第8話 闇を彷徨うもの【STAGE 屋敷】
【2日目】
最悪だ。あまり寝られなかった。
『私のSAN値もボロボロです』
『母乳はちょっとだけよ計画』は中止ね。
また追っかけ回されたら悪夢では済まないわ。
『私は怖くて眠れませんでしたけどね』
だけどこのままでは済まさない!
『もう諦めてくれませんかね?』
ダメ! 諦めてはダメよ!
乳母として……
教導する立場の者として
これ以上の屈辱があるものか!
授乳を強要される――乳母!
『この人ホントに子供亡くして気落ちしてたんですか?』
ふふふ!
これだけはしないでおこうと思いましたが……
『この人やたら元気で愉快な方なんですけどぉ。』
『つねって泣かせちゃる計画』始動よ!
『この人なんか面白い人ですね』
これならカレリン様にも勝つる!
『赤児と何を競っているんですこの人』
見てこの天使の様な可愛い寝顔。
『ホントに……全く昨日の這い寄るカオスは何だったのか』
この無抵抗な天使に危害を加える……私はなんて恐ろしいことを思いついたの!
『昨日の恐怖に比べれば大したことないのでは?』
この悪魔的発想!
自分で自分が恐ろしくなるわね。
『ずいぶん可愛らしい人に見えてきました』
ふふふ……くらえ!
『あっ! 不用意に手を出しては!』
その時、私は見た!
カレリン様の双眸がキラッと光るのを!!
ぎゃぁぁぁぁぁ!
『やっぱり。猛獣の檻に手を突っ込む所業ですよ』
痛い! 痛い! 痛い!
『なっ!? あれはまさかキムラロックッ!』
イタッ! イタッ!
『そこから腕絡み!いえ、指絡みと言うべきですか』
ノォォォ!!
『ここで指4の字固め! これは痛い! 絶対痛い!』
ロープ! ロープ!!
『おおっと! ここでブレイク!』
ふうはあ、ふうはあ……
『あ、カレリン追撃! こ、これは!?』
うぎゃぁぁぁぁぁ!!
『フジワラアームバーですか!? なんてマイナーな』
ちょ、うそっ! ムリ! イタイ! イタイ!
『アンクルロックですと!?』
やめてぇぇぇ!
『いやぁ私ちょっと熱くなってしまいました』
何ですかあれは!?
『器用ですねぇ。指に多種多様な関節技きめてますよ』
【3日目】
まさか赤子に手を捻られるとは……
『立場があべこべですね』
このまま私はこの赤ちゃんに敗れると言うの?
『もう無理だから諦めてくれませんかね?』
いいえ! ナニー!
諦めたらそこで試合終了ですよ!
『どこの顧問ですか』
ならばこれでっ!
『一尺三寸の棒を取り出して何をするのでしょう……って考えるまでもありませんか』
こんな恐ろしい所業を行う私はきっと女神様もお許しにはならないでしょう……
『いえ、私は別にどーでもいいんですよ?』
この棒で無抵抗なカレリン様を――突つく!
『昨日めっちゃ抵抗されてましたよね』
この『ならば棒で突くぞ計画』ならきっと!
私は何て大胆なことをしようとしているのかしら!
『この人にとって「今はこれが精一杯」なんでしょうね』
こんな悪魔的行いにきっと天上の女神様も憤怒の顔で私をご覧になられているでしょう。
『見てますけど呆れ顔ですね』
さあカレリン様、悪魔に魂を売った私のいびりに耐えられるかしら?
『随分と可愛い悪魔もいたものです』
私は意気揚々とカレリン様の眠る揺り籠へと近づき棒を構えた。揺り籠から出られない赤児には成す術もないでしょう。もはや勝利は疑いようもない。
『初日に思いっきり追っかけ回されたの忘れたんですかね?』
「カレリン様! お覚悟ぉ!」
自分を奮い立たせようと掛け声を出し棒を突き出そうとした時、カレリン様の目がカッと見開かれ私はその眼光に一瞬たじろいだ。
『ちょっ! 今、本当に目が光りましたよ!?』
「くっ! お目覚めですか……ですが私はもう後には退けないのです!」
私はカレリン様に狙いを定めると棒を突き出した。
「えい!」
しかし、私の鋭く繰り出した棒は空を切った。
『いえ、全然鋭くないですからね』
「いったい何……が!?」
私は目を見開き驚きを隠せなかった。
カレリン様が立ってる!?
