第2話 翌朝

 俺はいつも通り、朝早く廊下に出て、廊下を掃くふりをしていた。すると、娘さんが一人でとぼとぼと戻って来た。俺は近寄って行って、声を掛けた。

「お母さんの具合どう?」

「亡くなりました」

 娘さんは悲しそうに答えた。

「あ、そうだったんだ。急で驚いたね」

「はい。でも、前から具合が悪かったんで」

「そうだったんだ。失礼だけどどこが悪かったの?」

「脳梗塞で…後遺症があったんです」

 自分と同じ病気だったので俺はギョッとした。脳梗塞は何度も繰り返して、回数が増えるほど重症になって亡くなる人もいるからだ。

「お母さん、いくつだったの?」

「五十です」

「あ、俺と同い年だ!俺も脳梗塞でね」

「あ、そうだったんですか。気が付きませんでした」

「ちょっと片側に麻痺があって。平衡感覚がないんだよね。お母さんも病気がちでも、君が一緒に住んでくれてて安心できたんじゃないかな」

「だといいんですけど」

 娘さんはなかなか部屋に入ろうとしなかった。俺は純粋に気の毒に思ったから、朝食に誘った。朝食と言ってもパンを焼いて、コーヒーを入れて、ゆで卵やサラダを出すくらいしかできないのだが。

「え?いいんですか?」

「うん。大した物はないけど」

 俺は若い女性を部屋に入れることにドキドキしていた。彼女の髪はぼさぼさで、憔悴しきっていて、目元には目やにが付いていた。顔を洗う暇がなかったんだろう。でも、母親が亡くなった後にしては、平然としている気がした。


 俺は足を引きずりながら、キッチンの中を行ったり来たりして朝食を二人分準備した。普段から、ヘルパーさんが片づけてくれるし、俺自身荷物が少ないので部屋は片付いていた。


「一人暮らしですか?」

「うん」

「きれいになさってますね」

「介護保険でヘルパーさんが来てくれるんだよ」

「え、まだ若いのに」

 俺は嬉しくなった。スナックでホステスさんにお世辞を言われた時のようだった。

「俺も脳梗塞やって、今障害者になっちゃったからね」

「え、それでお一人暮らしなんですか?」

 信じられないというような口ぶりだった。俺は若い頃はけっこうモテたし、こんな風に落ちぶれる前はタワーマンションに住んでいたのだ。家賃は月二十万だったけど、その家賃を払えるくらい稼いでいた。俺が未婚だと言うと皆驚いていたものだ。

「婚期を逃しちゃってね」

 親戚のおじさんみたいな口ぶりだと自分で情けなくなった。狙っていた女性が目の前にいるのに、俺は笑ってごまかした。きっと、かわいそうだと思われているだろう。この子は母親がいなくなって、これから自由になれるのに、引越してしまうんだろうなぁ…。惜しい。


「君は?彼氏いるんじゃない?」

「…私、今まで男の人と付き合ったことないんです」

「うそ!そんなにかわいいのに」

「そんな風に言ってくれる人、いないんですよねぇ」

 暗くうつむき加減に歩いていた子とは思えないくらい、滑らかに話していて。はっきり言って、コミュ障でも何でもない。人は見かけによらないなと改めて思った。

「仕事、どんなことしてるの?」

「清掃です」

「そっか。大変じゃない?そんなに若いのに…もっと楽な仕事あるんじゃない?」

「私、接客が苦手で」

「事務とかは?」

「だめなんです。私、人間関係が苦手で」

「そっか…掃除はそういう心配がないわけか」

「はい。楽です」

「掃除もちゃんとした会社に入れば、組合とかもあるみたいだしね。若い人も多いよね」

「はい」

「これから一人暮らしするの?」

「んー。でも、引越さないといけなくて」

「あ、そうなんだ。残念だけど…仕方ないね」

 俺は心底がっかりした。

「今まで話す機会がなくて、何か力になれればよかったんだけど」

「いいえ。リンゴくれたり、話しかけてくれて嬉しかったです」

「あ、そう良かった」

「私たち…近所の人から嫌われてたから」

「え、どうして?」

「近所の集まりにでなかったし。感じが悪かったみたいで」

「ああ、今まで会ったことないね。でも、変な人が多いからいいと思うよ。やっぱり都営に住んでる人とか…微妙な人も多いから」

 俺はその辺の都営住の人種とは違うというプライドがあった。不幸にして健康を害してしまったから、都営に住んでいるけど、本当は資産は五千万円あるのだ。親族がいないから、生きているうちにどこかに寄付しようかと思っていた。それか、女性に使うかだ。

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