第2話 魔物との戦いとロードの決意

 翌朝、僕は兄さんと同じ寝室で寝ていると、一階から兄さんが手を叩いて僕の名を呼んでいる声が聞こえてきた。

 朝食ができてから僕を起こしに来ることは日課になっていたけど、体はうんともすんとも言わない。

 まだ体は寝ていたかったのだ。

 僕はもう少しだけ! と大声叫んでもう一度毛布を頭まで被って二度寝しようとしたけど、兄さんが階段を駆けあがって勢いよく寝室の扉を開けて入ってきた。

 毛布から引っ張り出されないように両手両足、しまいに頭まで使って抵抗した。

 「飯が冷めちまうからさっさと出てこい!! 二度は作ってやんねーぞ!」

 「いやーッ!! まだ寝ていたいの!」

 しかし、それでも大人と子供、リードの力の前にまだ成長しきってないロードに抗う術はなくベッドから放り出された。

 「痛ッ!」

 顔から床にぶつかった僕は、特に痛かった頭を手で押さえながら兄さんを見上げて無理やり起こすなんてひどいと文句を垂れた。

 でも、鬼の形相で見下ろしている兄さんに僕の言い訳は通用しなかった。

 自分の手を煩わせたことに加え、まだ寝ようとしている僕の態度が気に食わないのか、押しつぶされそうなほどこっぴどく怒られた。

 最後には僕は泣きながら兄さんの袖を掴んで一緒に一階へと下りていくほどに従順になっていた。

 なんでこんなに怒るんだろう……? 前までは僕のワガママも笑って見過ごしてくれたのに、と過去を思い返すと、ついこないだから兄さんの態度が硬化したことに気づいた。

 訳を聞こうにも、また怒られるかもしれないと思うと怖くて聞くことができなかった。

 考えている間に一階へと下りていた。僕は兄さんに濡れた布で目を擦って目垢と涙を拭い取ってもらってから洗面所で手を洗って食卓の席に着いた。

 食卓のテーブル上には僕が好きな鶏肉が入ったクリームシチュー、町で買ってきたパン、自家製野菜で彩られたサラダ、最近背を伸ばすために買ってきてもらっている牛乳が並んでいた。

 鼻孔を突き抜けるほど甘く香るクリームシチューを早速頂こうと、僕はパンをちぎってその大好物に浸してから口の中に放り込んだ。

 美味しい。温かさで甘みを抑えられ、鶏肉の塩味とほどよい感じに混ざり合って口の中を幸せにしてくれる。やっぱり兄さんが作るクリームシチューは一番だ。

 僕は無我夢中でクリームシチューが入ったスープ皿にパンを浸して口の中に放り込んでいく。

 途中でパンが無くなることもあったけど、兄さんのパンを手でちぎって自分の物にして不足分を補った。

 「ふー食べた食べた~ 僕もうお腹いっぱいだよ~」

 食事を終えて周囲に注意が向けられると、兄さんが指でこめかみをなぞりながら思案顔で赤い瞳を僕に向けていた。

 兄さんが怒っている。それは目で見なくてもヒシヒシと伝わって来る。

 「パ、パンを取ったことを怒っているの? だったら謝るから許してよ」

 先手必勝、先に謝ればあまり怒られないことは過去の経験から明らかだった。

 「……………」

 何の返事もない。さっきと同じように僕をあのすべてを威圧するかのような赤い目で僕をじっと見つめている。

 無言の圧力というのだろうか? 長い間見つめられると頭の中の不安の種が芽を出して伸びてきて全身から冷たい汗が滴り落ちるのを感じる。

 何か言いたいことがあるのか? と我慢しきれず聞こうとした瞬間、兄さんの口が動いた。

 「俺が間違っていた…… お前を厳しく育てるべきだった」

 リードは自身の心情をそのままロードに吐露した。それは後悔であり、自責の念であり、失望であった。

 過度な甘やかしでロードの魂は母を求める赤子のまま成長していなかった。過剰なまでの砂糖の摂取が毒となって人体を蝕むように、アメのみで育てられたロードはリードにとっても、彼自身にとっても猛毒となった。

