第41話

 大手医療機器メーカーであるMMMC、その地下区画。PNDRと呼ばれる場所には、たくさんの人々が『ジョーカー』感染及び罹患検査を受けていた。

 といっても、採血と問診が主であり、氏名・年齢・性別・現住所・性交渉の有無などの項目を自己申告で回答していく。あくまで自己申告なので誤っていることが前提の情報だが、どうせ氏名や住所など調べようと思えば調べられる。あくまで通常の健康診断の問診と同程度の情報を得るに留めている。

 通路に並ぶ長椅子、複数の採血室と問診室が並ぶ一角に、昨日の変異体騒ぎで集まった一四五名が朝から検査を受け始め、午後三時を回ってやっと九割を捌いたところだった。

 これだけの人間が検査を受けるのは想定外だ。

 変異体が現れた場合、変異体本体の対処後に、感染被疑者数人を隔離して当日中に検査し、死者は冷凍保存して後日に検査する。検査施設も一時隔離室も、一〇〇人以上のキャパシティなどない。

 『ジョーカー』は空気感染しない特性から、エアシャワーでウィルスが確認されず、血液検査で陽性にならなければ、要観察対象となりながらも当日には解放される。

 集まった感染被疑者には「未確認の狂犬病の疑いで、念のために検査にご協力ください」と説明している。

 連休の一日を潰されている不満は少なくない。

 隔離室が不足していることから、できるだけ同一コミュニティ単位で数名から一〇名程度のグループに分けて検査と一時隔離を行っている。食事と飲み物、タブレット端末の貸し出しなど行って、不満の強度を少しでも下げながら。

 適度に脅して不安を煽りつつも、致命的な危機にあるとまでは思わせない塩梅が必要だった。何か異変が起こればMMMCが全て保証するという言葉で、検査を受けるだけ受けた方がいい、と思わせていた。

 同じ感染被疑者の中でも、優先順位が付けられている。

 第一優先は、変異体から直接被害を受けた人物。これはキャンプ場で直接接触した大学生グループ、背中を爪で裂かれた小鹿野と、その手当をした特進コースの五人が該当する。特に小鹿野は昨夜からMMMCの民間救急車で搬送され、治療されながらだ。

 第二優先は、主にキャンプ場の駐車場で各々の車内に籠もっていた面々だ。こちらは変異体と直接接触はしていないものの、車両へ飛沫した血液や唾液へ接触していた可能性があるため、念のための検査だ。


「ああ、第二優先のAM検査陰性組は順次帰して構わない。――――そうだ、どうせトレースできる。一時間で試薬に反応がなければシロでいい」


 朝から刀弥とうやの事後検査を行い、合間合間で感染被疑者の検査にも入っていたドクター・カルーアは、今はほんの数分、検査データのサーバアップロードと検査試薬の反応待ちの合間にできた隙間時間を使って甘々コーヒーを口にしていた。

 PNDR内にある彼女の個室、そのデスクでのことだ。

 後は彼女の部下に任せれば問題ないだろう。

 そう思い、部下へ指示を出した後で、再度別の部下に連絡を取る。

「明日の被疑者検査の準備を頼む。――――ああ、明日の一〇時に開始する」

 ふぅ、と椅子の背もたれに体を預ける。

 変異体に殺された被害者への検査は、非常に重要だ。

 爪や牙での負傷と損壊――唾液や体組織と直接接触した、いわゆる濃厚接触者である。高確率で感染しており、罹患の可能性まで持ち合わせている。罹患しているならば、その希少性はかなりのものだ。

 それが、たとえ死体でも。

 嘗ては時間をかけて被検体を集めて集中感染させ、人への感染実験と罹患時の反応と症状、細胞の変化、RNA変異など、あらゆるデータを取っていた。だが、いかんせん早く死ぬ。うまく順応した刀弥A一〇八観生S三五がレアケースであるのだが、あの二人では実験の前提条件を満たせない。残念だが細胞や遺伝子の一時変異現象を見るには罹患初期でないと観測できないためだ。

 ならば嘗てのように人を集めればいいのだが、それができない。

 数年前までは養護施設から子供を引き取ったり、ホームレスを報酬をちらつかせて集めていたのだが、PNDRの新たな責任者がそれを否とした。企業の社会的責任を果たすために、などと御託を並べているが、どうやらこの研究の重要性を理解していないようだと、カルーアは口癖のように愚痴っている。

 だが、それでもこうして定期的に

 四日も五日も経ってしまった死体だが、状態としては変異体に胴を噛まれて上半身と下半身に寸断されたものだ。体液が直接体内に接触している。死の間際に感染している可能性は高い。

