5
広い。タイル張りの床、壁。たっぷりの湯気。
洗い場があって、奥に、大きな浴槽。壁には、富士山と、大きな花火の絵が描かれてる。
彼女は、もう、浴槽に浸かっていた。
「ちゃんと身体洗ってから入れよー?」
言われたとおり、身体を洗う。シャワーのお湯が、熱い。
でも、気持ちいい。どうしようかと思ったけど、髪の毛も濡れていたから、頭から洗った。
タオルで石鹸を泡立てて、全身に付いた垢を落とすように、これでもかとゴシゴシ削るように洗った。何もかもを洗い流してしまえるように。嫌な記憶も、惨めな自分も、新しくできたばかりの青アザも。
消せるわけないのに。
全身洗って、泡を流して、浴槽へ。ここ最近、シャワーばっかりだったから、大きなお風呂が気持ちいい。と思ってお湯につかろうとしたけど、
あっつい、あっつい! お湯、熱いよ!
指先すら入れられない! 何これ熱いよ!
何回も脚を突っ込んでは引き抜いて、ヤマンバに笑われて、何度も何度も逡巡してから、ようやく、脚を一本、続いて二本、そこからゆっくり、腰を落として、お湯につかれた。
ふわああああああああああ。
彼女が入っている、浴槽のできるだけ遠くに。
「いや、なんでだよ!」
近くに来いと言われたけど、拒否。
いじめが、陰湿なのは、バレないように、見えないところを攻撃してくること。
私の身体には、いくつもの、小さな青アザと傷がある。きっとこの傷は、そのうち消えるくらいの小さな傷。だけど、たぶん、一生記憶からは消えない。
そんなモノ、見られたくないし、ヤマンバに見せたくない。
ところが、そんなこと構わず、彼女は、湯船の中をジャブジャブと、立って歩いて近寄ってくる。
ぎゃあ。
すーっと肩までつかったまま、逃げる。
「趙ウケる。ふざけてんの?」
ふざけてないもん。真剣だもん。
「気にしないから!」
と、彼女は、湯船の中で、両手を広げて、仁王立ちになった。
その全身を見せてくれてる。首を回して、彼女の裸を見る。
スポーツマンらしい彼女の引き締まった褐色の身体には、無数の傷があった。小さくて、目立たない、いつか消える、一生消えない傷。
私と同じように。ああ、この人も。この人も、そうなんだ。
逃げるのをやめた。背中向きに、私も浴槽の中で立ち上がる。そのままゆっくりと、彼女の方に向き直った。
「……ちっちゃくね」
「は?」
「おっぱい、ちっちゃいね」
カーッときた。何それ何それ!? 人が勇気を出したのに、言うこと、それ!?
「そっちだって!」
おっぱい、ブラの形で日焼けしてるから白かった。妙に生々しい。
そして、小さかった。偉っそうに! お互い様じゃん!
「いや、あんたよりはあるよ」
「ないよ! 少なくとも、偉そうに言うほどはない!」
私たちは、湯気立ちこめる銭湯の湯船で、お互いにおっぱいさらして全身押っ広げて、何をしてるんだろう?
馬鹿馬鹿しくなって、ふたりして笑った。
ふふふふふふふふふふふふふふふふふ……
ははははははははははははははははは!