 過去には戻れない。時空を超えて巻き戻すことは世界の因果律に反することになる。

 ならどうするか? リードの答えは明白だった。

 「今から俺はお前を甘やかさない。お菓子も遊具も、毎朝の寝室での決闘も面倒は見ない。全部ひとりでやれ。まずは食べ終わった皿を自分で洗え」

 僕は突然の告白に言葉を失った。

 なんでなんでなんでなんでぇー!? 兄さんの言葉を理解するのに頭が真っ白になった。

 毎日町で買ってきてくれるケーキやクッキー、二人で遊ぶための人形などの遊具、朝食の準備と片付け、朝の目覚ましなど、これらのすべてが無くなるなんて兄さんは頭がおかしいんじゃないか。僕の頭に怒りの二文字が浮かんできた。

 「いやいやいやいや! いやーッ!!」

 僕は体を激しく動かしてテーブルの上に乗っている皿やコップなど、ありとあらゆる物を床へと払いのけた。

 だけど、涙の訴えも兄さんには届かなかった。だから、僕は椅子をも倒して近くにあった物を手っ取り早く部屋に投げつけた。

 ガラスが割れ、陶器の破片、本、カーテンまでもが床に散らばったリビングは嵐に巻き込まれたように悲惨な状態になっていた。

 兄さんはそれでも怒鳴ったり、殴ったりするなどせずに僕を静観していたかと思うと、椅子から立ち上がって壁に掛けてある箒とちりとりを僕に手渡した。

 「気が済んだか? ならとっとと片付けろ」

 掃除道具を前にロードが示した反応は拒絶と逃走であった。

 ロードは提示された道具に背を向けて玄関のドアを開けると、どこかへと去っていった。

 荒んだ家に一人残ったリードはため息をつきながらもロードが汚した床の掃除を始めるのだった。


 家を飛び出したロードはいつも薪を集めに来るための森へと来ていた。

 二人が住んでいる家は多くの人々が住んでいる町とはかけ離れた場所にあり、昔魔物に襲われたであろう小さな廃村の中にある。

 リードは畑から取れた野菜などや日雇いの仕事などで家にいないことが多いため、ロードは近くで遊べる場所として森へと足繫く通っていた。

 「うう… 家に帰りたくないよ~ でも、帰らないとご飯食べれないし…… ああ! 帰っても兄さんに絶対怒られるよ!」

 僕は地面に寝転んでこれからのことを悩んだけど、正直家には戻りたくない。あんな家の出て行き方をすれば兄さんだって黙ってはいないだろう。特大の雷が落ちる。

 深く悩んでも時間は刻一刻と迫ってくる。これ以上深く考えても埒が明かないので僕は一旦仮眠をとることにした。

 考えるべきとはその時考えればいいのだ! 僕は楽観主義をモットーにしてるのだ!


