生まれ変わり

 この日は、六月になってからはじめて呼吸法のレッスンだった。カルチャーセンターの教室に入って、マットの上に座った。この日は、いつも雰囲気が違うように思えた。四月に講座を更新して続けていたが、変化したことと言えば、前の期間のときと違う人が受講したくらいだった。レッスン内容は、ほとんど同じだった。遠藤先生が、ホワイトボードに呼吸をやる上での三原則を伝えてから、一緒に呼吸の練習をするというやり方である。

 時間になると、遠藤先生が入り口からやってきた。いつものようにホワイトボードの前に立った。

「それでは、よろしくお願いします。今日は、六月の一回目ですね。調子はどうですかね。前も言ったように、呼吸の三原則を覚えてくださいね。吐く、お腹で、気持ちよく、です」

 遠藤先生は、ホワイトボードに三原則を書いた。

「それと、前も言ったように、呼吸は気づきの道具だから。人間は成長するために気づかないといけない。それを知ってください。それと、今日は大切なことを言うね」

 遠藤先生はペンを持って、「魂」と書いた。

「呼吸をやる上で大切なことは、気づくことって伝えたけど、気づきは、魂のことを言うの。人には魂があって、生まれ変わりを繰り返す。これは宇宙の大原則です。その魂を磨くために生まれてきたのだからね。例外はない。これは、呼吸をやっていると気づくことになる」

 すると、教室がしんとなった。魂という言葉を遠藤先生のレッスンで始めて聞いた。

「これは前に話したことなんだけど。人にはミッションがあるの。自分が生まれてきた理由がひとそれぞれにはある。それを知ることが、魂の成長に繋がる。人のおおもとは魂だからね。これを知っておくといい。人それぞれには、魂が宿っているからね。前世の記憶が自分の意識しない領域に眠っている。それを潜在意識という」

 遠藤先生は、ホワイトボードに向かってペンを動かした。すると、夢という文字を書いた。

「潜在意識は、夢としてヒントがでてくるときがある。寝ているときは、潜在意識が活動しているからね。眠っているときに見る夢は、その人に何かのメッセージを与える。このことを知っておくと良いよ。じゃあ、今日もいつもと同じように呼吸をやるから。じゃあ、電気消して。みんなはマットの上に仰向けになって」

 職員の人が、電気を消す。僕は、仰向けになる。そのあと、お腹の呼吸をやった。これが二十分くらいで、そのあと、遠藤先生が丹田を意識してくださいと指示を出すので、丹田の呼吸を二十分やった。そのあと、胡座をかいて座ってお腹の呼吸を丹田の呼吸をやった。

 呼吸をやっているとき、いろいろなことが頭の中に浮かんできた。カズさんのことや職場のこと、休職していたときのことや、いままでの自分の人生について、今の職場で働いていること、学生時代の友人についてさまざまなことが思い浮かぶ。呼吸に意識を向けていた。毎回、呼吸のレッスンの時は前で座って息をしている遠藤先生からエネルギーが流れてくるよう感じる。僕は、自分のペースで呼吸を続ける。そして、呼吸をしながら、このレッスンが終わったあと、先生に質問をしようと思った。遠藤先生が言っていた魂や気づきについて興味があった。

「はい。じゃあ、今日のレッスンは終わりです。ありがとうござしました」

 遠藤先生が手を合わせながら一礼をした。職員の人が電気を付けて明るくなかった。受講生は、帰りの準備を始める。次々と人が出口に向かって少なくってきた。遠藤先生は、ホワイトボードの文字を消していた。周りに、人が少なくなったと思ったとき、僕は遠藤先生に声を掛けた。

「先生、今日の話は興味深かったです。人には、魂があって生まれ変わりがあるのですね?」

 遠藤先生は、僕をじっとみた。

「そうだよ。宇宙の真理だからね。それに本当の意味で、このことに気づける人は少ないよ」

「先生、ちょっと聞きたいことがあります。僕はある象徴的な夢を二十三歳のときに見たことがあるのです」

「そうなのか」

 遠藤先生は、一息入れて言った。

「はい。今日レッスンで話していた内容と繋がると思いました。先生が、夢は潜在意識と関係していると言っているのを聞いて、何かのメッセージのように思っているのです。それに、魂についての話と関連しています」

