第25話
同時刻――
正午になり、
公園には誰もいない。小さな滑り台があるだけの、申し訳程度の広さの公園は、大型連休二日目には開店休業中のようだった。
黙々と、弁当に手をつける。
タッパーに詰めた白米の上に豚肉と
習慣で作っている、慣れ親しんだメニューのひとつだ。
黙々と、タッパーの中身を口に運ぶ。刀弥にとって、食事とは栄養補給と
横目で隣に置いたバッグを見やる。
今日のノルマは残り二○個。ペースは悪くない。日中帯に終わるだろう。
MMMC所有の人工衛星による変異体捜索は、常時行われている。しかし、それは満遍なく監視するためのものであって、あの変異体専用ではない。それに低軌道を周回する周期から二四時間定点監視ができるわけではないため、時間限定の神の目になっている。有事の際は、他国の軍事衛星に忍び込んで映像を取得することもあるが、それだって常時ハッキングできるわけではない。ほんの数分だけでも難易度の高い作業をしている
だからこそ、それを補うためにオンライン接続されている防犯カメラをハッキングして『目』としており、その不足を補うために住宅地付近を主に回って、電柱の上に監視カメラを設置している。
MMMC――いや、PNDRの基本方針は、『事が起こってから動く』ことだ。変異体が発見されるということは、つまり監視網に引っかかったということであり、そこから人を派遣して周囲を封鎖・刀弥が到着し対処するには当然時間がかかる。その間に、当然のように誰かが犠牲になる。
つまり、正確には『事が起こってから動くしかない』が正しい表現だ。
今回、
ただし、ドクターカルーアと刀弥たちの間には彼女の扱いに関して若干の齟齬がある。
前者は『喰いついてから』変異体に対処する。
後者は『喰いつく前に』変異体に対処する。
実際の行動面では大差は出ないだろうが、その前提条件が大いに異なっている。
だが、なぜそんなことになったのか、ふと刀弥は疑問に思った。
(ただの、同じ学校に通うだけの、存在なはずだが)
特別何か理由があったわけではない。なぜか『死なせたくない』と思っている。
自分は天音が死んだとして、いつものように拳銃を構えながら遺体を足で小突き、生存や損壊状態を確認できるだろうかと考える。
できるはずだ。
(できる、はずだ……?)
そこで疑問が出てくる事自体がおかしい。
これまで何十回と繰り返してきたことだ。特別なことではない。
ただ、爪先でひっくり返した顔が見知った顔であるだけのはずなのに。
観生に「なぜ蓮山天音の生存に拘ろうとするのか」と確認した方がいいだろうかと考え、それも何か違うと思い直し、結局やることは変わらないと、結論を出す。
あの変異体を処分すればいい。
いや、捕獲だったか。
処分から捕獲へと方針転換されたせいか、元からの制約か、刀弥が要求した
結局いつも通り火器は拳銃で対応するしかない。
弾丸は普段使っている
そこまで考え、ふと眠気に襲われる。
これまでそんな経験はなかったが、きっと強大な変異体に対して気負いがあるせいで睡眠に若干の影響が出ているからだろう。もしくは咀嚼回数が足りなかっただろうか。
刀弥は携帯電話で時刻を確認する。
現在一二時二○分。
アラームをセット。
適度な仮眠は作業効率を上げる。
ベンチで腕を組み、少し俯いた姿勢のまま、刀弥は目を閉じた。
「お母さん……」
少年のソプラノが、虚空に呼びかける。
「お母さん、どこぉ……?」
応えるはずのない人を、呼び続ける。
「いやだ、恐いよぉ……」
真っ白い部屋の中、パイプベッドに拘束された、まだ十にも満たない少年の腕に、防護服を着た男が注射針を刺す。暴れるが、両手首と両足首、腰をベルトで拘束され、
「おがぁざ~ん!」
止め処なく流れる涙が耳に入り、気持ち悪い。
さらさらの鼻水が気持ち悪くて、何度もすする。
