第42話
ここに来たのは天音の母の検査結果を知るためだ。そんなもの後から結果だけ聞ければいい話だが、なんとなく直接聞いた方がいいと思っただけで、深い意味はない。
あくまで刀弥の想像の中の話であるが、天音の母には何かがある。遺伝子なのか保有細菌なのか、特別な血液なのか。とにかく、何かが普通ではないはずだ。
本来ならば刀弥ひとりで来るべきだったが、天音が「わたしのお母さんのことなのに」と譲らなかったため、共に社屋へ向かうこととなった。
危険は少ないだろう。
そう思って地下へ向かう途中だった。
ヴゥゥン――、ヴゥゥン――
懐の携帯電話が震える。
刀弥はすぐに通話ボタンを押す。
『あ、あーちゃんおつー。今は大丈夫かなー?』
「問題ない」
『今日の天音ちんどうよ?わたし自慢のこーでぃねーとなんだがね』
言われ、刀弥はやや後ろを歩く天音を見る。
そういえば、普段は制服か、家にいるときは淡色のワイシャツにジーパンという姿だった(と思う)が、今は緩めのシャツに、前にボタンのついたスカートを穿いている。
『髪型もイメージ崩さないように緩めにして、メガネも新調したし』
再度天音を見る。
そういえば、いつもと三つ編みの形が違う。眼鏡は……違うかはよくわからない。
『天音ちんは一緒かね?』
地下区画へ入る。
「隣にいる」
エレベーターまで進む。
『ほほーう』
何やらにやけ顔をしていると、声音で伝わった。
『天音ちんとお楽しみ中だったりしない?天音ちんの喘ぎ声とか聞こえてきたらさすがに気まずいし』
「切るぞ」
エレベーターが到着し、更に地下階のボタンを押して、ドアが閉まる。
『あー待って待って!ちゃんと用事があるんだよ~』
声だけなのに、両手をバタバタ振っている様が容易に想像できる。
「用件は早く言え」
『あ~、それなんだけどね』
軽やかな声音をそのままに、観生は告げる。
『ちょっと、やばそうかも』
「はっきり言え。状況がわからな――」
ガクン、とエレベーターが大きく揺れた。
そして、一瞬重力を忘れた。
「…っ」「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
エレベーターの壁に叩きつけられる。
刀弥は天音を抱き寄せて衝突から守るが、自身の背中に衝撃が走り、息を詰まらせる。
ガガガガ!と耳障りな金属音と激しい振動が数秒続くが、すぐに静かになり、振動も一切なくなった。代わりに照明が落ちて、視界が奪われる。
自分たちの身に何が起こったのか、探ろうと立ち上がる。
『あーちゃんぶじ~?』
衝撃で取り落とした携帯電話から聞こえる能天気な問いかけは、いっそ清々しい。落とした時に押したのか、スピーカーに切り替わっていた。
「ああ、それより何が起きた?」
刀弥は至って冷静だった。
天音は騒ぎ出したい衝動を、刀弥の冷静さと観生の明るい声音でどうにか押しとどめていた。
『ちょい待ちー。う~んとねぇ……、エレベーターの安全装置が働いたね』
「故障か?」
『多分違う』
明るい声に、微かに影が差した。
『実は一○分前から研究区画の気密シャッターが動作不良起こしたり防火扉が作動したりしててさー』
「バイオハザードか?」
『そういうマジでヤバいS級までではないんだけど、普通の火災ってかんじでもないし、わたしのいるレストルームからじゃなんもわかんなくて、あーちゃん近くにいればなんかわかんないかなーって思ってさ』
物言いはいい加減だが、少なくともPNDRに繋がるエレベーターが非常停止するということは何かしら問題が起こっていると考えるべきだと、刀弥は判断した。
「わかった。インカムに切り替える」
刀弥は素早く、普段から携行しているインカムを身に着け、携帯電話を仕舞った。
「さっきから非常ボタンを押しているが、反応がないな」
うっすらと光を放つエレベーターの非常ボタンを押すが、応答がない。
『地上階とは別系統だけど、さすがに誰かいるはずだよ。ボタンごと壊れてなければ』
こういう時はエレベーター内に留まるというのが鉄則だが、場所が場所だ。
今は有事であると考えるべきだろう。
「外に出る」
『わたしもそれおススメだね』
「蓮山、光を当ててくれ」
「あ、うん、待って」
天音は携帯電話を取り出して、バックライトで刀弥を照らす。非常ボタンくらいしか光源の無かった密室が、一気に明るくなった気がする。
刀弥からこっちに向けろと指で示される。エレベーターの扉だ。
刀弥は扉の隙間に指をかけ、力を入れる。
ゆっくりと、扉が開いていく。
「朝桐君?」
「このままここにいるのはよくない。ここを出るぞ」
「…うん」
扉の外は意外にも明るく、少し隙間が開いただけで白い光がエレベーター内を照らしてくれた。
扉が半分ほど開いた。
下方向三分の一が暗いままだが、これはエレベーターがこの階を通り過ぎようとしたところで止まったということだ。
