春雪の夢

@ayabero

一直の結末

人が弱みを握ると、足先をくねりと曲げて、手を後ろに組む。つま先立ちからそれになる過程を、まじろ、まじろ、と、目ん玉が瞼からはみ出るくらいに、行ったり来たり、行ったり来たり、決まって3往復と半分である。左手には、桂を持っている。その奥に、耳が垂れた犬が、へえへえへえとこちらを見ている。足元を見て見ると、随分とここまで走ってきたようで、爪などが剥がれていた。私は、女の右手から、その上の肩まで、骨を熱線で辿るように流して見た。先の犬が、私の方へ駆けていくのを見て、私は気を失せた。

 担架で運ばれているのを私は実感して、急に頭が痛くなって、体を起こしたら、まだ寝そべっていてと言われたので、そのまま寝そべることにした。運んでいる大人はみんな早歩きでどこかへ私を運んでいくようだ。ここで私は、怪我の代償として、支配感を手に入れた。あの時の犬は、どうしましたか、など、聞いてもううむそう言えばあれはどうなったなどと、言葉を濁すばかりであったが、しかし、私はとにかく、あの犬がどうなっているかだけが、唯一の、好奇心から生まれる、欲求であった。どちらに倒れたのかはすぐにわかった。鼻の感覚がないのだ。私は仰向けになって、右足の膝を曲げて、その上に左足を沿って寝かせると、そのつま先が、大人の耳たぶあたりに触ってしまったので、失敬と思って、苦しくも足を伸ばす羽目になった。手を鼻に、ここが鼻だろうと思うところに伸ばすと、案外それは手前にあった。おそらくそれは、やや左側から削れているように触れて思った。骨は出ていなかった。穴は、しっかりと2つついていた。そのうち、段々と鼻の奥が痛くなってきて、担架が揺れるのと連動して、右目が痛くなってしまった。なるほど、これは察するに、私は、倒れる際、やや左側に重心を残したまま、顔面より地面に突っ込んでいった。そのまま鼻の表面は削れ、骨がググッと目のほうへ入っていき、それが終いに破れたのだろうと思った。頭の先が暖かくなっているのを感じて、もうすぐ病室に着くと思った。私はすっと目を閉じた。

 そこでは、西洋の音楽が流れていた。それに歌詞はなかったので、どうしてそれに気が付いたのだろうと考えると、父が流していた曲であったからだと思った。何度も聞いたのだろうな、レコードの溝がすり減って、時々大事な音が抜けたりして、もはやそれは作者が敢然として発表した作品ではないことを思うところに、私は不安を感じて、それを聞くことを阻止しようと、夢を見ようとした。白昼夢の中で私は、愉快な音楽と共に自然を探検する夢を見て、これはいい暇つぶしになると思って、その音楽に乗って草木を刈ったりなどしていた。お腹が空いてくると、すかさずポッケから乾燥した小豆を2.3粒口に放り投げて、すぐには噛まないで、しばらく口の中に馴染ませてから、そっくりと噛んでゆくのである。その間、私は木と石で斧を作ったりなどして、それを研いだり、魚を切ったりしていた。夢が覚めると、少し困惑したのであった。左手を硬く握りしめていて、少し血が出るほどであったが、それはよくあることであるから、気にせずにしていた。合理性主義社会で生き残っていくためには、それのアンチとも言える血を持ってでも波に乗る必要がある。やっと足をくめるようになった私は、先ほどまで自分が何をされていて、その間何をしていたかも考えることなく足を組んで、放屁した。シンボルとなる私の腹の傷は、少し歪んでしまったのだが、これを意味する事実は保証されていることを確認して、勢いよく飛び起きた。周りは一変して、海の中で踊る生き物たちに囲まれた。潮の波が鼻に入ると私は水中ではあるが咳をして、取り返しがつかないと思って、光の方へ泳ぎ出した。尚、左手は強く握ったままであった。

 実務を考えることはなかった。カートゥーンの世界へとやってきたのか、とも考えず、思考といえば、足を組むことと、血が出ていることであった。看護婦の方が、お花を持ってきたようで、お水をやるように言われたのは覚えているが、しっかりとその後お水をやったかは、自信がない。言いつけに反いた証は、対象にすぐ現れるはずだが、それはすぐに見受けられなかった。夜、彼女はそれはレプリカだと言った。

 流石に疲れたので、指の皮を剥きながら、社会分断の本を思い出して、少しずつ読んでいった。目に見えないもの、それが一番恐ろしいもの、それがないと生きていけないもの、それを壊すもの、そしてその後、その後の私は、今の私で、今のみんなは、後のみんなで、わたしにだけ、神様が薬などを塗ったりなどして、人より早く年を重ねるようになっているのではないかしら。

 結局は、自己に集積されたデータのみでしか考えることができず、人の話などを聞くことはもちろん、自分の体以外の物体に一切の興味を示さなかった。後で、父がお寿司を置いていくような電報が入っても、私の頭は犬と足のみであった。何も言い逃れ場できないのだが、私はその時、たしかに自立していた。共に、孤独で、楽観であった。迫り来る暗闇に気づかず、ただ指をいじっているだけの、愚劣学生のような。世の中の1番のゴミと罵っていた存在になれることに既成感情を引っ張り出してきて、わざとらしく掲げて、スッと息を吸った。たしかに肺に入ってきたことを確認すると今度はもう一度吸って、吐いた。随分と長いため息だと言われた。柄の違うスリッパを履いていた

外では、患者らの歌声や、遊ぶ声が聞こえる。6月の隅に溜まりきった空気は、颯爽と私の肌を突き抜けて、向こうの窓から抜けてった。

秋、と書いたら、もう書けなくなった

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