私の好きな人は兄の元カノ

桐野

第1話 私の好きな人は兄の彼女

 私の好きな人は兄の彼女、だった人。今隣で声を押し殺して泣いている人。


「千秋さん、コーヒー買ってきました」


 寂れた公園のベンチで女が二人、もう何時間経っただろう。

 千秋さんは自分を抱き締めるように身を丸めている。真っ白な頬には涙の跡が残っていて、その上を何度もなぞるように新しい涙が伝っている。


「ありがとう、美奈ちゃん」


 泣かないで、とは言わない。だって千秋さんは泣いてないというから。

 千秋さんは大切に飾られた日本人形みたいだ。陶器のような白い肌に、真っ直ぐで艶やか黒髪。品の良いアイスグレーのコートがよく似合っている。妹の自分にも優しく、性格だって非の打ち所がない完璧な女性。


 それなのに、兄はなぜ気に入らなかったのか。私はその理由を知らない訳ではなかった。


 千秋さんはおもむろにポケットから煙草ケースを取り出した。一本を口に咥えると、寒さで震える小さな手でライターを手に取った。真っ赤なハート型のライターだ。火が消えないように、その周りをそっと手で塞ぐ。


 千秋さんは薄い瞼を閉じ、ほんのり赤い唇から細く煙を吐き出した。本当に美味しそうに煙草を吸う、私はいつも彼女の横顔に見惚れていた。


「……煙草を吸う女が嫌いなんだって、知らなかった」


 泣いたまま微笑む、そんな顔をさせた兄を許せなかった。


 兄は昔から"女"対する理想が高い。女はこうあるべき、女はこうしてはいけない、とか、とにかく兄には一昔前の価値観が残っているようだ。


 妹の私はこんなにかけ離れた姿をしてるのに。


 ーーああ、だからか。


 もしかしたらそんな出来損ないの妹を持ってしまったばかりに、女性に対しての幻想が強くなってしまったのかもしれない。


 兄とは特別に不仲ではないと思う。むしろ仲は良い方だと思う。彼女ができれば紹介してくれるし、面白い漫画があればお互いに嫌な顔せずに貸し合う。


 だが、ほんの一瞬、兄が無意識に冷たい視線を向けることに気付くことがある。特にそれを強く感じるのは、私が煙草を吸う時だ。家の中は基本的に禁煙で、父と私は換気扇の下かベランダに出て一服をする。


 父は私が煙草を吸っていることに気付いた時も特にとやかく言うことはなかった。兄だけは、露骨に嫌悪感を示していた。


 ーー女が煙草を吸うなんて……。


 今時別に珍しいことではないだろうに、そう反論したくなったが私は黙って口を閉じた。自慢だったロングヘアをバッサリ切って金髪に染めた日、軟骨にピアスを開けて帰った日、兄は私のことをほんの一瞬だったけど軽蔑するような目で見た。


 兄の女性の好みははっきりしていた。いかにも清楚なお嬢様が好きなのだ、夢を見過ぎだと思っていたのに。


「……美奈ちゃん、一緒にいてくれてありがとうね」


 理想通りの人が現れた、と思ったんだろう。私もびっくりするくらい、千秋さんは女神のような存在に思えた。


 右肩が少しだけ重くなる。千秋さんがほんの少し私に寄り掛かったせいだ。もっとちゃんと体重を掛けてくれてもいいのに。


 見慣れた横顔、今日も私の方を見てくれない。

 

「大丈夫です、一緒にいますよ」


 明日から私たちは完全なる他人同士だ、何の関係も無くなってしまう。こんなに千秋さんのことが好きなのに。



 

 


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