山田さんとカズさん

 八月の終わり、僕がデスクで作業をしていると、山田さんから声がかかった。僕は奥にある休憩室の席に向かった。

「トシ君、試験の出来はどうだった?」

 座ったあと、山田さんが聞いてきた。

「そうですね。なんとも言えないです。結果を見てみないとわかりません」

 すると山田さんは息を吐きながら言った。

「まあそうだよね。俺も受験したけどね。今年も厳しそうだよ」

「そうなんですね」

 僕は苦笑いをする。

「それでね。ちょっと、せっかく七月から午後出社にしてもらったところ、悪いんだど、来週だけ午前中に出社してもらえるかな? ちょっとやってもらいたい作業があってね」

「いいですけど……。何をやるのですか?」

「いま、うちの会社は会計事務所だけど、税理士法人にすることがマネージャー会議で決まってね。いろいろ手続きがあって。そのときに顧客に送る挨拶状を洋子さんと確認してほしくて。その作業をお願い」

「わかりました」

 そのあと、僕は席に戻った。すると、後ろにいた洋子さんから声がかかった。

「山田さんから、話があったと思うけど、来週だけ一緒に作業をしたいことがあるからよろしく。それと、今日はこの資料のファイリングをお願いね。あと、製本と領収書張りもあるから。いつものようにやってね。じゃあ、私は帰るから」

 僕は、分かりましたと言って資料を受け取った。洋子さんは、足早に事務所から出て行った。そのあと、僕は資料の整理を始めた。ファイリングをしたあと、製本をする。税金の申告書を種類ごとにまとめる。そのあと、穴開けパンチで申告書に穴を開けてファイルに挟む。僕は、大きな穴開けパンチを使うために棚に向かった。百枚以上の用紙に穴をあける穴開けパンチが置いてある棚はデスクの一番横に置いてある。その一番横のデスクには谷岡さんが座っている。棚の上に穴開けパンチを置きながら、僕は申告書に穴を開けていた。

「最近は、元気?」

 申告書に穴を開けていると、谷岡さんが聞いてきた。

「そうですね。呼吸法もやっているので」

「そう。良かったね」

「谷岡さん、古武術は続けているのですか?」

「うん。やっているよ。トシ君の呼吸法の先生ってどんな人なの?」

「ホームページがあるので見てみると分かると思いますよ」

 僕は、作業を止めて遠藤先生のホームページを検索してもらった。

「この人?」

 ホームページには遠藤先生の写真と講座の内容が書いてある。

「そうです」

「笑顔がとてもいい人だね」

「呼吸法をする前に話をするのですが、その内容が独特なのです。見えない世界の話をしたりします。宇宙についてとか」

「そうなんだ」

「谷岡さん、そういうことどう思いますか?」

「私も古武術やっているからね。周りにそういうものがあるんじゃないかなって思っている人もいるよ」

「そうなんですね」

 僕は、棚の上に置いた穴開けパンチで申告書に穴を開けたあと、自分の席に戻った。谷岡さんは、僕より六歳以上年上だったが話しやすかった。いろいろと、僕に気を遣ってくれた。彼女とは古武術を習ったり、呼吸法を学んだりしているので話が合った。デスクの横で谷岡さんと話をするときは気分転換になった。


 法人化の手続きの挨拶状の確認をして、会社の法人化の手続きが終わった。そして、十月の中旬になった。僕は、いつものようにオフィスに入ると、デスクに座りメールを確認した。すると、社内メールで山田さんが年内で退職するというのが社長から送られていた。そのメールを見たとき、僕は驚いた。正社員だったとき山田さんからいろいろ教えてもらったことがあったし、社内でとても信頼されている人だった。一瞬、何かの間違いかと思ったが、メールの文面を読んで、その通りに解釈した。すると、僕はカズさんの訃報のメールを思い出した。それくらいの驚きがあった。

 そのメールを見ると同時に、僕は山田さんがなぜ退社することになったのか考えた。自分なりに考えてみると、カズさんの死が関係しているように思えた。社内でカズさんが亡くなったことを一番はじめに知ったのは山田さんだった。そのことが何らかの影響を与えているのではないか、と思った。だが、それは僕の憶測でしかない。カズさんは、この会社に入社する前から何らかの健康上の不具合があって、たまたま具合が悪くなったに過ぎない可能性だってある。

 そんなカズさんのことを、僕は他人事ではないように思っていた。それは、名字が同じだったという理由だけではなく、自分が健康上の不調を抱えた人間として、カズさんと似たような境遇にいるように思っていた。そして、少し立場が違ったら、カズさんのような立ち位置にいたかもしれないと感じていた。

