第28話

 白いLEDの光に照らされた屋根付きの調理場は、夜闇の中で一層の存在感を誇示している。闇に浮かぶ白い異界に向かい、刀弥は近づいていく。

 微かな向かい風に乗る、鉄錆のにおい。

 名実ともに、調理場は非日常の現場になっていることだろう。

 マグライトの光は数メートル先の地面を照らすように傾げ、拳銃の銃口は同軸に構えながら走る。初めはさっと軽快に、葉が風に揺られて――物音がしたと思ったら、歩調を緩めて警戒を強め、異変がないことを確認してからまた駆ける。

 五〇メートルの距離を三〇秒かけて近づき、調理場へと到達する。

「調理場に取り付いた。内部に異常はない」

 身を屈め、さっと白い光に照らされた調理場内を確認する。

 中央にステンレスの大きな作業台が四つ×二列、手前側には竈に似せたコンロが八つ、反対側には深めのシンクが八つ並んでいる。

 何も異常は見当たらない。

『こっちも何も動きは見えないよー。あと、残り二八〇秒で観測できなくなるから、別の衛星に入り直すねー』

「どれだけかかる?」

『中国のだろー?う~ん、前のバックドアが生きてれば六〇秒だけど、使えなかったら一〇分ちょいかな~?』

「最速でやれ。街中なら追加したカメラでフォローできるが、ここには何の仕込みもない」

『もしかして、五〇箇所も電柱昇ったこと恨んでる?』

「五二箇所だ」

『あーちゃん、細かい男は嫌われるぞ~』

「好かれる必要性はないだろう。口よりも手を動かせ」

『イタイ発言は引かれちゃうぞ、っと。よーしいけいけいけ…………、はいキタ!」

「成功か?」

『おーよ。映像もバッチリ!』

「調査を再開する」


 物騒な会話から緊張感のない内容へシフトして、すぐに思考を切り替えて進んでいく。傍から会話を聞いている天音は、二人の天と地ほどのテンション差にコントじみた可笑しさを感じてしまった。

(普段から、こんな感じなの?)

 実際に戦う刀弥とうやの姿や、尋常じゃない情報処理をしている観生みうを直に見ているからその実力をわかってはいるのだが、力の抜けそうなやり取りだけは慣れそうにない。


 刀弥は調理場の外壁に背中を預け、一度体勢を落ち着かせる。

 銃を構え、左手に逆手で握るマグライト――警棒、というよりは棍棒としても使用可能――の光を絞る。

 犬の目はタペタム層という光を反射する鏡のような層を持っており、夜目が利く。逆に、明るい場所ではこのタペタム層が光を拡散してしまうため、人間よりも視力が低く、視覚がぼやける。

 もしここにいるのがあの大型変異体だった場合、今の状況シチュエーションは刀祢にとって圧倒的に不利だ。夜目が利く相手は、拳銃弾をものともしない防御力と、巨体から繰り出す高い攻撃力を有している。

 一撃受ければ死ぬ。冗談ではなく、それだけの力を――全高二.五メートル超の巨体による質量と鋭利な爪、人の胴体を嚙み千切れる顎と牙を有している。

 間違いなく、これまで対峙してきた変異体の中でも最強の部類だ。

 対策は万全、とは言い難い。

 だが、何もしないわけにはいかない。

 刀弥にとって、変異体と戦うことは、存在意義そのものであり、戦わないなどという選択肢はない。戦いから解放されるのは、全ての変異体が消えるか、刀弥が死んだときだ。変異体に殺されるか、体内に馴染んだはずのジョーカーウィルスの影響を受けて体調が急変するか。どちらにしろ、刀弥の死が平穏なものになることはない。