 どれくらい眠っていたのだろうか? 誰かが僕を呼んでいる声が聞こえてきて朧げながらに声がした方を向いた。

 兄さんが僕を迎えに来たんだろう、兄さんが僕に謝りに来たのだろう、と僕は勝ち誇った気がして少し笑みがこぼれた。

 だけど、そこにいたのは全く知らない子供だった。

 それは今までに感じたことのない衝撃だった。森の中では人間の姿なんて見たことがなかったし、ましてや子供なんて考えれないことを鑑みれば妥当である。

 曖昧な意識が一瞬で現実に戻り、僕は木にのめり込むほど体をその子供から遠のかせた。

 「だ、誰ーッ!!?」

 息が上がり、手足がガクガク震えるほど目の前にいる子供に緊張している。

 僕と同じくらいの歳だと思うけど、上手く話しかけれない。向こうも僕の様子を伺っている様子で話しかけてこない。

 しばらくの沈黙が二人の間に流れたあと、その見知らぬ少年が僕の方に近づいてきた。

 「僕の名前はコリン、君は?」

 緊張をほぐしてくれる彼の微笑みに誘われて僕は木の影から出てきて自己紹介をした。

 「ロ、ロード」

 僕の名前を聞くとコリンはより一層笑顔になって僕の手を掴んで上下に揺さぶってきた。

 話を聞くとコリンは僕たちが住んでいる家から二番目に近いククルの町の子供だそうで、迷いに迷ってここまでたどり着いたそうだ。

 ここら辺りは人気が全くないので魔物に遭ったらどうしようかと、不安に駆られている最中に僕が寝ているのを発見して嬉しさのあまり僕を叩き起こしたのだと言う。

 同じくらいの身長に茶髪のコリンは話しているうちに自然と僕の初めての友達になった。

 「それでお願いなんだけど僕をククルの町まで連れて行ってくれないかな? 早く帰らないとお母さんが心配するから」

 「うんいいよ! ククルの町ならいったことあるし、兄さんに頼めば魔法で一瞬でたどり着けるよ!」

 「よかった~ これで帰れる~!」

 家に帰れることを体を使って全力で体現している姿に僕も嬉しくなって手足を組み替え踊りだした。

 踊るというものは楽しい。何も考えてなくても自然と喜びが沸き上がって来る。

 だけど、そんな楽しい雰囲気を硬直させる質問をコリンは悪びれることなく言ってきた。

 「ねえ、僕は八歳なんだけどロードっていくつなの?」

 僕はドキッとした。まさかコリンが僕より年下だなんて思ってもみなかった。

 十一歳の僕の身長が八歳の男の子と変わらないという事実を受け入れたくない僕は、受け入れる前に他の可能性を考慮して言い訳を思いつき始めた。

 コリンは八歳児にしては身長が他の子より高い、本当は八歳児ではないなど、無意識に自分の身長が低いという要素は排除して解がない別解を探した。だけど、そんな都合のいい事象なんて起こるはずがない。

 「き、九歳……」

 行き場を無くした僕はとっさにみっともない嘘をついた。

 嘘をつくことは人を堕落させる、と兄さんから小さい時から言われていたけど、僕のプライドは現実を受け入れるのには高すぎた。

 嘘は方便という言葉があるけど、僕みたいなカッコ悪い嘘つきを救うためにある言葉なんだと痛感した。

 「ごめんなさい。僕、実は嘘をついてたけど、本当は十一歳なんだ」

 運は僕の味方をした。

 僕は反射的に本当の年齢をコリンに打ち明けた。「同い年どうし仲良くしよう」と笑顔で手を伸ばしたけど、すぐにまた僕はコリンの言葉でどん底に突き落とされた。

 「え~!? 十一なの、その身長で!? 僕本当は八歳だけど、ロードは年上のくせに僕とあんまり変わらないんだね」

 屈託のない笑顔で僕の純真を踏みにじったコリンに、僕はどうしようもない怒りと恥ずかしさが沸々と湧き上がってきた。

 「うわあああああ!!」

 僕は絶叫を上げた。恥ずかしすぎて死にそうになった。コリンの前から姿を消したくなった。

 廉恥、葛藤、怒り、興奮、感情のもつれが極まるところに至った僕が選んだ逃避行は木の上にのぼることだった。

 木の枝と幹の間の丈夫な場所に居座った僕は赤面しながらコリンに背を向けてすすり泣いていた。

 登れないコリンは地面に落ちてあった長生きの枝を使って下から僕のことをつつきながら下りてくるように言ってきたけど、僕は変に裏切られた気がして彼と顔向けしたくなかった。

 「いつまでそこにいるの? ロードは僕より年上なんだから泣かないで下りて来てよ~!」

 「泣いてないッ!」

 僕はコリンの方を見て怒鳴った。僕が怒っている訳を知らない、全く理解していない顔を見て怒りのボルテージは最高潮に達した。

 「いや泣いてるじゃん。というか何をそんなに怒っているの?」

 「コリンが嘘をついて僕の純粋な思いを踏みにじったからだもん!!」

 「でも、ロードも九歳って嘘ついたじゃんか。それに、背が小さくてもこれから伸びるってことも考えられるから気にすることないよ」

 コリンの言葉を聞いて僕は大事なところを見落としていることに気づいた。

 成長期。それは人間が年を重ねるにあたって肉体と精神が大きく成長することだと兄さんが言っていたような気がする。

 さらに成長期は大きく二段階に分けることができ、時期は人によるけど早いと十一歳から始まると聞いたことがある。

 僕はこの前十一歳になったばかりだ。それはつまり、これからグングン身長が伸びて兄さんぐらいの馬鹿でか巨人になれる可能性を示唆していた。

 「ふふ、ふふふふ…… そうかそうか僕はまだ成長しきってないからコリンと同じくらいの身長しかないんだ。僕はまだ成長しきってない!」

 気をよくした僕はスルスルと幹を下りて行ってコリンと対面した。

 コリンは機嫌をよくした僕を和やかな顔で出迎えると、「まだお日さん高く昇っているから一緒に遊ぼうよ!」と僕の手を引っ張って駆け出した。

 

