第7話 ハイハイする混沌【STAGE 屋敷】


 私の名前はナニー・マァム。

 マァム子爵婦人である……

『あ、いたいた! ちょい時間の巻き戻しで録画観てるようなものですが』



 マァム子爵家に嫁いで5年。

 私は待望の子供を授かった。


 正直、夫との仲はあまり良くはない。

 事実、彼は私が妊娠すると愛人のところに入り浸るようになった。


 出産の時にも夫はその場に居合せもしなかった。


 そして、娘を授かってすぐに愛人宅から夫は突然屋敷に戻ってくると、寄親のアレクサンドール侯爵家に乳母として行くよう命じてきた。


 夫は喜ばしいことだ、名誉なことだと仕切りに言う。

 だがこれは厄介払いだ。

『なかなかヘビーな女ですね。でも同情心は湧きません。だって私って女神ですから』


 私が気づいていないとでも思っているのだろうか?

 正直、夫のことなど愛してなどいない。女の尻しか追えない情けない男。

 女としての尊厳が、貴族としての矜持が、この事実を容認できなかった。


 だが、確かにアレクサンドール家の乳母は美味しい話ね。上手くカレリン様に取り入れば侮蔑すべき夫と憎い女に復讐もできるだろう。そして私の娘と2人幸せに暮らすのよ!

『ふーん。この女も大概ですね。そういう設定なんですか』



 As goddess my witness, I will never lose again!



 娘も不幸にはさせません

 その為には騙し、盗み、人をも殺すでしょう

 私は女神様に誓う、もう2度とあんな女に負けません!



 Tomorrow is another day!



『なんか何処かで聞いたことあるセリフなんですが』


 そう私は考えていた……


 娘が死んだ。呆気なく。

 罰が当たったのだ。


 あの暗い情念を女神様に誓った罰……

『私は何もしてませんよ。人に干渉しないようにしていますから。だから私を恨まないでくださいね。設定なんだから製作者を怨んでくださいね』


 もう何もする気が起きない。

 だけど夫はそんな悲嘆に暮れる私を無理矢理アレクサンドール家に送り込んだ。


 娘はもういない。

 いまさら他人の子育てなんて……


 私はカレリン様の元に通され、その愛らしいご尊顔に預かることとなったが、もはやそんな名誉などどうでもよかった……

『ここまでは設定通りのようですね』


 いっそう全てをぶち壊そうか?

 それもいい。カレリン様を虐待したらどうなるかしら?


 私は暗い情念の矛先をカレリン様に向けることを考えた。


 泣いても放置し、お乳を最低限しかあたえず、バレない程度につねるなど痛い思いをさせようか。おしめの替えも回数を減らして……




 ……と、この時まではそんなことを考えていた。その美しくも愛らしいお姿を見るまでは。

『えっ? まさか美赤ちゃんにメロメロにされるパターン?』




【初日】


 とても綺麗な赤ちゃんだった。

 先日死んだ私の娘など比べるべくもない。

 母の贔屓目ひいきめを持ってしても太刀打ちできない。


 だがしかし……


 だがしかし、おかしい!

 何かがおかしい!!


 私はこの現実離れした美しい(キラキラしている)赤子をいぶかしげに凝視した。


 あっ!

 この子、泣いてない!


 なに!?

 無表情で声を漏らさない赤ちゃんとか不気味なんですけど!?


 泣きもしない、笑いもしない。

 ただ無表情で宙を見つめて。


 何これ、こわっ!

『ああ、私と会話してた時か。そう言えばこの時この女部屋に入って来てましたね。赤ちゃんのカレリンは気づいていませんでしたが』


 なんですか、この不気味な赤ちゃんは!



 こうして、私の『泣くのほっとこ計画』は頓挫を余儀なくされた……


 仕方がない。次の『母乳はちょっとだけよ計画』を発動よ。

『ネグレクトってこんな感じ? なんか楽しい性格してる人ですね。ネーミングセンスも変だし』


 そうよ。こんな不気味な赤ちゃん放置すれば……



 トタトタトタ……



 何です?

 近づいてきたって相手なんてしな……


 ニタァ〜

 なにこの赤ちゃん! 笑ったわ!


 えっ? 赤ちゃんなんだから笑うの当たり前?

 そんな可愛らしいもんじゃないわよ!


 ニタァ〜よ、ニタァ〜!『笑う』というより『嗤う』ね。

 不気味よ! 不気味!

『カレリンはこれが天使の微笑みと思っているんですかねぇ?』


 ホント薄気味悪い赤ちゃんね。

『この嵐を呼ぶ的な満面の不気味笑顔で籠絡できると思っていたのでしょうか?』


 何か取り憑いているんじゃない?

『まあ、紗穂里が憑いてると言えば憑いてますね』


 ぎゃー!

 こないでぇ!!

『あ、ナニーが逃げました。追いましょう』



 タッタッタッタッ!



 ん? 何この音? 何か悪寒がします。

『私もなんだか寒気がしますね』


 後ろから……えッ!?

『まさか!?』


 ぎゃぁぁぁぁ!

『いやぁぁぁ!』


 あいつはなぜ嗤いながら大人の歩くスピードについてこられるんですか!

『あの子の言ってたカルガモってこのことぉ!?』


 何ですか何ですか何なんですかぁ!

 あの赤ちゃんはぁぁぁ!

『嘘でしょ!?引き離せません!奴は背後から這い寄る何かですかぁ!』



 ダダダダダッ!!!



 ハイハイのくせに速すぎない?

 不気味にニタニタ嗤ってるし。

 こわっ! こわっ!

『知りませんよ! 不気味すぎます! 何この赤ちゃん、こわっ! こわっ!』



 ドドドドドッ!!!



 なんて猛スピードハイハイ!

 大人の走りに追いついてくる!

『うそ! 逃げられません! 引き離せません! いやぁぁぁ!』


 いやぁぁぁ! 何とかしてぇ!

『できません! 無理です!』


 ぎやぁぁぁ! ダメ追いつかれる!無理!

『そこの角を曲がって巻きましょう!』


 はぁはぁはぁ……巻きましたか?

 何ですかあの嗤うハイスピード赤ちゃんは?

『ふぅふぅふぅ……あれはもはや這い寄る混沌ではありませんか!?』



 クイックイッ……



 こ、怖かった。死ぬかと思った。

 ん? 何ですか?

『恐ろしい。はい? 私は何もしていませんよ?』



 クイックイッ……


 いったいな……に?


 ニタァ〜〜〜



 ぎゃぁぁぁぁ!

『やぁぁぁ!』


 いやぁぁぁあ!

 よじ登ってこないでぇぇぇ!!

『本当に這い寄る混沌ですか!!』


(私を育てろッッ!)

 き、聞こえる! 私にもこの化け物の声が聞こえる!

『何ですか! 映像なのに怖過ぎです!』


(何をしているッッ早く飲ませろッッッ!)

 うおぉぉぉ! この怪物が母乳を要求している!

『聞こえる! 私にも奴の声が聞こえる! ホラーですか!? ナニーのSAN値が限界です!』


 こ、殺される。母乳飲ませないと殺される!

『こ、こうやって母乳をせがんだんですか?』


 恐い恐い夢に見そう。

『いけませんこの子は女神である私のSAN値まで削りにきています!』




 私は実際その夜、悪夢にうなされた。

『私は一睡もできませんでしたよ』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る