あゝ腹立つ

ああむかつく

 いい加減にしてほしいものです。第一、腹が減るということは、つまりは身体が生きることを欲している、その出力作業でありますから、それを感知したならば、潔くそれに従って、パンや米などを食うより仕方がないのです。死を目前とする人の背中を押すことは、人道的にいかがなものか、と言うおじいさまが多くいらっしゃいますが、死は生の裏返しとでも言いたいんでしょうか、それらは実は独立したものであって、互いに相入れないものであることを知らないのでしょうか。例えば、今肉を食べている人がいて、その人が突然、魚を食べたいなあと思った時に、その思惑の背景を知らない人間が、魚など食うな、がんばって肉を食えといってきたら、もちろんいい気はしないのです。つまり、生きることと死ぬことを、同じ道の上にあるものとして議論していること自体が間違いなのです。死に対する恐怖の本能は、自らの生命の存続の本能によるものであって、死後の世界は怖いから、何があるかわからないから、足を踏み入れないようにしよう、ということによるものでないのです。それを文明、特に宗教の出現によって、死が変に具現化されかけ、死んだ後はこのような世界へ行くのだ、悪いことをしたものは死後このような目にあうのだと口走ります。これが同じ道の上に生と死が存在していることの一つの例です。生きている時、何をしてきたかを根拠に、死の段階が決まるわけです。なんとも愚かな、浅はかな思惑でしょう。こんなものは街の警備や犯罪の防止に役立てるように、うまく政府が宗教を利用しただけではないか。宗教はいつも、偉そうなことを言っているが、所詮はただの政府からした時の都合の良いツールの一つに過ぎないのです。それを辞任しないところが私の宗教嫌いの理由の一つです。

よくよく考えてみれば、腹が減る、空腹という状態は、はっきり言えば死の予兆と言ってもいいでしょう。空腹をまあ1ヶ月も続けば、死ぬのですから、食事は延命とも言える、睡眠も排泄も、生きる に乗っかっているのもで、生きるというパッケージを買った時に、全部中に入っているものだとかんちがいしがちですが、実はその中に入っていたそれらは、生きる の潤滑油でもあり、不可欠な歯車でもあり、結果の煙突から出る煙でもあるのです。

 最近は、家より他に出る間もなく、ただ一切は過ぎていって、雪が降る

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