 日が暮れるまで遊ぶことにした僕はコリンのためにとっておきの物を見せてあげようと森の深淵まで足を運んだ。

 森の奥というのはさっきまで僕たちがいた場所とは違って、人の足がほとんど踏み入れてない未知の領域、神秘的な樹海が僕たちを包んでいた。

 遠くから聞こえる川の音、鳥たちがさえずり空をかける音、風がなびいて木のてっぺんの枝が揺れる音、これほどまでに森というものを感じる場所はどこに行ってもないと思う。コリンも興奮していた。

 そんな神秘的な森の雰囲気を堪能しながら歩いていると、ようやく僕が見せたかったものが見えてきた。

 「あれだよコリン、僕が見せたかったものは!」

 そこには一匹の羊に似た大きな動物がいた。羊のフカフカの白い体毛と牛の空に突き上げた黒い角を持ち二人と同じくらいの体高をほこるその生物は、薄暗い森の中で唯一太陽の光が直接当たる場所で悠然と立っており神秘的な雰囲気を醸し出している。

 「何あれー!? 牛ッ!? 羊ッ!?」

 「違うよこれはベジタリアンだよ」

 驚いて動けないでいるコリンを傍らにおいて、僕はスタスタと近づいて地面に生えてある草を抜き取ってベジタリアンの口元まで運んでやる。すると、ベジタリアンは僕の手を巻き込まんばかりに草をモグモグと夢中で食べ始めた。

 涎でベッショり濡れた手をコリンに見せつけて危険な生物じゃないと知ってもらってから、コリンも僕と同じように近づいて餌を与えた。

 「食べてる食べてる! かわいい~」

 「でしょ、何年か前にここで見つけたんだ。僕がここに来ると絶対ここで立っているんだよ。でも、ここは森の奥だから時間が余っている日にしか来れないんだ」

 「ふ~んそうなんだ。なんでベジタリアンって呼んでるの?」

 「草しか食べないから。草食動物は全部ベジタリアンだって兄さんが言ってたから」

 羊も牛も鳥にいたるまで、僕の論理に当てはめれば家畜はすべてベジタリアンだ。僕はこれらの動物を固有の名前で呼ぶことはない。人のように見て区別することは人間の目では困難だからだ。

 だから、この羊と牛を掛け合わせた動物も種族としてベジタリアンという言葉を使っている。

 「こんな動物初めて見たよ。もしかしてこれって……新種じゃない?」

 「新種って、誰も見たことがない動物ってこと?」

 「そうだよ! 新種を見つけたら発見者には名前を付ける権利が与えられるって本で見たよ」

 驚いた。まさかそんなことが……でも、よく思い返せばそんな気がしてくる。昔兄さんに貰った【世界の動物を一見できる図本】。得た知識では目の前にいる不思議な動物に共有する部位を持っている動物はいるけど、根本的に異なっているように思う。

 そう思うと僕は興奮して鼓動が早くなり、全身の血液が目まぐるしく動いているのを感じる。こんな情熱的な興奮と感動を僕は経験したことがない。

 思えば僕の人生というのは失敗続きだった。魔法、家事、勉強といった兄さんに懇切丁寧に教えてもらったことから挫折し続け、逃げ続けた。

 だけど今、僕は光を手に入れた。小さな森の中でさまよい、途方に暮れている僕を外へ連れ出してくれる道筋のようなものを。

 「じゃ、じゃあさ僕がこの子の名前を新しくつけてもいいんだよね!!?」

 「うん! おめでとうロード、これで君も有名人だよ!」

 コリンも世紀の大発見に胸を躍らせていた。友達からの祝福というのは何とも言い難い。ただただ嬉しかった。

 僕は名前を何にしようか少し考えてみた。モフモフの白い毛並みに顔を埋めて、心地よい思考の世界へ入っていくのを感じながら僕は一つの名前を思いついた。

 「ポカポカ…ポカポカっていい名前じゃない!?」

 「いいね! このモフモフにちなんだ名前で覚えやすいよ!」

 「えへへ~でしょ~? みんなに好かれて欲しいな! それじゃあ行こうポカポカ、町のとこまで行ってみんなに見てもらいに!!」

 ポカポカの毛を引っ張ってその場から動かさそうとしたけど、一歩たりとも動かすことができない。コリンに手伝ってもらうが、それでもこの巨体を移動させるには力が圧倒的に足りない。

