心呼吸

四月になった。この日の夜は、「呼吸の広場」レッスンだった。遠藤先生のレッスンには毎月欠かさず行くようになって、一年半近く経つ。この日の遠藤先生は、いつもと雰囲気が違った。僕は、座布団の上に座りながらレッスンが始まるのを待っていた。

「こんばんわ。よろしくお願いします」

 時間になったとき、遠藤先生が立ってお辞儀をした。三十名ほどの生徒が話を聞く。ホワイトボードに視線を向けて、ペンで「本気」という言葉を書いた

「今日は、このことを聞くよ。『本気』で生きているのか? ということを。まず、『本気』という言葉の意味を説明する。これは、腹の底からのやる気のことを言うのだよ」

 そう言うと、空気がピリッとした。

「これは、呼吸を整えるとわかるようになると思う。『本気』の気は『気』のことを言ってね。エネルギーのことを指す。そのエネルギーを出すには、腹の下にある丹田で呼吸をすることが習慣になっていることが鍵になる。何をするにも『本気』にならないと成果はでないからね。どう? 本気になってやっている?」

 遠藤先生は、僕の方を向いて聞いてきた。

「そうですね……。自分が本気になっていると言い切ることができないです」

 すると遠藤先生はニヤリと笑った。

「そうだろう。仕事をするにも、健康になるにも、自分の能力を発揮するためにも必要なのは『本気』になることだからね。腹の下からやる気をだすことを本気という。この状態にもっていくために呼吸が重要だからね。じゃあ、それを意識して呼吸の練習をしよう。じゃあ、仰向けになって。平野さん、電気を消してください」

 平野さんが電気を消す。部屋の中は真っ暗になった。僕は、仰向けになった。身体をリラックスさせる。

「じゃあ、自分の身体を頭のてっぺんから足の指先に向けて、意識を集中して、感じてください」

 身体全体の意識を向ける。すると、足の裏が温かくなってきた。気が送られているように感じた。

「畳の上に乗っている自分の身体を感じください。そして、自分の命を支えている呼吸を意識してください。じゃあ、お腹の呼吸です。今日は、本気でやるのだよ。自分という人間について考えながら。それでは、息を吐きながらお腹を後ろに引き寄せてください。吐いたら力を抜きます。自分の直感を信じてやるのだよ。普段感じていることや意識していることを研ぎ澄ましていくのです。それでは、自分のペースでやってください」

 僕は、鼻を使って息を吐き続けた。自分の感性が鋭くなっていくような感覚になってきた

「はい。次は、丹田の呼吸です。今日は特に丹田を意識してね。本気になってやるのだよ。自分のなかにあるものを吐きって下さい。それでは、自分のペースです。何度も繰り返して、本気でやってください」

 意識を丹田に下ろす。前に指導をしてもらったように集中する。本気になってやることを意識する。腹の底からやる気を出す。

「オッケー。じゃあ、次は起き上がってください。胡座を組んで座ってください」

 僕は、座布団の上に胡座をかいて座った。

「じゃあ、座ったまま呼吸をするよ。腹の底からやる気を出して呼吸をするのだよ。何度も思考を巡らせるのだよ。気持ちよく、腹の下からやる気を出しながらね。それでは、お腹を後ろに引き寄せてください。吐いたら力を抜く。それでは、自分のペースです」

 本気になってお腹を動かしながら息を吐く。吐き終わったら力を抜く。二十分行った。

「はい、オッケー。休んでいるときは、自然な呼吸です」

 しばらく、胡座をかいて座りながら、自然な呼吸に意識を向ける。

「次は、丹田の呼吸です。丹田に、意識を集中してください。わたしにやる気を見てせください。本気になってやるように。それでは、息吐きながら丹田を後ろに引き寄せて下さい。吐いたら力を抜く。では、自分のペースです」

 僕は、丹田に意識を向けて夢中になって息を吐き続けた。 

「じゃあ、これで、今日は終わりになります。ありがとうございました」

 受講生はお礼を言った。座布団を片付ける。徐々に生徒が出ていって、少なくなってきた。僕は、遠藤先生が話した内容がとても興味深かったので詳しく聞きたくなった。ホワイトボードの文字を消している遠藤先生のもとに行った。

「先生、今日の話はとても興味深かったです。本気になることの重要性を知りました。腹からやる気を出すということですね?」

 すると、遠藤先生はニヤリと笑った。

「毎回、大切な話をしているのだけどね。今日は、力を入れて話をしたよ。何か物事で成果を上げるためには『本気』にならないといけないからね。その意味を知ってくれればいいよ」

「わかりました」

「最近、調子が良さそうじゃないか。良かったな」

「はい。通って一年半くらい経つので。体の調子が違います。先生、聞きたいことがあるのですが……」

「なんだい?」

 僕は、息を整える。

「先生は、生まれ変わりや魂について話すときがありますが、これって本当なのですか?」

「そうだよ。科学的ではないけどね。人には、魂があって生まれ変わりを繰り返す。前世で、やり残したことをやり遂げるために生まれてきているのだからね」

「そうなのですね……。以前、僕が三島由起夫の生まれ変わりと言われる夢を見たとことを話したのは覚えていますか?」

「ああ、そういえば、そんなこと言っていたね」

「だから、僕は小説を書き始めました。書くことでなにかを知ることができるような気がしています」

「それは、それでいいと思うよ」

「今日の話は、とても参考になりました。『本気』にならないといけないとわかりました。腹の下からやる気を出すのですね?」

 遠藤先生は、一息入れた。

「そうだけどね。簡単に上手くいくものではないから。時間はかかると思った方が良いよ。人間には癖があるから。それまで生きてきたことに問題があるから、いろいろな問題が起こっている。それはね、思考の問題なんだよ」

