第41話 束の間の休息―常闇の魔女―


「山は越えました。まだ急変の可能性は無いとは言えませんので予断は許しませんが、ひとまずは持ち直したと見て良いでしょう」



 メリルさんは安らかな表情で、立てる寝息も穏やかです。

 脱水症状も改善しましたし、毒も殆どが排泄されました。


 まだ油断は出来ませんが、おそらくもう大丈夫でしょう。



「これから水分に加えて栄養も摂取できるようになれば、取り敢えずは大丈夫でしょう」

「あ、ありがとうございます!」



 娘の見るからに回復している姿に、ソアラさんも喜色を隠せません。


 まだ治療が完全に終わったわけではありませんが、危険な状況を脱却できて私も胸を撫で下ろしました。



 ふわぁ……


 気が抜けたせいでしょうか?

 全身から力が抜け、小さな欠伸あくびが出てしまいました。



「お疲れなのではありませんか?」



 思案する様な素振りで口を手で隠して誤魔化したつもりでしたが、私のはしたない姿を目敏いハル様に見られてしまったようです。


 くすっと笑われた気がします。



 うううっ……恥ずかしい……



 ですが、羞恥心よりも睡魔の方が勝り、瞼が重くなってうつらうつらしてしまいます。


 しょうがないじゃないですか。

 この三日間メリルさんの側でずっと看病しており、ほとんど睡眠を取っていないのですから。



「トーナ殿はあまり寝ていないのでしょう?」

「ええ、まあ……」



 メリルさんの寝台の横で椅子に腰掛けながら仮眠を取ってはいたのですが、やはりきちんと睡眠を取らないと体はもたないみたいです。



「少しお休みになられたらいかがですか?」



 いたわりの言葉を掛けてくださったハル様ですが、ちらりとソアラさんを一瞥した彼の目がほんの一瞬ですが、とても鋭く厳しいものに見えました。


 何だか殺気にも似たものを感じたと思ったのですが……気のせいですよね?


 こんなにも優しいハル様が、か弱い女性に殺気をぶつけるなんて真似をされる筈もありませんから。



「す、すぐにお部屋をご用意いたします!」



 ひっ、と短い悲鳴を上げてソアラさんが部屋を飛び出していきましたが、何をそんなに慌てているのでしょう?


 表情が戦々恐々としていましたが……


 何でしょう?

 ソアラさんが出ていった扉を見詰めながら私は首を捻りました。



「メリル殿は俺が見ておきますから」

「ですが……」

「あまり根を詰めるても思考が鈍って良い判断が出来なくなるだけですよ」

「そう……ですね」



 もうだいぶん回復していますが、まだ急変する可能性は無いとは言えず少し迷いました。ですが、ハル様の言う通り、集中力を欠いて診療に重大な失敗でもしたら目も当てられません。


 それに、現状すぐに私が何かしなければならない処置もないので、お言葉に甘える事にしました。


 ただ、きちんと引き継ぎはしておかないと。



 部屋の準備ができたと戻ってきたソアラさんに、メリルさんの容態に合わせて取るべき処置の指示をしました。



「腸が弱っていますので、回復するまであまりこってりしたものや繊維質の野菜は避けてください。食事の内容は……」



 卵粥など消化に良く、栄養価の高い食べ物を幾つか例に挙げると、ソアラさんは頷きながら後で料理人に依頼しておくと了承しました。


 メリルさんの様に満足に食事を摂取できていない患者は腸管が弱っており、重篤な発熱を引き起こす例があります。


 だからと言って栄養失調を改善させる為にといきなり食事を与えると悪心嘔吐、脱力、血尿などの他に重篤化すれば四肢麻痺、頻拍、循環不全、痙攣、呼吸困難、意識消失……様々な症状を引き起こす例があり、重体となって死に至る場合も少なくありません。


 その為、長期絶食していた者には食事の開始の仕方があるのです。


 メリルさんの場合は三、四日の絶食ですから、そこまで重症にはならないとは思いますが、健常人の飢餓状態とは異なり、魔狗毒によって消耗されているので慎重になった方がいいでしょう。



 こうして不測の事態に対応する指示を出し終えると、今度こそ完全に緊張が緩んでしまい、もうこの眠気に抗えそうにもありませんでした。



「それでは少し休ませていただきます。何か異変がありましたら起こしてください」

「後の事はお任せを……トーナ殿はゆっくりお休みください」



 ソアラさんの先導で病室から出て行く私に、優しい笑顔でハル様は見送ってくださいました。


 やはり先ほどの恐ろしい顔は私の勘違いだったみたいですね。



 ソアラさんから今は使われていない使用人の部屋の一室に案内され、私はそのまま寝台に倒れるように潜り込みました。



 そして、自分で思っていた以上に疲れが溜まっていたのでしょうか?

 横になると、気がつけば泥のように眠りに落ちてしまったのでした。




「――トーナ……」



 これは現実でしょうか……

 それとも夢でしょうか……


 遠くで私の名を呼ぶ声が聞こえたような気がしました。


 それは何処かで聞いた声……

 とてもとても懐かしい声……


 その声に触れると涙があふれてしまいそうで、心が春の陽だまりの様に穏やで、暖かな記憶が私の凍った心を溶かしていくのです。



 だけど、その声が続けて告げた内容は、私にとってとても衝撃的なものでした。



「――トーナは薬剤に対する天賦の才を持っているけれど……やっぱり、それだけに人ではなく病を診てしまっているのね……」

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