「どのような夢だったの?」

「ある作家の生まれ変わりだと夢の中で言われたのです。それの意味について知りたいです」

「誰の生まれ変わりと言われた?」

「三島由起夫です」

 すると、空気がしんとなった。僕の言った言葉が部屋全体に広まっているようだった。遠藤先生は、下を向いてふっと笑った。

「それは、君に愛が必要だってことだよ」

「愛……。ですか?」

「愛を知るのだよ」 

 そう言って、遠藤先生はニヤリとした。僕は、わかりましたと言って教室をあとにした。


 七月から週五日の午後出社になった。そのころ僕は、八月に税理士試験があったので勉強を始めた。税理士試験は、簿記検定を高度にしたような試験だった。計算問題と理論問題がある。テキストを開き電卓を叩いて計算をする。過去問と模試を受けて対策をしていた。

七月中旬になると、呼吸法の講座についてメールが届いた。遠藤先生の呼吸法の講座を続けるかどうかの確認だった。僕は、更新しないことにした。半年間、カルチャーセンターで呼吸法を学んで上手く体調が整ってきていた感覚があった。

 その代わり「呼吸の広場」という遠藤先生の生徒が有志で呼吸を受けるレッスンがあった。こちら方が授業料が安かったので、参加することにした。遠藤先生のホームページから見つけて知った。連絡先が記載されていたので、担当の平野さんという方と連絡を取り合った。毎月、麹町の区民センターで呼吸を教えているということだった。八月からは、「呼吸の広場」で授業を受けることにした。


 八月上旬になって、税理士試験があった。試験会場は池袋にある僕の出身大学だった。朝、カフェで過去問を確認したあと、大学に向かった。正門では受験番号に基づく会場の案内の用紙が配れていた。僕は、受験番号を確認して校舎に向かった。

 僕が受験する科目は「財務諸表論」という会計科目だった。十二時半から二時間の試験時間になる。教室に入って受験番号の張ってある席に座った。時間になると、試験監督が四名ほど入ってきて試験問題を配った。緊張感につつまれるなか僕は、時間になったあと試験問題を開いて解答をした。

 試験は、毎年受けていて自分の中ではイベントのようになっていた。電卓を叩きながら、仕分けを切って勘定科目に答えて、金額を記す作業を進めた。直前になって勉強をしていたので、問題を解けている感覚がしなかった。手応えがあまりなく、試験は終わった。

 試験が終わったあと、大学内を歩いていた。歩道には、緑の木々が生い茂っている。大学生がベンチに座って勉強している姿があった。自分の出身校を歩いていると、十年前の自分が大学生のときのことを思い出した。

 僕は大学四年のころ、就職活動が上手く進まなくて友人や知人と距離を置いている時期があった。そのころ、ほとんど知り合いとは会わなくなっていた。就職が決まっていない自分に対して悲観的になり、家に籠って過ごしてばかりいた。そんなか大学四年の夏に友人が、僕の自宅に様子を見に尋ねてくれた。そのときに僕は仲間の大切さを知った。自分がつらい境遇にあることを察して自宅に友人がいてくれたことが立ち直るきっけになった。そのあと、僕は大学院に進学することを目指すことになった。そんなとき、僕は自宅の本棚に三島由起夫の「豊饒の海」があるのに気づいた。そして、第一巻の「春の雪」から読み始めた。

 「春の雪」は、明治から大正初期にかけての話だった。貴族である清顕という青年と聡子という二人の恋愛が書かれていた。両思いだった関係は、物語が進むにつれ、擦れ違いが生じる。その後、二人は密会を続ける。聡子は清顕の子供を堕して出家する。最後のページで、二十歳の清顕が亡くなって物語は終わる。

 「豊饒の海」は輪廻転生をするのが主題となっている小説だった。一巻で亡くなった清顕の魂が、二巻、三巻と異なる人物として転生する。その様子を清顕の友人の本多が見守っていくという作品だった。そして、四巻に生まれ変わった人物が偽物であるとわかると、そのことを知った本多が、出家した聡子のもとに行く。そして、本多が聡子から清顕のことについて聞くと「何も覚えていませんな」と言われる。そして、本多は記憶もなければ何もないところにきたという形で物語は終わる。

 最後の一行を読み終えて、小説が終わると、僕は、死にたいと思った。無我夢中に読んでいたが、すべてが失われて、僕はとてつもなく虚しくなった。記憶もなければ、何もない場所にたどりついた最後が衝撃的だった。

 「豊饒の海」を読み終えたのは、大学四年の十一月だった。そのあと、僕は大学院試験を受けるが、不合格なる。卒業後の進路を相談するために、大学のカウンセリング室に行くと病院に診断をうけることを勧められて、その日以降、病院に通うことになった。

 なので、この大学は僕にとって今の自分に至るまで影響を与えた場所であった。仲間とで会った場所であり、この場所で経験したことがいまの自分をつくっている。そこの大学で試験を受けることができたのであるから、良い結果が出れば良いと思っていた。

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