 「うーッ!! 動け!動け!動け! もー!! 動いてよー!!」

 「僕たちの力だけじゃ無理だよ。誰か他に手伝ってもらわないと」

 「大丈夫、僕たちだけで十分だよ。文句言わないでもっと力を入れて!」

 僕はコリンの意見を聞き入れることはなかった。それもそのはず、この辺りにいる力持ちの人は考えられる限り兄さんしかいない。

 確かに兄さんならポカポカを移動させることができるかもしれない。でも、家をあんな形で家を飛び出した以上、ぬけぬけとお願いすることはできないし、聞いてくれる見込みもない。

 そこから数十分、僕たちはポカポカを動かすことに紛糾した。

 「もう諦めようよ、僕疲れた~」

 コリンは一向に動かせないことに疲れて地面に尻もちをついた。

 兄さんの助けを求めない僕の意地がこの場に長く留まらせる要因となり、さっきまで見えていた一光の太陽も木の影に隠れようとしていた。

 風の音が消え、鳥のさえずりが消え、周囲の音一切が消え去り静寂が僕たちを覆った。僅かな陽の光を失った深緑の森はさらに濃くなり、遠くに見える木は影と区別がつかないまでに暗黒が迫っていた。もうこれ以上、長く森の中にはいられない。コリンも辺りの様子に恐怖して僕に体を寄せてきた。

 「怖いよロード、早く家に帰ろうよ。このままじゃ……」

 ドスンッ! 

 何か重たいものが地面に落ちたような音が僕たちの後ろから聞こえてきた。

 「なにぃッ!?」

 反射的に後ろを振り向いて音がした方へ視線を集中させる。

 何か恐ろしいものが音と共に近づいてくる。人ではない何かが。

 僕たちは直感的にその近づいてくる生き物が人ではないことを確信した。

 僕の体にしがみついてるコリンの恐怖の感情が直に伝わって来る。

 魔物だ……最悪の展開を思い浮かべてしまい、歯がガチガチと音を立て手足も震えてくる。

 逃げ出したい……僕一人ならできただろうけど、頼りない僕を頼りにしてくれるコリンがいる以上、見捨てることはできない。

 「大丈夫だよ、僕がちゃんと家に帰してあげるから……」

 何で僕はあの時、コリンの言葉に素直に従わなかったんだ、と後悔した。

 まだ暗くなる前に家に向かっていれば、今頃三人で夕食を食べて会話を楽しんでいただろうに。僕のプライドが僕だけでなく、コリンの身をも危険に晒したことの償いで身代わりになろうと一歩前へ出た。

 「聞いてコリン、僕が身代わりになって魔物を引き付けるから、その間にあっちの方向に僕が住んでいる家があるから走って逃げて」

 「わかった。でも、そうしたらロードが危ないよ!」

 「いいの! コリンは自分が逃げることだけ考えて!!」

 絶対にコリンだけは守る! もしかしたら死んでしまうかもしれない。だけど! 僕のせいで人が死ぬのは死んでも嫌だ!

 数秒後、僕の脆いガラスのような精神は魔物の登場によって粉々に崩れ落ちた。

 尾だけで1メートルはあろうその黒く巨大な狼の魔物は、口元からは涎がダラダラと零れ落ちて輝く鋭い牙をのぞかせ、目は赤く獲物を見据え、赤い鬣が頭頂から背中にかけて生えている。

 その姿は僕たちの決意を砕くには十分だった。

 「うわあああああああ!!」

 僕たちは先ほどの計画なんて実行する暇もなくバラバラに逃げ出した。

 お互い別々の方向へ逃げ出したことで、魔物は標的を一人に絞った。

 「来ないでぇ!! 助けてママ!パパぁー!!」

 魔物は僕ではなくコリンに狙いを定めた。

 聞こえてくるコリンの悲鳴が後ろから耳に入ってきて、僕は謝罪の言葉を頭でずっと唱えながら逆の方向へ逃げ続けた。

 

