第29話

 飛び掛かってくる、喉笛を喰い千切ろうと迫る体長一メートルの変異体。

 刀弥とうやは足を一歩引き、半身になって上体を反らすことでその牙を躱す。それを見計らったかのように巨大な変異体が前足を振り下ろすが、既に刀弥の体はバックステップの体勢に入っている。

 ブォン!と鈍く風を裂いて、鋭利な爪が空を切り、直後にズドン!と地面を叩く斬撃と打撃の複合技。一撃で致命傷を受けるであろう変異体の前足による一撃を、コンマ五秒前のタイミングで後退し躱す。

 直後、小型の(とはいっても中型犬程度の大きさはある)変異体が体をバネのようにして切り返し、再度刀弥に向けて、今度は一〇センチ近い爪で襲い掛かった。

 大型の変異体ばかりに意識が行きがちになるが、小型の方だって十分危険だ。脅威度が相対的に低いだけで、その爪で腹でも裂かれれば、それだけで致命傷になる。

 それを、刀弥は見誤らない。

 

 ダンッ――!!


 夜の山に、思った以上に響く一発の銃声。

 同時に、小型の変異体の後頭部が消し飛んだ。頭蓋と共に、黒い煮凝にこごりのようなものが飛び散る。

 飛び掛かった慣性そのままに、失速した犬の死骸が地面を滑った。

(銃弾は有効か)

 一体を仕留めても、刀弥の表情は変わらない。

(あくまで同型種であるだけで、あの防御力を継承しているわけではない)

 冷静に、現状を分析する。

 体格こそ違うが、目前の二体は同種だ。

 通常、変異体は感染した個体をベースに体が変異する。凶暴性が増す、というのが共通する傾向だが、急激な癌化により局所的な身体の肥大化を誘発し、個体の筋力が高くなることが多い。これまでも、双頭の個体や、前足のみが巨大化した個体、牙のように肋骨が展開された個体など、その特徴は様々だ。

 だが、この二体は牙の生えた首の口腔という共通項がある。口蓋こうがいや舌がどうなっているのかは不明だが、恐らく身体構造も同一だと思われる。

 普通に考えれば共通の遺伝情報を持つ関係――親子であると考えるのが妥当だが、変異体が繁殖とは考えづらい。繁殖能力の確認まではされていない、というよりも、短すぎる寿命故に後回しにされてきた項目だ。もし本当に繁殖したというのならば、感染拡大と共に憂慮される事態だろう。

 だが、事実はより深刻だった。


「グゥ、ゴォゥ、ボウウゥゥゥ―—――――――――――――――――ッ!!!!!!」


 巨大な変異体が、苦悶の嗚咽を漏らす。

 これまでの威嚇するものとは違う、体の不調を訴えるような、弱さを孕んだ呻き。

 変異体の肩回りが、風船のように不自然に膨らんだ。

 力こぶのように、二つの五〇センチの膨らみが出来上がる。

 目の前で更なる身体の変異が起きている、と思ったが、違う。

 膨らみが、その内部が、もぞもぞと動いている。

 ぶちゅり、と膨らみが弾け、萎んでいく。まるで水ぶくれが破れたように、徐々に形を失っていく。

 その途中、どさり、と水ぶくれの中身が地面に落ちた。


 黒い塊。

 いや、犬だ。

 それが生まれたての馬のように、ぷるぷると震えながら立ち上がる。

 ウゥゥ、と低い唸り声を上げながら、がふがふと咳き込む。体液に濡れた短毛の体を夜風に晒しながらも、数秒後にはしっかりと地面を、ナイフのように鋭利な爪の生えた凶暴な四足で、がっしりと噛み締める。

 唸り声が、より強くなる。

 しかも、それが二つ。

 一度に、巨大変異体が新たに二体の変異体を生み出した。

『あーちゃん、なんか変異体が増えたように見えるんだけど…?』

 上空から監視している観生みうから、飲み込めない状況の確認が来た。

「ターゲットの巨大種から、小型の個体が出てきた」

『おぉ、まさかの双子の出産に立ち会うとは…!』

「馬鹿を言うな。急に膨らんで出てきたと思ったら、もう足腰が立っている。こんなペースで生まれてたまるか。いや――」

 さっき急に飛び掛かってきた個体も、恐らくこうして生まれたのだろう。

 犬は一度に複数匹を出産するが、これは本当に『生まれた』というのか?

