気になる女
連喜
第1話 隣人の娘
俺は都営住宅で独り暮らしをしている五十歳のおじさんだ。脳梗塞の後遺症で障がい者になり、仕事は休職後に普通退職。今は障害年金をもらって暮らしている。家族とは縁が切れていて、友達が一人もいない有様だ。孤独過ぎて死ぬのを待っているような暮らしをしている。安酒を飲み、スナック菓子を食べ、テレビを見る。飽きたらネットをやって一日が終わる。それが毎日だ。仕事はしていない。元々は大企業のエリートサラリーマンだったのに、今更、障碍者雇用枠では働きたくない。きっと、自分と同じような層からは憐れまれて、格下の連中には嘲笑されるだけだからだ。
都営住宅で暮らすなんて落ちぶれたもいいところで、同級生や元同僚が知ったら面白がるだろう。しかし、俺が住んでいる都営はすごくきれいで新しく、普通のマンションみたいだった。もちろんエレベーターも付いている。交通の便もいい。それでいて家賃は都内と思えないほどの激安ぶり。
そんな俺にも、前からちょっとだけ楽しみになことがあった。
近所に女性だけで住んでいる人たちがいた。母と娘の二人暮らし。所謂シングルマザーのご家庭だ。どちらも、すごく物静かな人たちで会っても会釈するくらいで話したことはない。
お母さんが病弱のようで、娘さんが高校に進学せずに家計を支えて来たようだ。娘さんは二十代後半くらいだろうか。猫背でうつむき加減に歩いていて、化粧っ気がない。俺は化粧で胡麻化している詐欺メイクの女たちには嫌気がさしていたから、彼女みたいに素顔で勝負している人には好感を抱いている。服は地味で、鼠色のシャツに下はジーンズと、いつも似たような感じだった。仕事は清掃員などだろうか。接客をやるようなタイプには見えない。
その家に友達が来ていたこともないし、二人だけでひっそり暮らしているようだ。お母さんはほとんど見かけない。きっと部屋で一日中寝ているのだろう。見かけるのは娘さんだけで、それも朝が早い。
俺はその人に会うために、偶然を装って廊下に出ていた。玄関前を掃くというボランティアを勝手に初めていた。毎朝やっているから全然ゴミがないのだが、形だけ廊下に立っている。すると、住民の人たちが「いつもすいません」と感謝してくれて、おすそ分けなんかをくれる。下心があってやっているから恥ずかしい。俺がエア掃除をするのは、彼女が仕事に行くまでの間だけなのだ。
「おはようございます」
俺は微笑みながら挨拶する。すると彼女も頭を下げてくれる。あまり目を合わせないが、俺にとっては魅力的な女性だった。男の影はまったくなく、俺にとってはチャンスなのではないかと思った。
先日、田舎の親戚からりんごが送られて来たから、おすそ分けのふりをして持参した。東京ではりんごは一個百円くらいするから、高級なフルーツの部類に入ると思う。十個ほど持って行ったらすごく喜んでくれた。その時、初めて俺はその女性、
俺たちはそれから会話を交わすようになった。話すと二言三言返って来る。俺はそれでほっこりした気持ちになれて、一日前向きに過ごせた。五十の俺に二十代の彼女が出来たらすごい。それは、エリートサラリーマン時代にも成し遂げられなかった偉業だった。
***
俺は買い物に出かけられないから、介護保険のヘルパーさんが週三回家に来てくれている。その人に掃除や調理をお願いする。洗濯は乾燥機付きのを買っているから、数日おきに洗濯物をぶち込んで回せば完了だ。
冷蔵庫には、ヘルパーさんが作ってくれたおかずがいつも入っている。ヘルパーさんはみな五十代以上の人たちだが、いい人、それほどでもない人が混在している。いい人は、料理を何品も作って、さらに掃除もやって行ってくれる。後者は、料理は簡単な物だけで、掃除も中途半端。終わる時間を待って何度も時計を見ている。俺は買い物に行けないから、ネットスーパーで注文して届けてもらうようにしていた。出かけたいけど、付き添ってくれる人が誰もいない。近所の公園でいいから、生の桜をみたいと思ってもそれすら叶わないのだ。障害を負ってから、自分で歩けることはそれだけで幸せなことだったと身に染みて思った。
ある時、急にうちの団地に救急車がやって来た。どの家だろうと思ったら、あの親子の部屋だった。俺ははらはらしながら廊下に出て、お母さんが運ばれて行くところを見ていた。担架に乗せられて運ばれて行くお母さん。それにうつむきながらついて行く、娘さん。どんなに心配しているかと想像して、俺は涙が出て来た。
どこの病院に行ったんだろう。俺は親子のことが心配だった。命に係わる病気じゃないといいのだけど。俺はその夜いっぱい、神様に手を合わせていた。
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