「思考の問題?」

「そう。考え方が悪いと良くない方向に進む。そのことに気づかないと、ずっと悪い方向に進んでしまう。気づいたら手遅れってこともある。それをよくするには、自分の頭の中にある観念要素をポジティブなものにしないといけない」

「観念要素……。ですか?」

「物事は考え方で決まるから。悪いことを考えていると、悪いことばかり起こる。それは潜在意識の問題でもあってね。それを全て良くするには、観念要素をポジティブにしないといけない。それに気づくのに、呼吸が必要になってくる。これを覚えておくと良いと思う」

「わかりました」

「それと、魂と仲良くなるといいよ」

「魂と仲良くなる?」

「そう。魂は見えないからね。でも、体の奥底に眠っている。それと会話をして仲良くなる。そのためのキーワードとなるのは守護霊でね。魂は、霊のことをいうのだよ。この魂や宇宙の大きな存在と繋げる役割が、守護霊にある。その守護霊に頼むのだよ」

 僕は、思わず微笑んだ。

「守護霊? そんなものがあるですか? でもどうやって頼むのですか?」

「ただ、意識すれば良い。自分には守護霊がいて神様と繋がっているんだと。すると、何らかの形でメッセージを送ってくれるんだよ。聴いている音楽の歌詞とか読んでいる小説とか、美術館とかに行って絵画に触れて何か心の叫びが聞こえてきたり。芸術に触れたりするとわかる時がある。それに、ふとした瞬間に見た広告に自分に向けてのメッセージとして頭の中に残る時がある。それをしっかり覚えておくのだよ」

「なるほど。守護霊のことを知って意識するのですね」

「そう。前も話したと思うけど、生き残っている人は意識が違うのだよ。つまり、心だよね。心の状態が良いことが大切だから」

「わかりました」

「そして、心で呼吸できるようになると、もっと君は成長できると思うよ」

「心で呼吸をするのですか?」

「思考は、心の動きのことだからね。心が純粋で綺麗な状態で呼吸できれば、エネルギーが持続する。そうすると、意識しなくても自然と良くなる。最初のレッスンで伝えたと思うけど、そのために呼吸をして、心を綺麗に掃除するのだよ。そうすれば、上手くいくと思うよ」

「心で呼吸。心呼吸ですね?」

「心呼吸?」

「はい。心で呼吸すること、すなわち、心呼吸をすれば良いなって思いました」

 すると遠藤先生は苦笑した。

「そう考えるなら、それでいいよ。そうすれば、いつか自分のやりたいことに成果が出て、花が開くときが来るはずだよ」

「ありがとうございます」

 僕は、お礼を言って部屋を出た。公民館から駅前に歩きながら、話をしたことについて思い返した。心を綺麗にすることを意識することにした。

 区民センターから出て、歩道を歩いていた。この日は、春になったばかりだが、とても寒かった。麹町駅まで歩いている途中に雨が降ってきた。それは、みぞれが混じっていて雪になりそうだった。

 僕は、大学を卒業した年の春のことを思い出した。そのときも気温の変化が激しい日が多かった。暖かい日が続いたらと思ったら、寒い日になるような日々が続いていた。そして、その年の四月には、雪が降った。そのとき僕は「春の雪」だと思った。三島由起夫の「豊饒の海」の第一巻のタイトルの同じだった。そのとき、桜の花びらと雪が舞い落ちる景色を見て、僕は幻想的で時代を越えた思いを感じた。三島の思いが自分に語りかけているようだった。

 この日のみぞれは、雪になりそうに降っていた。僕は、傘をさして歩く。気温が低くて、ジャケットだけでは寒かった。あの頃と同じように気温の変化が激しい日々が続いている。

心で呼吸をすることが大切だと、遠藤先生は言っていた。心が綺麗で純粋な状態であるように呼吸を続ければ良いと教えてもらった。

呼吸法を学んでいくうちに、僕は心の存在について一つの答えを出すことができた。それは、心とは今まで自分が生きてきた人生の過程のなかにあるということだった。これまで僕は、カズさんの死や山田さんの退職を自分に起きた出来事のように関連づけたり、倉持さんが見た夢を自分が見た夢と重ね合わせたりした。そのような思考が自分をつくりあげている。これは、今まで見てきた自分の記憶といえる。

 つまり、心とは記憶のことで、僕がいままで経験したことの中にあるように思えた。僕が歩んできた道のすべてに心がある。だから、僕は心を綺麗にすることより良い自分になれると思えた。

 息を整えながら歩いて駅に向かう。手がかじかんで冷えてくる。みぞれは白い雪に変わった。雪は、しんしんと降り積もりながら、道を白く染め始めていた。降り積もる雪を見ていると大学を卒業した春のことを思い出した。それは記憶の中にある確実に存在していることだった。

 深く息を吐いた。すると、白い吐息が宙に舞って雪と重なった。それが街灯の光によって反射してキラキラと粒子が広がっていくようだった。ここの場所には、息をしている自分がいる。それは、自分が生きている証拠であった。呼吸は、人生をよくするための道具である。そのことを知って、気づきを与えてくれた。

 すると、風が吹いた。雪が降り積もるなか、道沿いにある桜の花びらが舞った。その瞬間、美しい空気が身体に入って、自分の心が透明で澄んだような感覚になった。

    

                         了(原稿用紙101枚)

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