もしかしたら、僕はカズさん対して同情をしているだけなのかもしれない。なぜなら、カズさんが亡くなったあと、その存在はなかったかのように会社は運営されている。それは、亡くなっただけでなく職場を辞めた人にも当てはまる。山田さんがやめたあとは、新しい人が入って同じように会社は運営される。そうやって会社はまわっていくのだろう。

山田さんのあとには、五十代男性の会計士の加納さんがマネージャーとして入社することになった。そして、倉持さんがマネージャーに昇格することが決まって、山田さんの座っていた席に座ることになった。


 十二月の中旬になった。税理士試験の結果が郵送で送られてきた。自宅のポストに入っていた。僕は、それを取って自分の部屋に入って試験結果の封筒を開けた。結果は、不合格だった。

 結果を見たとき、仕方ないと思った。手応えはなかったし、直前に少し勉強すれば、合格できるものではないとわかっていた。自分の出身大学で受験した試験はあっけなく終わった。僕は、自分の部屋の机に向かって、今後どうしようか考えた。パソコンのワードには、すこしずつ自分の私小説を書き始めていた。一度、小説を書くことに時間を割いてみようかと思っていた。 

 「呼吸の広場」での呼吸のレッスンは、ずっと受けていた。そのときの遠藤先生が話す内容は面白かった。宇宙についてや輪廻転生について語ることがあった。それらは、小説を書く上で参考になることがあった。それに呼吸法を学ぶことによって体調が良くなっていた。なので、いつか呼吸法についても小説にしたいと思っていた。


 年が明けたあと、島岡さんから山田さんを含めて飲み会をすると言って誘いをうけた。職場の近くにある居酒屋で飲むことになった。

 島岡さんの他に、倉持さんと丸山さんが来るようだった。僕は駅前で待っていると山田さんがやってきた。

「トシ君、元気かい?」

 山田さんが声を掛けてきた。僕は笑いながら、そうですねと言った。すぐに岡島さんと丸山さんと倉持さんが改札を通ってきた。五人で居酒屋に向かった。

居酒屋に入り、座席に座りビールを飲み始めた。はじめのころは、たわいもなく話を進めていた。仕事のことについての話がほとんどだった。僕は、聞く方を徹していた。僕から何か言えることはなかったし、周りの人の会話に頷くことがほとんどだった。気づくと、二時間経っていた。丸山さんは帰ると言って、そのあと男四人で二次会に行くことになった。

 同じように居酒屋を探してお店に入った。お酒を飲んで酔いが回ってきたことに倉持さんが山田さんに声を掛けた。

「山田さん、僕が入社したとき、ここの会計事務所は日本で二番目に良い事務所だからって言ってくれたのに、なんでやめちゃったんですか?」

 倉持さんが酔った勢いで聞いた。

「会社の方針に合わないと思ってね。法人化するのが嫌でね」

「山田さん、戻ってきてくださいよ」

 島岡さんは嘆くように言っていた。僕は、三人のやり取りを見ているだけだった。自分から話しかけることは、ほとんどなかった。

「それに俺は、税理士資格をもっていないから。あと一科目必要だし。勉強をしようとも思っていたんだよ。倉持君は、資格もっているのだから。倉持君は、独立するものだと思っていたけどね」

「僕は、いろいろ試してみて、自分で立ち上げるようなタイプじゃないと思ったので」 

 倉持さんは言った。

「トシ君は試験を受けているの?」

 ふいに、山田さんが聞いてきた。

「そうですね。毎年受けています。ただ、体調をよくすることを優先したいので無理をしないようにやっています」

 僕は、呼吸を整えながら言った。

「ああ、それがいいよ」

 山田さんが、転職した事務所は、あまり待遇が良くないみたいだった。山田さんが言うには、座っている椅子が心地よくないようだった。前に座っていたマネージャー席の椅子の方が座りやすかったと言っていた。

 僕は、山田さんの話を聞いていると、転職するリスクというものを考えるようになった。環境が変わると、どうなるかわからない。なるべく今の会社で勤務を続けることが、自分の体調のためにもなると思った。


 山田さんが会社をやめたあと、繁忙期に入った。社員は仕事をこなしていた。僕は、洋子さんの作業の引き継ぎを午後にやってファイリングやデータ入力をする。定時に帰るように仕事を振ってもらっていた。