涎が垂れ、首がびしょびしょだ。
涙も鼻水も涎も、拘束されて拭いすらできない。
痛い。針を捻じ込まれている。
痛い。腕が、体が熱い。
痛い。腕が引き千切れそうだ。
痛い。腕の中で、何かが這い回っている。
「ごべんなざい!ごめんだざーい!」
大声を上げることが、結果痛みと恐怖を和らげるが、気休めだ。痛みの絶対値が大きければ、それが半分になっても痛いものは痛いし恐いものは恐い。高さ一〇〇メートルの建物から落ちるのと五〇メートルの建物から落ちるのでは結果が変わらないのと同じようなものだ。
そもそも、少年にそんな考えなどない。
ただ腕の針が痛いから叫ぶのだ。
腕の中を蠢く何かが不快だから、騒ぐのだ。
得体のしれない恐怖に襲われているから、喚くのだ。
自分だけではない。
右隣にいる少し年上の女の子が、ビクビクと裸体を震わせながら、死んだ魚みたいな目で、左右の瞳が別々の方向を向いている。
左隣にいるおじさんは、全身赤黒い肌で、充血した目でフーフー言いながら時折真っ黒い液体を吐き出している。
「ごべんだざいっ!ごべんだざ~~いっ!」
自分の泣き声なのか、周りの人のそれなのかもわからない。
なぜ自分がこんな目に遭っているのかもわからず、もしかしたら自分が悪いことをして、そのお仕置きでこんな痛いことを、恐いことをされているのだと思い、少年は叫び続けたことによる喉の痛みも忘れ、ひたすらに謝罪の声を発し続ける。
謝るからごめんなさい。もうしないからごめんなさい。
よくわからないけどごめんなさい。
いい子にするから、もう恐いことしないでください。
「ゆるじで、ぐだ、ざぁいっ!!」
泣き過ぎてしゃがれ始めた声と
少年だけが、声を上げ続ける。
同じようにベッドに拘束された他の九人は、誰も何も発さない。
少年と、防護服の男だけが、この空間にいる生者だから。
白い部屋の窓越しに、赤い髪に眼鏡をかけた若い女が、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、その異様な光景を平然と眺めていた。
その女に向けて、防護服の男は丁寧に告げる。
『ケース
女は館内スピーカ越しの報告に、一度手元の情報端末を見てから応える。
『結構、一〇八の経過観察を継続。データをわたしのデスクに回せ』
『承知しました。他の個体は?』
『他は体細胞サンプルを採取後、焼却処分だ』
淡々と、感情の余地などなく告げられる。
そこに、人の死などなかったかのような、事務的なやりとり。
去り際に、赤髪の女の口元が歪んだ。
人の死を見た興奮から――ではない。
いい実験データが取れたと、喜びを感じた、ただそれだけのことだった。
ゆっくりと瞼を開けて、刀弥は目を覚ました。
(夢……)
携帯電話を確認する。
一二時二九分――まだ一〇分も経っていない。
額には汗が滲み、顎のラインを伝って一筋、首筋まで滑り込む。
四月の末、日中の気温は二二度。時折吹くそよ風が、火照った体を優しく撫でる。
一〇年近く前の、忘れ去ったはずの記憶。
まだ、痛みと恐怖に慄くことができた頃の、無力な実験動物だった自分。
(なんで、今になって…?)
あの頃は、確かに苦しかった。だが、今はそれに悩むことなどない。
痛みは感じても、喚くことなどない。
苦しいと感じても、もがくことなどない。
まして、嬉しいと笑うことも、悲しいと泣くことも、なくなったのだから。
刀弥はベンチから立ち上がり、ヘルメットを
人気のない公園から、中身の詰まった大きなバッグを肩にかけて。
先ほどまでの凄惨な追憶などなかったかのように、次の昇柱場所を探して、昼前と変わらぬ足取りで歩き出した。
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