第2話 幸せだったはず


「あーあ、本当に嫌になるなぁ……」


 千秋さんはマスカラを崩さないように、目元を薬指でそっと押さえた。新しい涙が溢れないように上を向いている。


「……兄の何がそんなに良いんです? もっと良い人いますよ」


 月並みな慰めの言葉を口にする。だが、言い終えた後に少し後悔した。フラれた男の妹にそんな事を言われても複雑だったかもしれない。


「何が良かったか……、全部かな」


 兄と千秋さんは交際して半年だと聞いている。兄は実家のすぐ近くの所にアパートを借りていた。ほとんど同棲状態で、兄も千秋さんのことを本気で愛していたと思う。私には結婚したいと話していた。


 実家からアパートまでの途中にあるこの公園は、私と千秋さんの秘密の場所だった。お互いにここで煙草一本分の世間話をして帰路に着く。


 偶然を装ってでも千秋さんに会える日を、楽しみにしていた。話す事はくだらないことばかり、それでも良かった。休みが合えば二人で買い物にも行ったこともあった。


 千秋さんと親しくなってからは兄の部屋へ遊びに行くことも増えた。三人で鍋をしたこともあったし、夜遅くなれば泊まることもあった。


 ーーなんだか、家族みたい。


 いつだったか、ソファでうたた寝をする私に毛布を掛けてくれた千秋さんが嬉しそうに囁いたのが聞こえた。兄はまんざらでもなさそうに、千秋さんの頬にキスをした。


「……煙草のこと、隠してた訳じゃないんだ。結果的にはそういうことになっちゃったけど。でも、男の人って女が煙草吸うの嫌だって人多いでしょ」


 嫌われたくなかった、千秋さんは力無く言った。


「まさか部屋に置いて行くなんて馬鹿なことをしたなんて思わなかった。けど、潮時だったんだよね、多分」


 兄は煙草の空き箱を見つけてしまった。見覚えのない銘柄だったから問い質したのだろう。兄の友人はほとんど煙草を吸わない。その内の数人は最近アイコスに変えたと話していた。


「……彼と結婚したいって、本気で思ってた」


 すっかり冷めたコーヒーの芳ばしい香りが漂う。私の持っていたコーヒーは蓋も開けないまま冷たくなっていた。


 それはきっと、幸せなことだろう。


「そうすれば美奈ちゃんとも家族になれる。こんな贅沢なことない、きっと楽しかっただろうな」


 千秋さんはぐずぐずと鼻を鳴らしながらにっこり微笑んだ。目を真っ赤に腫らしている。


「……私も千秋さんと家族になりたかった」


 それがたとえ、思い描いていたものと違くても、私にとっての"幸せ"とは違くても構わないと思っていた。


 遠くの空が赤く染まり始めた。空の底の方からだんだんと夜が迫っている。


「暗くなる前に、そろそろ帰らなくちゃね」


 千秋さんは涙声でそう言った。今日が終わったら、ここで別れたら、彼女とは二度と会うことはないのかもしれない。


 少しずつ遠くの町に明かりが灯っていくのが見える。


「十二月になったら、ここから見る夜景がめちゃくちゃ綺麗なんですよ。向こうの町がライトアップされて、」


 千秋さんは静かに目を閉じていた。長い睫毛が涙で濡れている。


 坂道の多いこの町を、千秋さんはあまり好きではないと言っていた。私もこの町のことはあまり好きじゃないけど、この町から見る冬の夜景は好きだった。今年は一緒に見られると思ったのに。


「……きっと好きになると思います」

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