改めて、お湯につかる。今度は、2人並んで、寄り添って。
ふうううううう。熱いお湯に、全身がとろける。
だんだん、お湯に慣れてきた。
「チョー気持ちいいよね〜」
そういう彼女は、お湯で顔を洗った。メイクはもう落としてる。
黒い。けど、メイクの黒さではなく、褐色のキレイな肌。スポーツをやってる、健康的な肌。
「焼けてるんだね」
目の周りや唇に塗ってた白いラインは消えて、ナチュラルにキレイな顔だった。
どうしてだろう。見ててどこか安心する。吸い込まれそう。
「部活?」
「それもそうだけど、プールにも行ったりしたからかな〜」
いいな。楽しそう。
「今度、一緒に行く?」
「……いいの?」
「海とプール、どっちがいいかな?」
「さっきの、花火の話」
玉屋と鍵屋。
「よくあんな話知ってるね」
そういうと、顔の色が如実に変わった。
真っ黒メイク、日焼けした肌、更に、真っ赤になっている照れた肌。
「あのね、実はね」メイクを落とすと、人格も変わるのか、ヤマンバ、モジモジして、
「ただの受け売りなんだ。先生から教えてもらって……」
へえ。
「先生、めちゃくちゃ頭よくて、物知りで、知らない事なんて何にもないって感じで、すごく、すごく」と、溜めるだけ溜めて、
「イイ人なんだ……」
そう言いながら、彼女は、お湯の中にドンドン沈んでいく。口から鼻から、ブクブク泡が出てくる。真っ赤になって照れながら。
きゅっと、なんだか、胸の奥に痛かった。ん。
「大人なのに、子どもっぽくって、でも、ちゃんと大人で、私が何をやっても、全部受け止めて、許してくれて、でも、怒るときはちゃんと怒って、めちゃくちゃ怖くて……」
お湯の中で、ブクブク息を吐きながら、そんなようなことを、矢継ぎ早に言う。
ああ、この人は、この顔は。その先生のこと、
「……好きなの?」
「好き」
即答だった。真っ赤な顔で、真剣にこっちを見てくる。
その顔が、まっすぐすぎて、見るのが辛い。
「憧れなんだ。私の」
というと、きゃー! と言いながら、またお湯の中に、今度は、頭まで潜り込んだ。ブクブクブクブクブクブクブクブク.。o○
銭湯のおばちゃん曰く、流行のガングロコギャル、ヤマンバの出で立ちで現れた、バケモノみたいな彼女は、今、多分世界で一番、乙女だった。
そんな乙女を、私は見ていた。
会ったばかりのこの人が、誰を好きでも構わないのに。どうでもいいのに。関係ないのに。
なのに、なのに、なのに。
なんだろう。やだ。だから
「その先生、もっと他にも、面白そうな話、知ってそうだよね」
そう言うと、彼女はぱああっと笑顔になった。
「そうなの! 他にもね」
気づいてるんだろうか。恋する乙女が、ただそれだけで、めちゃくちゃ可愛いことを。
矢継ぎ早に、あんな話題こんな話題と、たくさん、「先生」のことを、彼女は話してくれた。話してる内容なんて、正直、何一つ覚えていない。ずっと、彼女の顔だけを見ていたから。
ちく。
「会ってみたいな、その先生」
心とは裏腹なことを言った。
チク。
「でしょ!? 絶対楽しいよ!?」
彼女が喜んでくれるんじゃないかと思ったから。
チクリ。
そこから、しばらく、とりとめもない話をした。
あまりにも話し込んで、時間がたつのも分からなくなって、ただ、頭がのぼせそうになったから、お風呂から上がった。
お風呂に入る前、脱衣所で、おばちゃんから、彼女のことを聞いていた。
中学の頃から、陸上競技をやっていて、走り高跳びでは、県大会にも出場する選手だったとか。
毎日のように、部活でかいた汗を、銭湯に流しに来て、さっぱりして帰る。
家にお風呂がないとかで、親から回数券を渡されて、通っているらしい。
それが、いつ頃からか、銭湯に来なくなり、久しぶりにきたと思ったら、ガングロコギャル、というメイクをするようになり、世間一般で言うところのヤマンバになっていた。
「どうも、いじめに遭ってるらしい」
おばちゃんも、本人に聞いたわけじゃないらしいが、あるとき、銭湯の前で、ずぶ濡れになっている彼女を見かけ、どうしたのと聞いたが、何も言わなかったという。
とにかく、風呂に入れて、服を預かり、風呂に入っている間に、服を乾かしてあげた。
その時に、彼女の身体に、生傷がいくつもできていたのに気づいたという。
でも、彼女は何も言わず、ただ、前よりも更に元気で大きな声で、銭湯に通うようになった。
「元気になったわけじゃなくて、やせ我慢をしてるだけだと思うんだけどね」
周りの人に心配をかけまいとして。
より明るく。より強く。私と正反対に。
そしてきっと、親にも本当のことを言ってない。私と同じく。
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