 ずっと逃げ続けて、逃げ続けている僕を地面が止めた。

 「痛たた……」

 顔から転んでおでこがヒリヒリする。早く逃げなきゃとは思うけど、恐怖心から逃げていた僕を一瞬でも止めたことによって全身の疲れがドッとこみ上げてきた。

 全身の痺れ、過呼吸、擦り傷……僕の体は限界を超えていた。1ミリも動かせそうにない。

 「はあ、はあ、こんなところで立ち止まってる暇なんかないのに」

 仰向けになって深く速く呼吸を繰り返して息を整える。

 再びあの魔物が追ってくるのを心配して逆に息が上がってしまい、回復に時間がかかってさらに焦ってしまう。

 少し落ち着きを取り戻した後、上半身をあげて周囲を見渡して自分がいる位置を確認する。

 「どこだろう……ここ」

 森の奥からだいぶ外に出てきたことは周囲の赤い夕焼けを見てわかる。だけど、一心不乱に森を逃げ回った僕には現在地を確かめることも、家へのある方角さえ分からない。

 だから僕は考えた。ある脳をフル回転させてこの死の淵から逃げおおせるか、考えた。

 考えて、考えあぐねて出した答えは木の上で夜を明かすこと。幸いここには僕でも登れる大木がいくつか点在しているし、森に生えている木の実を食べれば飢えは凌げる。それに、待っていたら心配した兄さんが僕を見つけに来るかもしれない。

 そうして僕は生き残るための必要最低限の物を集めて木の上にのぼった。

 「僕は生き延びれる! 僕は大丈夫、、僕は……」

 僕は生き残れる可能性が高いかもしれない……僕だけは。僕は約束を破ってしまった、コリンとの約束を。

 必ず助けると、身代わりになると息巻いたのに簡単に誓いを破ってしまった。兄さんとの約束もほとんど聞かず、友達の約束すら守れないなんて……

 「僕は嘘つきだ……」

 膝を手で結んで、膝と胸の間にできた溝の中に顔を突っ込んで僕は悔やんでも悔やみきれないことに涙を流した。

 僕はなんて弱い人間なんだとつくづく思った。

 意志が弱く、すぐに投げ出して後に後悔することをこの先の人生で何回来り返せばいいのだろう、と自分を呪った。

 悉く弱い僕を強い僕に昇華させてくれることは何だろう? 幼子がやがて成人して親元を離れていくことが強さの証なのか? 自分と同じ弱い人間を守ってあげられる人が本当の強い人なのか?

 いろいろ思い浮かべたけど、どれも僕が思う本当の強さではないように思えた。

 だけど、一つだけ、たった一つ僕が猛烈に惹かれる強さの事象がそこにあった。

 それは『人を邪悪な存在から守ってあげられるほど強い人物になること』だった。

 【草原の黄金郷】、【ゴストーク英雄譚】など、兄さんに音読してもらった本に出てきて、人々を魔法で救うおとぎ話。

 いずれも敵となる邪悪な存在を倒すために努力し仲間と協力する話は、幼かった僕を熱狂的に興奮させた。

 「そうだった、だから僕は兄さんに魔法の修練を積んでもらったんだ。だけど、一つも魔法が使えなかったから数日で諦めたんだっけ」

 僕は両の掌を見つめて思い出すと、なぜ自分が魔法を使えなかったんだ、と泣いた。

 兄さんは使えるのに僕は使えない。

 どうして? 僕が何か悪いことでもしたの?