「立った……カレリン様が立った!」
『貴女はどこの山の少女ですか!』
そう、カレリン様が、その2本の足で立っていたのだ!?
雄々しく屹立したその姿はとても生まれたばかりの赤子とは思えない。
『赤ちゃんがどっしりと地を踏みしめる姿はシュールですね』
なんなのこの赤ちゃんは!
私は恐怖で乱雑に棒を振るった。
『うんまあ怖いですよね。赤ちゃんが悠然と立つ姿は』
しかし私の攻撃はただの一度もカレリン様を捉えることはできなかった。
『両腕を水平に並べともにクルリと回し、受け流して腕を脇に引いて両脇を締める。回し受けの訓練とはこのことですか』
「はぁはぁはぁ……何故あたらない!」
『自分の力はほとんど使わず回転と相手の力でうまく受け流していますね。見事と言うしかないです』
『その後のナニーの虐待(?)はことごとく空回り。それに引き換えカレリンの精神攻撃(本人は甘えていると思っている)は熾烈を極め、ナニーと私のSAN値をゴリゴリ削りました……
一番怖かったのはカレリンが飛び掛かってきた時でしょう。あの子、比喩抜きで飛ぶんですもの。何がモモンガみたいに可愛いですか!突然ガサガサ影が動いたかと思ったら凄まじい跳躍力で飛び掛かってくるんですよ。私もナニーも悲鳴を通り越して絶叫しちゃいました。
巨大な黒い悪魔Gでも飛び掛かってきたかと思いました……』
【7日目】
私の精神はもう限界に近かった。
『私のSAN値もマイナスに振り切ってますよ』
諦めたらそこで終わってしまうと分かっていても、私にはもう戦う気力が残されていなかった。
『私には眼鏡を掛けた太ったオジサンが試合終了だと告げる幻覚が見えます』
今の私は精も根も尽き、いつの間にか夫の浮気も愛人の妊娠も、いや娘の死でさえどうでもよくなっていた。
『けっこう最初からどうでも良くなっていませんでしたか?』
カレリン様は異常だ!
『今さらですが、そうですね』
ですが今の私にはもうカレリン様に抗う術は残されていない。自分の力ではもはやカレリン様に対抗はできないと悟った私は奥様に訴えることにした。
『もっと早く悟って欲しかったです』
私は奥様の暇を見つけて直談判した。
「奥様! カレリン様は異常です!」
『ストレートにきましたね。普通に考えて叱責を受けそうな物言いですが……』
「あらナニーどうしたの? カレリンちゃんがどうかしたのかしら?」
「カレリン様は人ではありません!」
「人ではない? 今さら何を当たり前の事を言っているの?」
お、奥様は気付かれて――
「カレリンちゃんは天使なのよ。こんなに可愛いんですもの」
――いねぇじゃねぇかよ!
「可愛いって正気ですか? 私は殺されそうになりましたよ!!!」
「あまりの可愛さに悶絶死しそうになるのも無理ないわよねぇ」
は、話にならない!
この親にしてこの子あり!
この人はなんという怪物を生み出してしまったのかッ!!!
『結局ナニーの意見は通りそうにもありませんね』
くっ! カレリン様が天使ですって!?
あれはそんな生易しいものではないわ!
カレリン様は・・・
何かもっとおぞましい・・・
あれは人の形をした、人ではない何かだッ!!!
怖い! 恐い! おぞましい!
怪物? 化け物?
あれはそんな生易しい存在ではない!
