第40話
刀弥は一度、天音の自宅に入ったことがある。
天音が巨大化した変異体に襲われた日のことだ。天音が恐怖に駆られ、必死に逃げまわり、高校まで走っていた頃、刀弥は荒らされた家に上がり込み、天音を探していた。
あの時は『人探し』目的で入ったが、今回は目的が違う。
日を経たことで、あの時の情景に違和感を覚えた。
ほんの微かな、無視してもいいくらいのものだったが、昨日の分裂変異体掃討で、違和感は疑念へと変わり、ひとつの可能性に至ることとなった。
その確認のために、住人である天音を伴って、数日ぶりにこの家に入った。ひとりで来るのが合理的なのだが、不審者にとられると面倒なため、万一の言い訳のために天音を呼んだのだった。
土足のまま玄関から入るが、天音は特に何も言わない。刀弥に倣い、土足のまま続く。
正面の階段をよけて廊下を進む。
ここはかつて血の池と化していたが、目の前には跡形もない。
階段の手すりが外からの圧力で折れ、天井には何かが擦れたような跡。床は一部が陥没し、文字通りの爪痕も残っている。
「ここで、あの変異体に対峙したで間違いないか?」
「……うん」
天音の脳裏にあの時の絶望が蘇る。
視覚だけでなく、嗅覚も、恐怖と絶望の感情までもが蘇る。
「そこで、急いで玄関から飛び出して、外に出たの」
天音の言う通り、玄関扉とその枠が内側から外側に向けて破損している。
刀弥は更に奥まで進む。
左手にある引き戸を全開にして、リビングに足を踏み入れる。
正面のガラス戸が割れている。ガラス戸を上下に二分する枠が中央にあり、上が透明で下が擦りガラス、その下側が、だ。
右手にはダイニングキッチンがあり、テーブルと椅子、食器棚が倒れている。
ガラス戸に近寄る。破砕されたガラスが散乱し、バリバリと音を立てる。
破損はガラスのみで、試しに鍵を開けてガラス戸を引いてみるが、大きな抵抗もなくスムーズに動く。
「恐らく、ここが侵入路だろう」
刀弥は警察でも何でもない。あくまで素人判断だが、当時の状況をイメージする。
「ここから侵入した変異体が、キッチンにいた蓮山の母親めがけて襲い掛かる。一度目はどうにか躱し、変異体は食器棚にぶつかりながらも執拗に母親を追いかけ、廊下に出る」
状況を想像して、天音は表情を歪める。母の死の追体験をしているようで、恐怖と共に悔しさも湧いてくる。
「その廊下で、母親は変異体に捕まり、その牙に捉えられた」
廊下に移動しながら、刀弥は朗々と、想定した当時の状況を口にする。
「どうも、違和感がある」
「え?」
廊下に出て天井、床、階段と視て、刀弥は抱いていた疑念をより強固にする。
「当時、俺は巨大変異体が家に侵入して母親を襲い、そこに出くわした蓮山が次いで襲われたと思っていた」
「え、だって、その通りでしょ?わたしの目の前でお母さんが――」
母のことを一言話す度に、気分が重くなる。
「そこじゃない。あの大きさのものがここで暴れ回ったという前提が、そもそもおかしい」
刀弥の視線が庭へと続くガラス戸へ向かう。
「あの変異体は、当時体高二.六メートル。それが、このガラス戸を、サッシを歪ませることなく、下段の擦りガラスだけを破って侵入したとは考えづらい」
「あ…」
言われて、天音も先のイメージと現状の矛盾点に気付く。
刀弥は視線を上げる。リビングの天井、そして廊下の天井へと視線を移す。
「ここの引き戸は何も壊れていない。枠もな。天井高は二.五メートルで引き戸は更に低いのに、あの大きさの変異体が通ったのに何の痕跡もない。それなのに廊下だけは――」
刀弥が廊下の天井を指さす。黒いうっすらとした汚れを。
「あれは…」
「血痕だ。恐らく。庭からの侵入、あるいは食器棚に突っ込んだ際に負った頭部の傷。天井と同程度かそれ以上の大きさになった変異体が、廊下で頭部を擦ったのだろう」
ここまで聞いて、逆に天音はわからなくなった。
「ちょっと待って、さっきは大きいのがおかしいって言って、今度は大きいから天井に跡が残った?」
「矛盾はない。現に、昨日の戦闘時には更に巨大化していたからな。それが規格外になっただけだ」
刀弥は何もおかしいことはないと、説明を続ける。
「通常サイズ――恐らく体長一メートルほどの大きさの変異体が侵入し、母親を襲う。廊下まで逃げるが、結局そこで死亡する」
天音が顔を顰めるが、刀弥の説明は止まらない。
「そこで急激に巨大化した変異体は、蓮山の帰宅と同時に、次の獲物を定めた」