 自問自答を繰り返しながら僕は大きな声でこう叫んだ。

 「なんで僕だけ魔法を使えないの!? なんで僕だけぇーッ!!!」

 口惜しさと悲しみが混ざり合った負のカクテルを一気に飲み込んだ僕には、喪失感と虚無感しか残らなかった。

 だけど、運命は僕を見捨ててはいなかった。

 自分の手を見つめていると、突然光りだし、右腕が幾重にも重なる魔法陣に囲まれた。

 「なにこれ!!!」

 無意識のうちに魔法陣を展開している僕は、それを消すこともできずに辺りにまばゆい光が満ち溢れた。

 すると、遠くの方から野太い方向が聞こえると、大きな足音を立ててさっきの魔物と思われる生物が近づいてくることに気づいた。

 「この光に気づいたんだ。マズいぞ、さっきの魔物がここにやって来る! 早く逃げないと!」

 木から下りて逃げようとする僕を止めたのは、逃げ続けた代償への後悔だった。

 「このまま逃げたら僕はまた後悔するかもしれない……戦えば死ぬかもしれない……」

 獲物から逃げ惑うウサギになるか、獅子を追い詰める狼となるか。僕は少ない時間で決意した。

 「戦おう! もう僕は逃げ惑うウサギじゃない! 獅子を追い詰める狼だ!」

 決心してから魔物が現れるまでに五秒とかからなかった。

 飛び出してきたその巨体が僕に飛びかかり、口を大きく開け、赤く塗れた牙を見せつけた。

 僕は前に転がり込んで回避すると、すぐさま後ろから右手で魔物に殴りかかった。

 「グギャアアアアアぁああ!!」

 子供の拳から与えたとは思えないほど、魔物は苦しそうな悲鳴をあげた。

 「効いている……行ける!勝てる!勝てるぞー!!」

 僕は魔物に何発も渾身の右ストレートをお見舞いしてやった。

 魔法陣を展開している右手で殴る度に、魔物はスピードを落としてやがて僕の前に崩れ落ちた。

 倒したの? かを確認するため、僕は警戒しながら接近して足で魔物の体を小突いた。

 「動かない……てことは勝った!勝ったよコリン!! 僕がコリンの仇を打ったんだ!」

 勝利の雄たけびをあげる僕のもとに、怒り心頭の兄さんが駆け寄ってきた。

 「いつまで遊んでいるんだロード!! いつも夕方までには帰って来いと言っているだろ!! ……って、何だこの魔物は…まさかお前がコイツを倒したのか?」

 「そうだよ。……うわああああん!」

 僕はコリンの死を思うと涙が止まらなくなって兄さんに抱きついた。

 泣きながら僕はこれまでに起こったことを全部兄さんにぶつけた。コリンと出会ったこと、自分がコリンを巻き込んでしまったことを。

 そんな僕を兄さんは頭を優しく撫でて「そう言うことでしたか…… ロード、お前はよくやったよ。生き延びるために戦った。案外多くの人ができないことだ」と戦ったことを称賛したけど、僕が言いたいのはそう言うことではない。

 「でもでも! 僕のせいでコリンが死んじゃった! 僕が身代わりになるって約束したのに! コリンが僕の身代わりになったんだ!!」

 僕は涙が止まらなかった。これから友達を見殺しにした人間として生きていくのかと思うと、怖くて辛くて誰にも顔向けできない。

 「お前は唯一の友達を失った、失ったものは取り返せない。……だがな、世の中にはお前のような苦しみを抱えて生きている人間がたくさんいるんだ」

 「え……?」

 僕は兄さんの顔を見つめた。

 「前にも言ったろ、世界にはこんな魔物やコイツよりうんと強い魔物があちこちにいるんだ。そんな魔物たちに対抗してできた組織が王国軍だ。軍に所属する兵士たちは日々魔物たちと戦って市民たちを守っている。世界の平和を保つための大事なものだ」

 「じゃあ僕も兵士になる! 僕と同じような人を生み出さないように!みんなが平和で暮らしていける世界を創るために!僕は戦う!!」

 そうして僕は兵士になる道を選んだ。


 翌日の朝、僕たちは二か月後に行われる入隊試験に向けて王都リベリオンに旅立つ準備をしていた。

 兄さんが使う空間魔法には、様々な物を入れることができる。靴や服、人に至るまで何でも入れることができて、取り出したいときに取り出せる便利な魔法だ。

 僕たちはこれからの旅路で必要になるであろう道具や食料品を、兄さんが開いた空間の中に放り込んでいく。

 「兄さん、これも入れて」

 「まだ使ってるのかこの人形。捨てちまえよこんなぼろいの」

 「いや! ロビン人形はまだまだ現役なの!」

 僕はそう言い張って【草原の黄金郷】に出てくる義賊ロビンを模した人形を中へ投げ入れた。

 その後も兄さんは何かと捨てるように言ってきたが、僕にとってロビン人形は、兄さんに買ってもらった大切な人形なのだから簡単に捨てようなどとは微塵も思わなかった。

 すべての準備が完了したあと、僕たちはコリンの墓へと向かった。

 コリンの死体は魔物に食べられていて見つけることはできなかったけど、兄さんがコリンのための墓を作ってくれた。

 「それじゃあ行ってくるねコリン。次帰ってくるときは僕もすんごい大きくなっているから、見たら絶対驚くと思うな」

 最後の言葉を済ませた僕は、この場所でもう一匹別れを言わなければならないと思ったが、それが誰なのか思い出せなかった。

 「よし行くか! 王都リベリオンへ!」

 僕たちは王都リベリオンへ向けて歩き始めた。

 この先どんな敵や仲間が待っているのだろうと胸を高鳴らせながら、僕は静かな旅路を行くのだった。

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