死

 年が明けて一月になると、職場は繁忙期に入った。僕は、洋子さんの手伝いとしてファイリングや資料の整理をしていた。他の社員は、年末調整の業務や確定申告、法定調書の作成、源泉所得税の計算など、税務関係の仕事をしているようだった。

 一月の中旬に入ったある日、僕は、デスクに向かって領収書を日付順に並び替えていた。タクシー代や電車代などの旅費をまとめていた。すると、右隣でバンっという重々しい音が聞こえた。右横を見てみると、カズさんが横になって倒れていた。

「大丈夫ですか?」

 すぐそばにいた洋子さんが駆け寄った。

「大丈夫です。大丈夫です」

 カズさんがそう言いながら、立ち上がった。息が荒くなっていた。顔にかけている眼鏡がずれている。椅子は逆さまになっていた。僕は、声を掛けることができず立ち上がって様子を見ていた。すると、山田さんがマネージャー席の方からやってきた。

「カズさん、平気? すごい音だったよ」

 他の社員も作業を止めて、カズさんがいる方を見ている。カズさんの前に座っていた丸山さんも立ち上がって心配そうに見ている。

「すいません。ちょっと、頭がぼんやりしただけなので」

「無理しないで。ちょっと、今日は帰ったらどうですか?」

 山田さんは言う。

「いや、大丈夫です。いまやらないといけないことがあるので」

 カズさんがそう言うと、椅子を元に戻して席に座った。他の社員も通常通り業務に戻った。

 僕は、自分の作業に戻って、領収書をコピー用紙に貼り付けていた。右側を見てみると、カズさんが胸の辺りを押さえつけながら、パソコンの画面を見ていた。頭に少し生えている髪のくせ毛がつよくなっていた。倒れたこともあって、髪の毛がくるくるなっている。それに、息が整っていないで苦しそうだった。前に座っている丸山さんも心配そうにしている。

「カズさん、今日は帰って良いよ。給料計算のチェックは、私の方でしておくから」 

 丸山さんが声を掛けた。

「いやでも……」

「大丈夫だから。とにかく、今日は休んで」

 カズさんは、分かりましたと言って、ジャケットを着て、足早に帰宅をした。僕は、カズさんを見ていると息が整っていないように見えた。胸の辺りをおさえていたのは上手く呼吸ができていなかったのかもしれない。

 カズさんの様子を見ていたら、僕が正社員だったのときの社員旅行のことを思い出した。そのとき、僕は、同じ頃に入社した一回り年上の斎田さんとカズさんと同じ部屋に宿泊することになった。夜の食事が終わって、部屋に戻り、ベッドに横になって眠りにつこうとしたとき、とても大きな音でカズさんの寝息が聞こえた。それは、一定のリズムを保っており、ぐおーっというとてつもなく大きな音だった。地響きでも起きたようなくらいのいびきだった。一定の時間が経つと、そのいびきが聞こえないときがあった。そのあいだ、カズさんは息をしてないようにも思えた。睡眠時無呼吸症候群のようにも思えるような、呼吸だった。翌日、同じ部屋に、一緒に泊まっていた斎田さんは一睡もできなかったと言ってとても怒っていた。それくらいカズさんは息が整っていなかった。


 その後、職場では、二,三月となるにつれて慌ただしくなった。一度倒れたカズさんは落ち着きを取り戻したようだった。隣で様子を見ていると、いままでと同じように仕事を行っていた。

 カルチャーセンターの呼吸法のレッスン内容は同じことの繰り返しだった。仰向けになってお腹の呼吸と丹田の呼吸、胡座をかえて座ってお腹の呼吸と丹田の呼吸を遠藤先生と一緒に行った。呼吸法の授業は四ヶ月ごとだった。十二月に始まった授業は三月に終わる予定だった。三月中旬にレッスンを更新するかの確認の連絡が来たとき、僕は講座を継続することにした。


 四月になって社内の少し空気が和んできたころ、カズさんは、体調不良で休みを取ることが多くなった。出社しても早退する日があった。四月の下旬になるとカズさんは、二日連続の休みをいれた。そのあと週末に入った。

 その週の土曜日の午後、僕は電車に乗っていた。ふと、会社のメールが気になった。特別に仕事があるわけではなかった。ただ、その時、理由はわからないが自分のメールが送られてきたような気がした。

