第40話 聖女―白銀の騎士―


 次の日の早朝、俺はさっそくトーナ殿の元へと戻った。


 早過ぎたのではと危惧したが、彼女は既に起きていたので驚いた。

 どうもトーナ殿は一睡もせずにメリル殿を看病していたみたいだ。



「騎士団のお仕事は宜しいのですか?」



 そんな彼女はきょとんと不思議そうな顔で俺を出迎えてくれた。


 艶のある黒い髪と知的な光を秘める赤い瞳を持つトーナ殿はとても神秘的だ。


 だが、時折その美から神性が抜け落ちて、ほうけた様な表情をする気の弛む瞬間がある。


 いつもの超然とした表情をするトーナ殿も凛として美しく素敵なのだが、今みたいに少し愛嬌のある魅力的な顔をされると、その落差による破壊力があまりに凄まじい。



 くっ、可愛いすぎる。

 理性が崩壊しそうだ。



 それにしても、トーナ殿は俺が騎士団へ帰って、ここへは戻らないと思っていたようだが――



「伯爵の依頼はまだ完了していませんから……」



 ――俺が彼女をこんな伏魔殿に1人で残しておくわけないじゃないか。



「……仕事は我が団長殿に全て押し付けてきましたよ」



 少し冗談めかしておどけると、彼女はくすりと可笑しそうに笑った。

 まあ、冗談ではなく、本当に団長に全て押し付けてきたのだが……



「それではハル様には必要な物資の運搬をお願い致します」



 必要な物は意外と多かった。


 だが、この屋敷ではトーナ殿の頼みを聞いてくれる者はいない。

 俺が居なければ、彼女は自身でそれらを揃えねばならなかった。


 女の細腕では、さぞ難儀した事だろう。

 メリル殿の治療もあると言うのに……


 本当に来て良かった。



「騎士のハル様にこの様なお使いを頼むのは心苦しいのですが……」

「いやいや、力仕事ならば存分に俺を頼ってください」



 トーナ殿に頼まれたのは確かに小間使いみたいな仕事だったが、彼女の為と思えばいとう事など何もない。


 彼女の為なら何だってやってやる。


 この時、まだ医療とは薬を飲めばたちどころに治る魔法の様なものだと、俺には軽く考えていた節があった。



 だが、実際に目にした医療とは、そんな単純なものではなかった……



 俺は東奔西走してトーナ殿から頼まれた資材を掻き集めていた。


 彼女の頼みは最優先事項!


 そんな思いに駆られての事だったのだが、途中でとても重大な問題にはたと気がついた。



 それは……

 トーナ殿と顔を合わせている時間が殆どない!



 彼女からお願いされて方々を駆けずり回り、戻っては再び依頼を受けて飛び出していく。


 これでは彼女との仲が進展する余地がないではないか。


 このままではいかん!



「頼まれていた物をお持ちしました。手が空きましたので何かお手伝い出来る事はないでしょうか?」



 だから俺は急いで全ての品を集めて、暇になったからと治療の手伝いを申し出た……が、そんな邪な気持ちで病室の扉を開けた俺は愕然としてしまった。


 病室からあまりにも酷い悪臭が漂ってきて、とても耐えられるものではなかったのだ。


 顔をしかめて部屋の中を覗けば、その原因はすぐに分かった。


 この臭気の発生源は部屋の隅の籠に放り込まれていた汚れた衣類やシーツ類。


 その汚れはおそらく患者の屎尿によるものだろう。


 これ程の劣悪な環境は実の母でも耐えるのは辛かったのだろう。ソアラ殿の姿はこの場にはなかった。


 だとすると、これらの汚れ物は手が空いた時にトーナ殿が纏めて洗っているのか。



「ああ、ハル様ありがとうございます」



 そんな部屋の中で患者に寄り添い一人で奮闘するトーナ殿が振り返って笑ったが、その顔は少し困ってしまったように見えた。



「申し出はありがたいのですが、この様な状態を殿方に見られるのは……」

「確かにこれはシエル殿の名誉に関わりますね」



 迂闊だった。


 寝たきりの患者に排泄を促す薬を与えているのだから、その結果がどうなるかなど考えれば分かるものを。


 戦場を経験した老騎士から聞いた事がある。


 激しい戦や強大な魔獣の討伐で甚大な被害が出ると、多数の戦士が内臓をぶちまけ、糞尿を辺りに撒き散らす場面に遭遇する事があるらしい。


 時間と共に死体から異臭が放たれ、それが撒き散らされた糞便の悪臭と混ざり合い、もうなんとも言えない凶悪な臭いに空間が支配されるそうだ。


 しかも、鼻の穴の中にこびりつき、その場を離れてもしばらくは臭いに悩まされたと宣っていた。


 幸いと言うべきなのか、現在この国は至って平和で俺は戦場を知らないし、魔獣討伐で凄惨な死者を出した現場にはお目にかかった経験がない。


 その辛苦は話を聞いて、想像しただけの者には本当の意味で理解はできないのだ。



 トーナ殿は先日からずっと患者の下の世話をしてきた筈である。

 それは、ただ臭いがきつく汚い作業と言うだけではないだろう。


 患者の身繕いには根気と忍耐が、意識のない患者のシーツや衣類の好感は重労働で、そんな中をひたすら患者の回復の為に身を粉にして治療する献身。



 正にここは治癒師にとっての戦場ではないだろうか?

 そんな激戦の中をトーナ殿は一人で戦っているのだ。


 トーナ殿の患者と向き合う真剣な態度に対して、邪な気持ちから手伝おうとした俺はなんと愚かなのか。


 それに比べてトーナ殿はどうだ。

 患者の為なら何も厭わぬその姿。




 彼女を魔女と呼ぶ連中に言ってやりたい。

 あの姿こそ聖女そのものではないかと……

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