絵師の花鳥風月

桃波灯火

絵師の花鳥風月

 奏都に俵屋宗米という絵師を知らないものはいない。奏功そうこう節二百十四年、彗星のごとく現れた宗米はその名を都中に轟かせた。


 彼の絵は生きているようで力強く、一度見てしまえば一か月は夢に出てくるとまで言われていた。どんな絵でも描くのが彼の創作観だが、とりわけ四季を描く名人だったといわれている。


 ただ、宗米も一人の人間だったのだ。




 日差しがまぶしい。雨季が終わり、久しぶりとまでいえる快晴のもと、宗米は苦しんでいた。決して上物とは言えない着物を羽織り、フラフラとした足取りで歩を進める。地面は熱くはねっかえりがすさまじく、目的地まで目をやれば、先はぼやけていた。


「店主、茶漬けくれ! 茶漬け!」


 宗米はふと目に留まった茶屋に入ると、倒れるようにして椅子に座った。

 一休み、である。



 茶屋を出た宗米はいくらか軽くなった足取りで歩を進めていた。きょろきょろと周りを見渡す余裕もできている。彼の視線はあっちこっちを行き来する。屋根上の鳥、走り回る子供、声を張り上げる商人、宗米は往来の光景を楽しむように眺めていた。


 ふと、宗米の足が止まる。そこは先ほどの茶屋よりも人が集まっていた。その群衆は周りと比べてもひときわ大きい商店を中心にしているようだった。

 しばらくそこで立ち止まったままの宗米に男が近づく。


「調子はどうだい? 宗米」


 男は宗米の隣に来ると、声をかけた。寒そうな頭とずいぶんと大きい体を持った男だ。稼ぎがすべて体に行ってしまっているかもしれない。宗米は先ほど食べた茶漬けでいくらかマシになっているはずだが、間十郎と比べれば棒切れに等しかった。


「おかげさまで、すこぶる調子が良い」

 宗米は汗を額に浮べながら、ニッというように口角を上げる。


「そうかそうか、今日も君のおかげでこんなにもお客が来てくれた。あっちをみてみろ」

 宗米は男が視線をやる方に目を向ける。そこにはこの国の役人が着る制服姿の男が数人、談笑しながら立っていた。


「役人なんてこの都には腐るほどいるだろう?」

「宗米、もう少し君は自分のことを理解した方がいいのではないか? ――彼らは正中府の高官補佐だ。胸元の徽章を見てみろ」


 拍子抜けするように声を上げる宗米に男はため息をついた。彼らにバレないように徽章のことを言及し、さらに言葉を重ねる。


「いいか、彼らが今日の絵市にいるということは、正中府の高官がお前の作品に興味があるということだぞ」


 宗米は間抜けそうな表情で役人らを見つめる。その中の一人と目が合うと、「高官補佐その1、今日はよろしく!」と大声を出した。


「な、何をしてる! 馬鹿者!」


 男が思いっきり宗米の頭をひっぱたいた。「も、申し訳ありません……」と男がしきりに頭を下げると、高官補佐は訝しみながらも視線を外した。


「いいか、くれぐれも失礼なマネはするなよ。儂の主催する絵市の評判が落ちちまう」


 男が宗米に唾を飛ばしながら言い募る。顔も心なしかなすび色だ。


 宗米がまた口を開こうとしたとき、商店の中から「商長! 商長ぉ!」と声が聞こえた。男は「宗米、本当に、静かにしていろ……」と底冷えするような声色でつぶやくと、群衆をかき分け、その中に消えていった。


 彼の名は勘十郎、絵市を主催する商人である。




「で、絵を置いたまま逃げてきたと?」


 宗米の前にお茶と茶菓子が置かれる。今日の茶菓子は饅頭だ。街道沿いにあるこのお茶屋、『草月屋』では毎日日替わりでお茶菓子が出される。それは店主の自家製だったり、有名製菓の新作だったり、種類が豊富でこの店の長所だった。

 しかし、宗米に味合う気は一切ないのだろう。一口でほおばり、お茶で流し込んでしまった。


「なわけないだろ。吉助、お前は阿呆か。俺はただ誰とも挨拶を交わさず出てきただけだ」


「いや、それを逃げてきたというんだよ。おかわりは?」


 宗米は湯呑を少しだけ前に出すと「いる」とつぶやいた。そして、黙ってお茶が注がれるの眺めた。


「で、何が原因か分かってるのか?」


 吉助は湯呑を少しだけ押す。宗米はそれをすぐに空にした。


「俺が分かってないように見えるかよ?」


 宗米は先ほどよりも少しだけ乱暴に湯呑を前に押した。


「お前さんは原因がわかっていたらここには来ないよ、すぐ絵を描きに行くさ」


「もしくは、その原因に納得していないから――違うか?」


 吉助は無言で湯呑を揺らす宗米を見てため息をつくと、さらにそう続けた。


「風が可笑しい、そう客どもが騒いでいた」

 