 三月になって、マネージャーがスタッフの業務の状況を確認するスタッフヒアリングを行うことがメールで知らされた。そして数日後、職場の会議室に呼ばれてヒアリングが行われた。僕は、加納さんと倉持さんと対面する形で座った。

「トシ君は、特に確認することはないよね。調子はどう?」

 倉持さんが聞いてきた。

「そうですね。体調は良くなっていると思います」

「ちょっと調子が良くなっているから、いま洋子さんの手伝いをしてもらっているけど、経理の仕事をしてもらいたいと思っているんだけどどう?」

 倉持さんの不意な質問に少し驚いた。僕は、このままファイリングや領収書の整理など簡単な作業をしていくつもりだった。経理の仕事ができることは、できる業務の範囲が増えることで喜ばしいことだった。

「そうですね。できるのであれば、やりたいです」

「じゃあ、伝えておくから。言われたとおりにデータ入力しておけば良いから」

 倉持さんが言った。

「わかりました」

 すると、加納さんが割って入ってきた。

「慌てないで作業してください。無理なことは要求しないので。はじめは領収書の入力とか簡単な作業をしてもらいますので」

 僕は、加納さんの言葉に頷いた。

「今年は、試験を受けるんだよね?」

 倉持さんが聞いてきた。

「それなんですが……」

 僕は、黙り込んだ。倉持さんは、口を開く。

「どうかした?」

「しばらくは税理士試験を受験するのをやめようと思っています」

「そうなの? 別にそのことは気にする必要はないよ」

「一応、試験を受けるのを前提に雇ってもらっている気がするので……」

 倉持さんは、少し間を開ける。

「別に、誰も気にしていないと思うよ」

「そうですか。今やりたいことができたのです。小説を書こうと思って」

 一瞬、空気がしんとした。倉持さんは加納さんは少し黙った。

「なに? 小説って。急にどうしたの? なんでまた?」

 倉持さんが聞いてきた。

「大学を卒業したあと、二十三歳のときに三島由起夫の生まれ変わりって言われる夢を見たのです」

 すると、加納さんと倉持さんは苦笑いした。

「なにそれ。おかしな夢だね」

「そうなんです。それで、小説を書き始めました」

「三島由起夫って、自殺しちゃった人だよね?」

 倉持さんは、苦笑しながら言う。

「そうですね」

 隣にいる加納さんは、黙りはじめた。

「それについては、何も言えないよ。自由にすれば良いと思う。でも、小説を書くって大変でしょ」

「まだ、書き始めたばかりなのでわからないです」

「僕は、そんなのやったことないから、想像ができないね。試験はやめるのね?」

「とりあえず、試験は休もうかなと思っています。またチャンスがあれば、いつかやりたいです」

「やる気はあるんだけどね。本来ならもっと力があって、仕事ができると思うんだけどね。まあ、無理しないようにやりなよ」

「わかりました」

 すると、倉持さんは一息入れた。

「僕も二十三歳くらいのときに、税理士になって活躍している夢を見てね。それが、税理士試験の勉強を始めたきっかけだった。その夢を見るまで、税理士のことは知らなかったんだけどね。夢を見たあと、こういうのがあるんだと思って、そのまま資格の予備校に行って講座を受けたんだよ」

 淡々と倉持さんは言った。

「それは、知らなかったです」

「まあ、トシ君の見た夢が何を意味するのかは、わからないけどね」

「そうですね……。僕もよく分かりません」

「とにかく上手くいけば良いね」

「そうですね。ありがとうございます」

 そう言ってスタッフヒアリングは終わった。席に戻ってファイリングの続きをした。職場の人に、小説を書いていることを言うのはずっと迷っていることだった。僕は、もともと税理士試験を受験するという理由があって職場に復帰したと思っていた。なので、試験勉強をやっていないことに僅かながら罪悪感があった。何も言わないで、書いていればいいことであるが、僕は自分自身が誰かに行動を起こしていることを宣言することによって、あとに引けない状況をつくりたかった。これで何も成し遂げられなかったら自分が恥ずかしくなる。自分に約束をするためでもあった。

 それに、倉持さんが税理士になったのは、夢で自分が税理士で活躍している姿を見たというのが理由だと言っていた。僕は、自分が三島由起夫の生まれ変わりと言われる夢を見たことと、どこか似ているように感じた。その夢を見たことが、僕は自分には小説を書く資格があるのではないか、と思う理由だった。なので、職場に同じような体験をした人がいることは、良い影響を与えてくれた。

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