第26話
その日の夜—―
緩やかな山に隣接するキャンプ場は、大型連休の割には人が多くはないように見える。昼間こそ隣接する運動公園に、近隣の高校生や中学生が野球やサッカー、陸上競技と練習に
だが、夜になると、利用者はキャンプ場利用者に限られる。
夜も一〇時を過ぎると、皆自分のテントや小さなログハウスに戻っており、屋外にいる人はほとんどいない。なので、人は多くない印象だが、実際にはほぼ定員の三○組・一二二名の客が利用している。
このキャンプ場は、上下水道が整備された屋根付きの調理場やトイレが完備されており、ログハウス内にはシャワールームも設えられている。予約すれば食材も用意してもらえるし、バーベキュー用の網や食器などもレンタル可能なため、お手軽にキャンプを楽しめるとして有名な場所だった。
連休初日から快晴が続き、もっぱらのキャンプ日和であり、今も見上げれば満天の星空が見る者を老若男女問わず圧倒している。
そんな利用客の中の一組である若者はというと――
「ねぇ、さすがにここは――」
「いいじゃ~ん」
調理場のすぐ外、蛇口がいくつも並んでいるシンクの裏側に隠れるように、じゃれ合っていた。
近所の大学生の男女で、今日は男女二人ずつ、計四人でキャンプに来ており、さっきまでバーベキューを楽しんでいたのだが、今は片づけも終わり、二人で物陰に移動して行為に及んでいたのだった。
眼鏡をかけた、少し弱弱しそうな男が備え付けのベンチに寝そべり、勝気そうな茶髪にセミロングの女がその上に跨っている。互いに着衣はTシャツのみで、男は捲れたシャツから臍を露出し、女は更に自分の乳房に引っ掛けるようにシャツを捲り上げていた。無人の調理場の白い蛍光灯が、白い肌を照らし、男の目を釘付けにしている。
「ねぇ、もしかして童貞?」
「なっ、べ、別にその、俺は…」
女はからかうように笑い、男はバツが悪そうに視線を横に向ける。
「じゃ、卒業だね。おめでと」
女は腰を落とし、互いに露出している局部を近づける。
「あ、」
そこで、第三者の声がした。
男が顔を横に向け、それでも足りずに顎を上げて視線を向けると、真後ろ、ほんの五メートルくらいの位置に、まだ小学校入学前と思しき小さな男の子が立っていた。調理場の近くにはトイレがある。恐らくそこから物音に気付いて近づいたのだろう。
「ねぇ、さすがにマズ――」
「いいじゃん、保健体育だと思えば」
情操教育としてどうこう言おうとした男の意見を無視して、女は構わず行為を続けようとする。
「それより、ほーら、入っちゃうよ~」
喜色を滲ませながら、女は男の局部を握り、自身にあてがう。
「こうやってね、赤ちゃんを作るんだよ~」
目を丸くして呆然と立ち尽くす男の子にも、悪びれもなく声をかけながら、女は腰を一気に下ろした。
男の下半身が、暖かく包まれる。
幼い男の子が左足を一歩引く。
思ったよりもきついというわけでもない、絡みつくような感覚に男は思わず身を震わせた。
男の子は右足を引いた。
ゴリっと音がした。男の子が大きな石でも踏んでしまったのかと思った。
女の体が一度大きく持ち上がり、勢いよく下ろされる。
「おふっ」と、男は思わず声を上げてのけ反ってしまった。
再び男の子の顔が目に入った。
男の子の視線は、自分に向いていないと、眼鏡越しに気付いた。
少し上に向けられている。
跨っている女の方を向いているのだろうか。
(なんだかんだで小さい子でも女の裸というか、おっぱいって見ちゃうもんな)
そんな他愛のないことを、情操教育という言葉を頭からきれいさっぱり消し去った男は、自分の胸に脱力して倒れ込む柔らかな感触と、温かい液体がかけられたことに気付く。
(あれ?もしかしてこれが潮吹きってやつか?俺ってそんなにテクニシャンだったのか⁉)
そんなことを思いながら、視界を覆うほどに眼鏡にもかけられた赤い液体に、男は一度眼鏡を外し――
…………赤?
そこで、暖かな赤い液体という事実と、遅れてやってくる鉄錆のにおいに、男は顔を
真っ赤に濡れた眼鏡を指で強引に拭う。
そして、眼鏡をかけ直す。
その間も、自分の体に預けられた女の体温や柔らかな肌、胸板に潰れる乳房の感触は続いている。
改めて、女の顔を見る。
顔を、見る……。
「………………………………、………………え?」
だらんとした赤い舌と、白い歯が見える。ルージュを引かずとも赤い、血色のいい下唇も。
ただ、
それしか、ない。
顔が、頭部が、下顎から上がない。
その下顎も、辛うじて皮膚で繋がってるだけで、ただ、赤やら黒やら白やらが、見慣れない色彩が見えていて、上手く現状を認識できない。
そこで、なぜか再び男の子を見やる。
男の子は、見上げていた。
ゴリッ――
硬いせんべいでも食べているかのような音。
恐る恐る、男の子の視線を追って、女の顎越しに見上げる。
黒いものが、
大きくて、一瞬
だが違う。
ガゴリッ――
何かが動き、頂点から液体が滴り、べちゃべちゃと地面を濡らす。
頂点が動いている。もぞもぞと、動いている。
満天の星々のせいで忘れられた、雲に隠れた月が顔を出す。
月明かりが、その正体を、異形を弱弱しく照らす。
先日のスポーツの授業でやったばかりのバスケットボール、そのゴールポストよりも少し高いかもしれない。
一瞬、キリンかと思ったが、違う。
黒いのは夜闇のせいでも、影になっているからでもない。単純に、その体が黒いからだ。
黒い巨体、その長い首には、五つの口が並んでいて、全てが鋭利な牙を覗かせている。筋肉質な体は太ましく、四肢の先には映画に出てくるような軍用ナイフを直接取り付けたような大きさと凶悪さを感じさせる。
その頂点、頭部の本来の口がもぞもぞと動き、さっきからガリゴリとせんべいを砕くような音が続いている。
その口には、黒い体と比較して淡い色をした、髭が生えていた。
その髭が、べちゃりと落ちた。
塊ごと、濡れた雑巾が落ちたように、本当にべちゃりという音を立てて。
茶色の、二、三〇センチくらいの長さの、まるで小さなカツラのような――
「ひぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
その正体に気づき、自分の体の上に載っているモノに気づき、そして全ての状況を理解し、男は今更になって恐怖し、悲鳴を上げた。
その声に応えるかのように、巨体の首が傾げられ、目が合う。
男は頭部のない裸体を撥ね退け、着衣も気にせずに駆け出す。
上半身は血に塗れた赤いシャツ、下半身は血と女の体液に濡れたモノを隠しもせず、転がるように走った。
小さな男の子の隣をすり抜ける。
危ないとか、助けた方がいいとか、そんな当たり前のことなど考えてはいられない。
頭を
生命の危機に際し、己の意に反して自己主張する男性器を腹や太ももに何度も打ちつけながら、男は走った。
恥ずかしい?みっともない?
知るかそんなこと。死ぬよりはマシだ。
同級生がよく「死んだ方がマシ」と言うが、そんなことはない。
ここを無事切り抜けるためなら、どんなにみっともない姿を晒してもいい。
あんな、あんな目に遭うくらいならば――
「たす、け、」
ほんの十数メートル走っただけで上がり切った息を無視して、無理矢理声を捻り出す。
「たす、たすげでーーーーー‼」
ただ、生きるためだけに。
それ以外の全てを
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