 吉助は、無言で続きを促す。


「馬鹿馬鹿しい。何が風が可笑しいだ。お前らが風の何を知っているってんだ。その風を俺にも見せてもらいたいもんだよ、目の前に持ってきてな!」


 宗米の語気が次第に強くなっていく。吉助は震える湯呑を押さえつけた。


「第一、芸術を完璧に理解している奴なんてほとんどいない。なんとなく面白いから読む、はやっているから買う、今話題だから人が集まる、そんなもんだ。どうせ、あいつら、自分らがよくわからない絵や洒落本で泣きやがるにきまってる。滑稽極まりない」


 宗米からはつらつらつら、落語のように言葉がとめどなく流れ出てくる。


「落ち着け宗米、絵の出来を客の所為にしてどうする」

 吉助の言葉に宗米は耳を傾けない。


「自分の絵が酷評されて心に来ない絵師はいない。それは分かるが、文句垂れ流して逃げるんじゃないぞ」


 宗米はさらに文句の語気を強めていく。吉助の言葉は無視だ。右から左。


 ダァンッ、店内に大きな音が響き渡った。

 吉助が机をたたいた音だ。湯呑が振り子のように揺れ、少し間をおいて倒れずに持ち直した。


「思い上がるな、宗米。客も馬鹿じゃない。いくら天才のお前でも、奏都で名をはせる名画家でも、手放しで客はついて来やしない。お前が客から目を背けたら終わりだからな――もう一度言う、思い上がるな。客は容易く気づくぞ、お前が自分らを見ていないことに」


「......俺は風を見たことがない」


 急須に入ったお茶までも冷めてしまった頃、宗米はおもむろにそう口にした。

 吉助の「なんだ、分かってるじゃないか」という言葉はヒト睨みに済ませる。


「春夏秋冬、昔から描き続けてきた、腐るほど見てきた。まぁ、それを腐らせたことはないが」


「調子になるな、風は見たことがないわけだな」


 吉助はニヤニヤしながら宗米を見つめる。「傑作だ」という吉助の言葉に、宗米は「うるせぇ」と返す。吉助は底を這うような宗米の声を軽く受け流し、後ろを向いて肩を震わせた、絵に関して、完璧だと思っていた宗米に思わぬ弱点を見つけたという感じである。


「何ニヤニヤしてんだよ」


「おいおい、気を悪くするな」


 吉助の纏っていた空気が柔らかいものになる。


「お詫びに、俺から助言をやろうじゃないか」


「……助言?」


 吉助の次なる言葉に耳を傾ける宗米。その顔は「お前がか?」と語っていた。


「簡単な話だよ。風を見たことがないのなら、見に行けばいいんだ」


 吉助は両手を大きく開くと、したり顔で語った。その言動に宗米は「そんなものは詭弁だ、馬鹿」と言い返す。


「いや、俺は真面目に言ってる。目に映らずとも見えるものがあるんだ」

 吉助は続ける。


「俺の店を見てみろ、ここには昼時どきになれば駄弁るしか能のない女どもが集まってくる。夜は家で肩身の狭い男が一人酒。久しぶりに再会した奴らが旧交を温めたりもしている。愚痴を抱えて俺に話しかけてくる奴がいれば、仕事が成功したんだ、子供が生まれたんだ、と自慢にくるのもいるな」


