秋さんはそう言って立ち上がると、二本目の煙草に火を点けた。いつものように両手を使って品良く吸うのではなく、もっと本能的だった。
ゆらっと照らされる無感情な顔があまりにも綺麗で、私は思わず見惚れていた。
いつになく豪快に煙を吸い込むと、二、三口吸って乱暴に火を消した。
「それじゃあ、またね。美奈ちゃん」
涙の後を乱暴に拭うと、千秋さんはいつも通りの挨拶をした。まるで明日も明後日もあるかのように。
「そうだ、最後に一つだけ。美奈ちゃんはいつからメビウスにしたの? ずっとセブンスターだったでしょ」
私はそれにうまく答えられずに、ただ黙っていた。千秋さんも私の返事を最後まで待つことは無かった。真っ赤に腫らした目、鼻も真っ赤になっていたけど、最後の最後にいつも通り穏やかに微笑んだ。
夜の闇に、後ろ姿がゆっくりと溶けて行く。
追い掛けることもできたかもしれない。だけど、報われる確率なんてほとんどないような恋に縋り付く勇気は無かった。
まだ少し体温の残るベンチに座る。私はポケットから煙草を取り出した。さっきまで早く吸いたくて仕方がなかったのに。
久しぶりに吸ったセブンスターは味がしなかった。
「……最低だ」
二人の関係が壊れた所で、私のものになる訳じゃない。わかっていたのに。
これで、私の恋も終わり。
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