そこからは、天音が知る顛末に繋がる。
だが、そうなると、二つの疑問が生じる。
なぜ、あの変異体は天音でなく、そのの母を狙ったのか。
なぜ、いきなり体が巨大化したのか。
たまたま出くわしただけで、特に天音の母である必要はなかったという可能性もある。
高度な知性を持っていて、天音の家を突き止めた変異体が待ち伏せし、ついでに母親を襲った可能性だってある。現に、あの変異体は他の個体よりも戦略的な動きを見せていた。
たまたまあのタイミングで、変異体の細胞異常が加速度的に進み、巨大化した可能性だってあるだろう。
もしかしたら、巨体のままうまく下段のガラスだけ破って侵入し、前傾姿勢のまま部屋で暴れ、廊下でたまたま体を伸ばして天井を擦っただけかもしれない。
それでもだ。
ひとつの仮説を当てはめてみる。
特別なのは天音ではなく母の方であり、変異体を誘引する何かを持っている。
それは変異体に、もしくは『ジョーカー』ウィルスに特別な影響を与えるものでもある。
母ほどではないが、天音にも同じような特性がある。
その仮定の下、初めて天音が変異体に遭遇した日から今日までの出来事を考えてみる。
あの日、感染間もない変異体は、最寄りのフェロモン(便宜上こう呼ぶ)に誘われて天音を襲うが、刀弥の介入で追い返される。
自分では勝てないと悟った変異体は、天音を狙おうとしても常に張り付く刀弥の存在に気付き、断念する。
もしかしたらその間に何かしらの捕食行為を行っていたかもしれない。
刀弥は一度噛みつかれたが、その際に安定化した『ジョーカー』の抗体を取り入れたことで一時的な延命を果たした可能性もある。潜伏中に付近で変異体が確認されなかったことから、変異体が変異体を捕食して独自の進化をしたとも考えられる。
ある時、変異体はより強いフェロモンに気付く。
市街地を駆け、民家に突入し、その発生源――天音の母に食らい付いた。
フェロモンの発生源は、『ジョーカー』を激しく活性化、もしくはその細胞を悉く変質させる因子を持っており、急激な細胞分裂を誘発し巨大化。積層化した角質の鎧を形成する。
その時、タイミングよく帰宅する天音。
いい匂いに誘われて、次のターゲットを天音に定める。目の前の
しかし、最後は刀弥に撃退される。
傷を癒すために遠く離れた山中に潜む。
その途中で増殖能力の獲得、もしくは異常な細胞分裂が止まらない副作用が起こる。
変異体は種の保存と感染拡大という生物とウィルスの本能に従い刀弥と対峙するが、最後は分裂変異体がフェロモンに狙いを切り替える。
障害の排除と当座の栄養補給を兼ねて、処理班を駆逐・捕食。
より強いフェロモンを求めて、夜の街を駆けたが、刀弥により殲滅された。
小鹿野が襲われたのも、ルート上で見つかった栄養補給源くらいの認識だったのかもしれない。
「どう思う?」
「どうって……」
問われても、天音は困る。
刀弥の説明は理に適っていた部分もあれば、まだまだ仮説や推測の部分も多い。
確かに母が
「そう考えた理由はもうひとつある」
天音の思考中に、刀弥は情報を付け加える。
「昨日、最後の変異体を仕留めた位置だ」
昨日、変異体の全滅の報を入れた場所は、刀弥のマンションから東に一.五キロの地点だ。
もし従来の仮説通り、変異体が天音を狙うのならば、分裂変異体は刀弥のマンションに向かってこなければならない。
だが、分裂変異体はマンションを通り過ぎた。
キャンプ場から東に移動すると刀弥のマンションがあるが、分裂変異体はそこを通過した。
ならば、一体どこを目指していたのか。
途中で何度も立ち止まりながら、何を探し求めて東進していたのか。
考えすぎかもしれない。たまたまマンションを通り過ぎただけかもしれない。
それでも、天音の母の特異性という仮説を加味すると、また別の仮説が発生する。
マンションから更に東に位置するMMMC社屋、その地下秘匿区画PNDRに安置されている天音の母の遺体。それを求めていたとしたら?
まだ、母の遺体から変異体を呼び寄せる何かが発せられているとしたら?
それは、本当にただの遺体なのだろうか?
仮説の上に立つ仮説。
証拠などなく、状況から考えられる刀弥の空想といえばそれまでだ。
それでも、天音には一笑に付すことなどできなかった。
だって、それではまるで――――
「まだ、終わってないってこと…?」
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