あれは人の世に
奥様の説得に失敗した私は乳母としてカレリン様のご成長を見守った。
『結構タフですねこの人』
しかし、私はとてもカレリン様と真っ直ぐに向き合う力は湧いてこなかった。
『いえ、貴女はあれを相手によくやっていると思いますよ。恐怖に耐えてよく頑張った!感動した!』
恐怖に震えカレリン様を直視できなくなる始末……
『ネグレクトではなく育児疲れだったのですね……』
しかし、それが次なる不幸を私に招くとは……
『まだ何かあるのですか!?』
為す術なく傍観するしかなかった私は時折カレリン様のお相手をせずにぼーっと自失してしまうほどに疲弊してしまっていた。
『そう言えばカレリンが突き放されていたとかなんとか……』
この屋敷に来て5年がたった。
『5年も耐えるとは……恐怖に耐えてよく頑張った。感動した!』
私は乳母としての責務をほぼ放棄しているに等しいはずなのに何故かカレリン様は健やかに成長なさっておられました。
『貴女のSAN値を吸い取って糧にしているんじゃないんですかね?』
肌はプルプル、髪もつやつや、血色もよく、誰が見てもカレリン様は絶世の美幼女でしょう。アレクサンドール侯爵夫妻も大変に喜ばれ、何もしていない私にとても感謝されておいででした。
カレリン様も虐待している私を何故か慕っている様子で、私の後ろをついて回っていらっしゃいました。
『カレリンは虐待と思っていませんでしたからねぇ』
アレクサンドール侯爵夫妻の喜ばれる様子、カレリン様のはしゃぐ姿、それらは私に罪悪感を抱かせる。
カレリン様の笑顔が私の心を
『貴女が気に病む必要性は皆無ですが』
苛まれた私は自失して、カレリン様に食事をお出しせずに数日が経っていた。それに気がついた私は慌ててカレリン様の部屋へと向かった。
さすがに
いかに常識外れのカレリン様でも数日も食事を抜かれれば無事ではすまない。
『普通に考えれば幼児を数日ほったらかしは拙いですよねぇ……普通なら』
――トントン! トントン!
「カレリン様?」
私はカレリン様の部屋の扉をノックした。
だが、返事はない。
ま、まさか既にカレリン様は儚くなって……
私は焦った。
「し、失礼します」
慌てて開けると室内はカーテンを閉め切っているのか、昼間だというのに薄暗く……
「うっ! 何ですかこの臭いは?」
そして部屋は何か生臭い匂いで充満していた。
次第に目が慣れてくると、壁や床、カーテンに何やら黒っぽい染みが……
「ま、まさか……この臭いは――血!?」
私は血の気が引いた。
「いったいここで何が?」
ガサガサ……
「ひっ!」
部屋の隅で何かが動いた。
『何ですかこのホラー展開は』
「カ、カレリン……様?」
私は震える足を
『やめた方がよいと思うのですが……悪い予感しかしません』
段々とその隅の黒い影の存在がはっきりとなり、やはりカレリン様がこちらに背を向け
カレリン様は無事のご様子で私は少し安心した。
「カレリン様……いったい何をなさっておられるのです?」
「ん? ナニー?」
夢中に何かをされていたカレリン様は私の声に振り返り、その愛らしいご尊顔を私に向け……
「――ッ!?」
『あ……』
――にたぁ~と笑った。
「んぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!」
『うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
カレリン様のその小さい手には兎型の魔獣の屍が、そして小さく愛らしい口の端からダラダラと血が流れ、絨毯の上にボタボタと落ちて黒い染みを広げていった……
気を失った私はその後、目を覚ますと一目散に奥様の元へと駆け寄ると暇乞いを申し出た。
「私にはもう無理です!尼になって神に生涯を捧げます!」
『虐待乳母事件ではなく乳母虐待事件でしたね。ゲームとは真逆です』
『まったく貴女は部屋でいったい何をやっていたのです』
「えー? ご飯をもらえなかったから……自分の力でどうにかしろとの教育でしょう?」
『まさか! 貴女は魔獣を!!!』
「一狩りしてました……テヘペロ」
『……』
『ゲームのナニーはカレリンの処刑に罪を感じて尼になるはずが、現実の彼女はカレリンの育児にSAN値を削られ人生に疲れて尼になってしまったのですね』
K.O.
YOU LOSE
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