 責任者をどうにかせねばならないのは当面の課題であるが、できればそんな政治的な動きはしたくない。

 カルーアはただ、研究がしたいのだ。

 誰がどうなろうと知ったことではない。

 朝桐刀弥A一〇八が命令無視して蓮山天音エサを庇おうが、生け捕りにしろと命じた変異体を始末してしまっても、最悪の結果にはなっていない。サンプルは手に入れられているのだから。

「さて、楽しい楽しい研究の時間だ」

 唇を三日月形にかたどりながら、カルーアは砂糖が沈殿するほどのコーヒーを飲み干した。




 遺体保存室の状態を遠隔でモニタリングしているのは、PNDRの中でも中堅の研究員だった。

 遺体の保存には専門の知識が必要だ。単に冷凍すればいいというわけではない。

 水は氷ると体積が増える。そのため普通に凍らせると水分が凍結する際に細胞壁が膨張で破壊されてしまう。

 そこで、冷凍時に微弱な電流を流して水分子が凍らないように温度を下げて、過冷却状態にしてから冷凍する方法が取られている。そうすることで、水分子が集合して体積増加させることなく全体を凍結させることができ、細胞膜を破壊せずに冷凍保存することができる。

 電流や温度管理を誤れば、細胞膜が破壊されてしまう。結果、検証できることが限られてしまう。

 最近はその温度管理も機械任せで常に最適に行われるが、万一の事態に備えて専門知識を持つ人員をバックアップとして配置する必要があった。

「……ん?」

 なので、監視用センサの値を見たときに、研究員は画面を二度見した。

「冷媒が漏れている…?」

 冷凍保存庫の温度がわずかに上昇している。

 元々徐々に解凍するはずだったが、今から温度上昇させては明日の一〇時の解凍完了には早すぎるし、何より解凍開始の措置などしていない。

 つまり、異常事態だ。

「ったく」

 悪態をきながら、研究員は計器を確認する。

 冷媒の供給は問題ない。ある程度の断熱はされているものの、庫内温度が微かに右上がり傾向にある。

 考えられる問題は二つ。

 供給冷気の温度が規定よりも高いか、庫内に破損などがあり冷気が漏れているか。

 冷媒関連のセンサを確認するが、温度に問題はない。

 ならば、どこかから冷気が漏れている可能性が高い。

「とすると……おいおい」

 そこで、監視カメラの映像越しに気付く。

 コインロッカーのように並んだ保管庫。その一つが微かに閉まり切っていない。

「ったく、勘弁してくれよ」

 いわゆる半ドア。ここから冷気が漏れているのだろう。

 通常はセンサが働き注意警報が鳴るはずだが、それすらも作動していないということは、ヒューマンエラーと機器故障が重なったということだ。


 研究員はフロアを下り、遺体保管室へと入る。

 監視室は感染被疑者の検査室と同一フロアにあり、そこから二フロア降りる必要がある。

 今日はここの確認だけ済ませてすぐに帰ろう。給料はいいが、この仕事は勤務が不規則すぎる。こんな連休にまで勤務するなんて。

 文句を言いながら、問題の保管庫の前に立つ。

 確かに半開きだが、扉が外側に歪んでいる。

 気にせず、ハンドルを握って一度引き出す。この保管庫から隣の無事な保管庫に移すためだ。

 あまり時間をかけられない。芯まで凍っているのですぐに解凍されたりはしないが、時間がかかればかかるほど品質が悪くなる。ドクター・カルーアあの女にヒステリーを起こされたら面倒だ。

 庫内から引き出すと、畳まれたストレッチャーの脚が展開され、棺のような直方体に収まった中年女性の冷凍遺体が現れた。

 冷気を上げる触媒水に浸かった全裸の女。状態はいい。本当に死んでいるのか疑いたくなるほど、綺麗な遺体だ。

「おっと、年増に見とれてるとか俺もおかしくなったか」

 研究員は振り返って隣の保管庫の扉を開けてから、再び冷凍遺体に視線を戻す。

 改めて見ても、綺麗な遺体だった。

 収容状況までは知らないが、確か四七歳と書類に書いてあったと思う。

 それにしては、肌艶が良く、目尻やほうれい線、首元にも皺ひとつない。触媒水に浸っているとはいえ仰向けなのに乳房には張りがあり、臀部や太腿ふとももの肉感に、思わず色気を感じてしまう。

「おいおい、ホントにアラフィフか?」

 失笑を通り越して感心までして、首をぶんぶん横に振る。

「いけね。さっさと済ませて帰ろ」

 最後に、遺体の顔に、本当に何気なく目を向けると、

「え……?」


 

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