「……宗米、ここには生活があふれている。俺はその生活とやらに毎日付き合って、その一部になって、客と時間を過ごす。俺には毎日、彼らの人生が


 吉助は宗米の返事を待たずに片づけを始めた。しばらくして宗米が立ち上がる。


「俺は用事ができた、帰る」


「おいおい、今日は一緒に酒を飲もうって言ったじゃないか」


 吉助はしらじらしく問いかける。宗米はそれを無視すると、机に銅銭を置いて踵を返した。


「宗米、勘定が足りないぞ」


 吉助は机に取り残された湯呑を指さす。


「飲んでないし、冷めたからな」


 宗米は吉助の制止を聞かなかった。


「……俵屋宗米ともあろう奴があんなことでつまずくとは、俺も絵師になれたりするか」


 吉助は宗米がいた跡を片付ける。


「いや、凡人には気づくまでで限界か」


 吉助は冷めたお茶を飲み干した。




 吉助との会話から二日後。宗米は風を見るため、奏都から少し離れた渓谷に来ていた。ここは現地の人に〈禁踏地〉と呼ばれていて、古くから文献に残る山である。


 都とは違い、見上げなくても視界は広がっていた。


 大きく息を吸う。空気は澄んでおり、腹に溜まった。


 風に乗って何か聞こえてくる。その方向を見れば、鷹だろうか、大空いっぱいに弧を描いていた。


 木々は風に揺れて音楽を奏でた。


 花々は花弁を散らしながら地べたで踏ん張っていた。


 都では見れないような自然の鼓動。視線が忙しなく動き回る。


 宗米は心地よさを感じているようだった。それからしばらくキョロキョロしていたが、おもむろに目を閉じて座り込む。


「風を見る……見るとはなんだ。風はそこかしこで存在を示してくる。それは分かる、分かるが……絵にそれを落とし込むにはどうすればいい?」

 宗米は数時間、そこから動かなかった。


「だぁぁぁっ、分からん!」

 宗米はおもむろに立ち上がると、足元に転がっていた石をひっつかんで投げ飛ばした。

 石は綺麗な線を描いて谷底に落ちていく。それを見つめていた宗米は「はぁ……」と声を漏らすと、途中で目をそらした。


 倒れ込むようにして仰向けに寝転がると、大の字になって空を見上げる。


 はるか上空では先ほど見た鷹がいまだに飛翔していた。宗米が見つめる最中、彼はさらに上昇を続ける。大空を闊歩し、翼を広げる彼を見ていると宗米はだんだんと彼のことがうらやましくなってきた。

 

 彼は獲物を求めて羽ばたく。眼下で粒にしか見えないような獲物を探すのだ。それは困難を極め、長く苦労することもあるだろう。


 宗米はなんとなく、彼に親近感を持った。


「鷹と俺……か」


 宗米の前髪がゆっくりと揺れる。風が頬を撫でて過ぎ去っていった。


 宗米は上体を起こすと、もう一度山を、渓谷を見回した。


 「俺がここにいる。いや、俺もここにいる……?」

 宗米は脈絡のないことを呟きながら頭を傾げる。それは何かに気づきそうな気配か、はたまた迷走への入り口か。


 ――ピゥッ、バンッ!


 思考の底に沈むように目を閉じた宗米。そんな彼を先ほどより強い風が叩く。とっさに目をつむり、下を向いた。風が収まり、目を開ける。そこには信じられない光景が広がっていた。


「……我らに石を投げたのは貴様か?」


 宗米の目の前には大きな影が鎮座していた。それは宗米の視線からそう見えるのであって、実際は――天狗、であった。


 逆光に宗米をうめき声をあげて手をかざす。


「……は?」


 いくらか楽になった視界は鮮明に目の前の状況を映し出す。

 

 そこで宗米は口を半開き、素っ頓狂な声を漏らした。


 目の前には天狗。それがなぜわかるかというと、奏都において天狗は吉兆の知らせとされており、いたるところで天狗にまつわる道具や天狗の顔があふれていたからだ。伝承も数多い。


 宗米は伝承の通りの姿をした天狗に驚いていた。彼はそのようなモノを信じることはせず、目で見たものしか信じない節がある。日々観察を怠らず、そのような姿勢が四季の名画を生み出したともいえるだろう。


 しかし、明らかに幻とは言えないような状況。意識もはっきりしている。


 確かに、天狗がそこにいた。


「人間、問いかけにこたえろ!」


 天狗はしびれを切らしたのだろう。重い声が響く。

 それだけで周囲がビリビリと震えた。


「お、俺が投げた……」


「我に対する狼藉、代償は命で払ってもらおう」

 宗米は脇が冷たくなるのを感じた。「お前に石を投げたわけじゃない」、そう言おうとするも口をパクパクさせるだけで声が出ない。

 

 天狗は緩慢な動きで手をかざした。――宗米に向けて。


「ま、待ってくれ! 許してくれ!」


「だめだ。人間の分際で我を怒らせたらどうなるのか。それを思い知らせてやる」

 天狗が宗米の言葉に耳を傾ける様子はない。


 山が騒ぎ出した。上空を飛んでいた鷹は姿を消す。踏ん張りきれず、根を浮かせた花が宗米の背中を叩いた。


「覚悟せよ」


 天狗の声が宗米を打ち付ける。


 天狗から目を離せない宗米は、そこである音を聴いた。それは早い感覚で規則的に鼓膜を打つ。少しして、その音は心臓と歯によるものだと気づいた。


 音が宗米を支配する。天狗が一歩、近づいた。そこで宗米はあることに気が付く。


「か、風……」

 

 天狗が向ける感情の発露は荒れ狂う怒りの本流。宗米はそれに飲み込まれる。そこで彼はとらえた。

 

 天狗は、


 確かにそこに見える。宗米の目はそれをとらえて離さなかった。言語化できないそれは、目の前にある。


「天狗、俺は絵が描けるんだ」




 奏都に俵屋宗米という絵師を知らないものはいない。奏功節二百十四年、彗星のごとく現れた宗米はその名を都中に轟かせた。


 彼はある日、再び名を轟かすことになる。都でも有数の名画家と呼ばれる宗米が、忽然と姿を消したのだ。


 その話題はじわじわと広がっていく。そんなある日、都でとあるうわさが立った。その噂は、「宗米は妖怪にさらわれたのだ」というものだ。人間というのは不思議なもので、衝撃的なことが起きると、その衝撃をさらに上回る発想をする。都はその話題で持ちきりになった。


 噂が回りに回って都の外に出始めたころ、俵屋宗米の名で新たな作品が発表された。


 奏都は三度みたび、宗米の名を話題にあげた。

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