 調理場の外壁から、銃を構えながら徐々に、しかし迅速に弧を描きながら視界を広げていく。

 調理場の裏手は、幅四メートルほどの開けた場所になっており、そこから先は山の木々が茂っている。調理場に沿って、長さ二メートルの木製ベンチが三つ設置されている。

 その一番奥。

 調理場の白い光に照らされた白い体が、ベンチから寝返りをうって転げ落ちたかのように、仰向けに横たわっていた。

 距離は約六メートル。この距離からでも異変が感知できる。

「被害者を発見。死亡と推定」

 インカムに呼びかけながら、足を一歩ずつ前に出す。

『あやや、グロの予感』

 おどけた調子で、遠く離れた観生が応える。

 刀弥は既に遺体のまで近づいていた。

「十代後半から三十代の女だ。頭蓋の大部分が欠損。上顎から上部がない」

『グログロのグロだ~』

 少しテンション落ち気味に、しかしおどけた調子は変わらぬ声が返る。

「着衣はシャツのみ。隣のベンチにジーンズ二着、下着類もある。ここで襲われたな」

『わぉ、ぱっくんちょしてるときにぱっくんちょされたね』

「何を言っている」

『ねーねー、エロいカッコのまま?』

「下着類は着用していない」

『お、あーちゃんムラムラ中か。こちとらJK二人でいるというのに』

「ついでに肝臓もないな。喰いちぎられている」

『あーちゃん、帰ったらレバニラ作って~』

「仕事をしろ。処理班は?周囲の封鎖状況は?」

『むむ~、いけず~。手配は完了。あと七分でキャンプ場一帯を封鎖。警察来るまで一時間くらいかかるから、それまでになんとかよろ~』

「了か――」


 そこで、一陣の暴風が襲い来る。


 刀弥は咄嗟にマグライトを楯に飛び退る。

 マグライトが宙を舞う。握っていた左手が痺れる。

 ほとんど反射で拳銃を斜め上方に構える。


 黒い巨体が、目の前に現れた。

 間違いなく、あの変異体だ。

「ターゲット、エンゲージ」

 以前よりも大きくなった気がする。全高は、恐らく三メートルはある。体はより筋肉質になっているが、大きくなった原因は、その首だ。

 頭部の他にある、首に並ぶ五つの口腔。牙が並ぶその首がより長くなり、サラブレット――いや、もうキリンと呼ぶべきか。そんな怪物へと変貌を遂げていた。

 以前高校でダガーを突き刺した右目は、大きく盛り上がっていて、眼窩がんかから飛び出しそうだ。左目は鋭利な印象なのに対して右目は肥大しているアンバランスさが、余計に不気味さを醸し出している。

「前よりも進化している、とでもいうのか」

 ジョーカーウィルスの影響か。通常の変異体は寿命が極端に短いが、もしかしたら長い寿命を獲得したせいで変異が進んでいるのかもしれない。通常は世代を経ることで起こる突然変異だが、自身が、しかもたった数日で変容を遂げるとは、これを放置したら一体どこまで変異していくのだろうか。ドクターカルーアならば興味深いと言うのだろうが、刀弥にはそんな感心などない。

 生け捕りはまず困難だ。

 命令とは異なるが、殺す気で行く。気概としてはそれが正しいはずだ。

 捕まえるつもりで挑んでも、手加減を意識していてはやられる。

 戦力は、相手の方が圧倒的に上なのだから。


 ダンダン――‼


 二発の銃弾が、正確に眉間を捉える。

 が、二発とも変異体に命中後に上方へ逸れてしまった。

(強度は上がっている――以前の問題として、高低差で運動エネルギーが伝わり切らないか)

 斜めの面に銃弾が当たると、エネルギーが分散されてしまう避弾経始ひだんけいしが働く。生物相手に考えることなどない概念だが、この変異体についてはそこまでのバケモノに成長したということか。

 変異体が大きさに似合わない俊敏な動きで一歩踏み込むと、巨大な前足を振り下ろしてくる。

 刀弥は咄嗟に飛び退るが、ズドン!と重い響きと共に、さっきまでいた場所にはっきりと足形ができた。

 これはもう動物の引っ掻きやパンチなどというものではない。ビルの建築現場で鋭利な鉄骨が落ちてくると考えた方が脅威度が近い。

 体重はもう一〇〇〇キロを超えただろうか。そこに異常な筋力が加わり、一撃貰うことは、乗用車の交通事故どころか、大型トラックのそれに近い。

 あらかじめ予想していたことだが、改めて実感させられる。


 腰のサバイバルナイフを確認する。

 ホルスターのベルトにかけたマガジンを、脛に仕込んだダガーの感触を確かめる。

(足回りを崩せれば、いけるか…?)

 高校では試せなかった、けんや腹部への攻撃を考える。

 そこへ――


 タタッ、と。


 木々の間、草木を掻き分ける音と共に、何かが近づく音。

 刀弥は意識の何割かを自分の左側――音源に向けた。

 何かが飛び出した。


 それは、体長一メートルほどの黒い犬だった。

 引き締まった短毛の体が、涎を撒き散らしながら、血走った眼で刀弥を捉えている。

 そして、その首にはもう一つ、牙の生え揃った口があった。

(もう一体…⁉)


 新たな変異体が、刀弥の喉笛を噛み千切らんと、飛び掛かった。

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