刀弥がさっと跳び上がってフロアに出る。
「蓮山」
手を差し伸べられる。
天音は携帯電話を仕舞ってから刀弥の手に掴まり、思ったよりも強い力で引っ張り上げられた。
やっと狭く暗い密室から出られたわけだが、ここはどこだろうか。
幅三メートルほどの全面白い通路が続いており、時折ガラスで仕切られた部屋がある。天井からの白い照明が、白い床面や壁に反射して目が痛いくらいだ。
振り返ってエレベーターの扉を見る。外装側の扉には直径三、四センチの円形の穴が空いていた。こういうデザインとも思えないが、どうやってこんな穴ができたかも不明だ。
再びフロアに目を向ける。
通路は正面と右手に分かれるように続いていた。
「ここは……」
「地下第五層ブロック、研究実験エリアだ」
刀弥が正面に向かって歩き出し、慌てて天音が付いていく。
天音はきょろきょろと周囲を見回すが、刀弥はただまっすぐ前を見つめて歩き続けている。ガラスで仕切られた白い室内には金属製のリクライニングベッドのようなものがいくつも並んでいる。ベッドには大小のベルトが備え付けられていた。
いまいち用途がわからずに天音が周囲に視線を巡らせていると、
「止まれ」
左手を振り、天音をこの場に留まらせた。
五メートルほど先にある丁字路、その中央に、白衣を着た人が倒れていた。
真っ赤な長髪を白い床に広げ、仰向けに天井を見上げている。
刀弥が駆け寄った。
「ドクター・カルーア」
呼びかけるが、返事はない。
「は、はは…」
その口から、刀弥に向けたものではない、力なく、乾いた声が零れた。
「まさか、そういうことだったとはなぁ」
天井を見上げてはいるが、その焦点は定まっていない。
「ヒトへの感染時に稀に発現する例は一〇八でも見られたが、アレは更に希少例だ」
うわ言のように、壊れた人形のように、ただ言葉を紡ぐ。
「どのプロセスからだろうなぁ…、レセプターでかぁ…?Rasの活性化まで観測できればまだ……」
その口から、だらだらと血が垂れる。
「まさか天然モノでそんな酵素があるとは…、それが、ジョーカーに、感染した細胞、から、また、再度……ガハッ」
血の塊が噴き出し、ピエロのメイクのように唇を大きく真っ赤に彩る。
「ああ、もっと、もっと、あれの行、くさき、を、みだがった、なぁ……」
それきり、赤髪の女が喋ることはなかった。
半笑いの表情のまま、固まっている。
刀弥は動かない。
天音が恐る恐る近づく。
「ねぇ、あさぎ――ひっ」
思わず、両手で口元を覆う。
赤髪白衣の女は、腹の半ばで体を断ち切られ、絶命していた。
下半身は死角にあるのかもわからないが、白衣が徐々に赤く染まっていき、吸いきれない血液が刀弥の足元にまで広がっている。
正直、カルーアにいい印象は持っていない。
散々人を笑いものにした傲慢な人間という印象だ。
それでも、死んでしまえばいいなんて、本気で思うほどではない。
刀弥はどう思っているのだろうかと、天音は気になった。彼にとってドクター・カルーアという人物はどういう立ち位置なのか不明だが、天音よりも付き合いが長いことは確かだ。
何も感じない、というのはさすがに無いとは思うが。
「朝桐君……」
「蓮山っ」
そのとき、ぐっと、天音の腕が引かれ、
「きゃあっ」
頭を押さえつけられて、床に叩きつけられた。
それと同時に、ガガガガ、と何かが削れた音がした。
刀弥が天音に飛び掛かってきたのだと気付いたのは、床に倒れながらも顔を上げた時だった。
刀弥は天音を見ていない。
それどころか、自分の懐に手を差し込み、何もないことに気づき、舌打ちまでしている。
天音の視線が刀弥から、刀弥の視線の先へと移る。
何かが、いや、誰かが立っていた。
一〇メートルほど先、通路の曲がり角から現れた、ベージュの服。
いや、あれは服だろうか?
違う、あれは服ではない。肌だ。
一六〇センチくらいの身長に、ほっそりとスリムな体。
張りがあるバストに、くびれの曲線から伸びる丸みを帯びた
全裸の女だ。
「え…?」
あまりの事態に、天音は固まった。
膝まで届きそうな長い黒髪を生やしている、その顔を見た瞬間に。
「うそ…」
それは、普段風呂上がりにドライヤーをかけているとき、弱い視力で鏡越しに見ているものとそっくりだった。
同じことを、刀弥も思っている。
その顔は、蓮山天音に似ている。年の頃も近く見える。
だが、それは違うとも理解している。
天音は毎日見ており、刀弥も一度、その死に顔を見ている。
「おかあ、さん……?」
蓮山天音の母親。
まるでその顔を、身体を若返らせたような女の登場に、
天音は自失し、
刀弥は自分が丸腰であることに再度、舌打ちした。
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