 むしろ先ほどの様子と変異体という特性を考えれば、もっと別の表現の方がしっくりくる。

「増殖、と言うべきか」

 変異体が奇怪な見た目なのも、目前の個体があそこまで巨大なのも、全てはジョーカーウィルスによる急速な細胞分裂が原因だ。ならば、目の前のモノが複製クローンだと言われた方が、よほどしっくりくる。もっとも、科学者からするとそんな細胞分裂のスピードはあり得ないと言うだろうが、最早目の前のバケモノはそういう領域にまで踏み込んだものだということだ。

(余計なことだな)

 余計なことを考えすぎたと、刀弥は思考を切り替える。

 自分が考えても無駄なことだ。

 こいつらがどういうものかはカルーアをはじめ研究者に任せればいい。自分はただ、戦えばそれでいいのだと、思考を戦うことのみに専念させる。

『あーちゃん、周囲の封鎖を完了。キャンプ場のお客さんは熊が出たってことで全員退去。変異体に接触したと思しき大学生は検査のため護送中。調理場の周囲二〇〇メートルに人はいないよ』

「了解」

 刀弥は拳銃を構える。

 三メートル先に、二体の生まれたての変異体。そのすぐ後ろに、全高三メートル近い、数日前に会敵した時よりも大きくなった変異体が一体。

 これまで経験した中で、一番の修羅場であることは間違いない。

 ただでさえ一対三と数的不利な上、俊敏に動き回る体長一メートルの個体と、重量比一五倍以上の巨体の、一撃粉砕の攻撃力と銃弾を防ぐほどの防御力を有する個体。確実に倒すならば突撃銃アサルトライフルの十字砲火を要請したいくらいの脅威だ。実際にそれをやれば、仮に六人配置したとしても確実に半数は餌食になるだろうが。

 それを、驚異的な身体能力と高いウィルス耐性を持つとはいえ、刀弥一人に任せようというのだから、正気の沙汰ではない。

(だが――)

 小型の変異体が、唸りながら前足を一歩踏み出す。

(関係ない)

 刀弥の存在意義は、戦うこと。

 変異体に相対すること。

 それしか、ない。

 だから戦う。

 なぜ戦うのか?

 そんなこと、考えるまでもない。

 存在する意味などなかった。家族にすら、ただそこに在ることを望まれなかった子供が、唯一必要とされたこと。

 たまたまジョーカーウィルスに適合し、たまたま生き残ることができた。

 他人からも存在を意識されない、感情さえ向けられない、道端の小石のような存在の自分が、実験の被験者として必要とされ、更には変異体と戦うことでも必要とされる。

 虐げられているとは思わない。

 需要と供給、それが合致しているのだから。


 変異体が、飛び掛かる。

 右の個体が先に飛び出し、一息遅れて左の個体も飛び掛かる。

 本来の頭部にある口と、首にある口を両方開けて、咆哮と共に跳躍する。

 奥の巨体も、身体を沈め――突進の予備動作に入っている。

 刀弥は迫る小型種二体への対処を優先し、拳銃の照準を左の個体から銃把グリップを右手から左手にバトンタッチ。

 変異体は、既に刀弥の眼前五〇センチに迫っている。

 大きな口を開け、ナイフのように鋭利で凶悪な爪を構えて飛び掛かる異形の犬に対し、一瞬刀弥の体が後ろに反らされる。


 ドゴッ!っと鈍い音がして、変異体の体が弾き飛ばされ、地面を滑った。


 刀弥の右足――上段回し蹴りハイキックが変異体の頭部にクリーンヒットした。

 だが、第二の矢である二体目の変異体は、右足を振り抜いた直後の、刀弥の無防備な右肩に喰らいつこうと飛び掛かっている。


 当然、そんなこと、刀弥にはわかり切っている。

 回転の勢いそのままに、更に身体を回転させ続ける。意図して余計に半回転し、丁度変異体に対して半身になった体勢になる。

 左腕を伸ばす。

 大きく開かれた口は、その腕の先、ほんの一〇センチにまで迫っている。

 そう、その腕の先、左手に握られた拳銃H&K USPの銃口に、ほとんど触れそうなほど近くまで。


 ダンッ――!!

   ボガチャッ――


 銃声と同時に、何か固いものが破砕されたような音。

 左右どちらの手でも撃ちやすい構造となっている拳銃から吐き出された銃弾が、変異体の口腔内へ進入し、喉から脳幹と小脳を粉砕し、それでも有り余ったエネルギーで後頭部を突き抜けた。

 勢いで銃口に噛みつかれたが、その顎に力はない。

 すぐさま振りほどき、右に転がる。

 そのすぐ脇を、三メートルの巨体が高速ですり抜けた。

 自動車との交通事故のような、質量の攻撃から難を逃れるが、依然脅威は続く。

 

「ウゥゥ――」

  「オゥゥ――」

    「オオゥゥ――」


 先ほど蹴り飛ばした個体だけでなく、別の二体分の唸り声が刀祢の耳に届く。

 一〇メートルほど離れた場所に佇む、巨大変異体。その足元に、別の黒い影が二つ、刀弥を睨んでいた。

「どこまで増える気だ」

 一対四。

 より悪くなった状況に、刀弥は銃を握る左手に力を込めた。

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