メールボックスを開くと一通の受信があった。それを開いたとき、僕は自分の目を疑った。社内の全体メールで、社長から佐藤和則さん訃報のお知らせというのが届いていた。そして、一瞬頭が真っ白になった。すると、頭の中で「カズさんが亡くなった」という言葉が浮かんだ。内容を見てみると、享年四十七歳とメールに書かれていた。予想もしてなかったことに驚いた。僕は、谷岡さんに連絡をいれて詳しいことを聞こうと考えたが、谷岡さんはこのことを知らないかもしれない。僕から伝える訳にもいかないので、誰にも連絡を入れないで月曜日を迎えることにした。

 月曜日の朝、いつもと同じように席に座った。社内は、どんよりとした雰囲気のように感じた。席に着いた人は、メールをチェックしている。

「ええっ」

 という洋子さんの声が後ろの方から聞こえた。メールを見て驚いているようだった。周りの社員は、黙っていた。社内ではカズさんのことを話す人は誰もいない。僕はいつものように、資料の整理をした。

 その日、マネージャー会議が行われていた。会議室を使って、社長が中心となって話をしているようだった。わずか、二十名に満たない会社で社員が急に亡くなるという緊急事態だった。社長は、四十二歳の会計士である。起きた事態について話し合っているようだった。

 その数週間後に谷岡さんとお昼ご飯を取った。そのとき、カズさんのことを聞いた。土曜日の朝に、家族が起こそうとしたら、カズさんがぐったりとした様子で見つかったとうことだった。死因は、脳出血のようだった。遺族の人がカズさんの携帯の履歴を見たときにマネージャーの山田さんの着信が残っていたので、家族から山田さんに伝わって社長が知ったようだった。

 

 六月になって、繁忙期が過ぎて社内が落ち着きを取り戻してきたころ、僕はいつものようにデスクに向かって領収書を整理していた。すると、山田さんが声をかけてきた。

「ちょっと、トシ君いいかい? 奥のスペースで話をしよう」

 僕は、山田さんについて行った。

「今、週三回午前中に、洋子さんと一緒に仕事をしてもらっているけど、午後出社にしてもらえるかな? 洋子さんは午前中勤務だから、仕事を引き継いでもらってやるっていう感じにしたいと思ってね。事務的なことは、ほとんどアシスタント職のひとにやってもらおうという方針にするから。電話対応も含めてね」

「わかりました」

「それに、体調が良くなっているようだから、七月から週五日にしたいとだけどできるかな?」

 僕は、少し考えた。

「そうですね。復帰して一年経っているので。大丈夫だと思います」

「じゃあお願いね。それに、正社員の人を新しく雇うことになってね。だから、ちょっと席を移動してもらいたいんだよ。カズさんの座っていた席に座ることできる?」

 一瞬、僕は息をのんだ。

「大丈夫ですけど……」

「じゃあ、お願い。それとカズさんの使っていたパソコンじゃなくて、新しいのを設置しほしくてね。それを使ってもらえる? パソコンの設置については倉持君に聞いて」

「わりました」

「トシ君、税理士試験は受けるんだよね?」

「はい。去年は駄目でしたが今年も受けようと思います」

「俺も毎年、試験を受けているんだけどね。あと一科目で全部合格できるんだけどね。それが十年くらい続いているよ。仕事が忙しくて、勉強できなくてね」

「そうなんですね」

 僕は、苦笑した。

「まあ、無理しないでやってよ」

 僕は、わかりましたと言って席に戻った。倉持さんは、僕の座っているデスクの一番左側に座っていた。会社のシステム管理やPCについての管理をしており、税理士の資格をもっている。年齢は、三十代の後半になる。

「倉持さん、パソコンについて聞きたいのですが……」

 僕は、席に近づいて尋ねた。

「話は聞いているよ。奥の棚に使っていないパソコンのデスクトップのがあるから持ってきて。画面もある。設置するコードとかあるから。カズさんの使っていたパソコンは、同じ奥の棚に置いておけばいいから」

「わかりました」

 デスクトップや画面を持ってきて机の上から下にコードを繋いで電源に差し込んだ。十五分くらい掛かってパソコンの起動をできるようにした。僕は、倉持さんにできたことを告げた。

「じゃあ、これでいいから。しばらくその席で座っていて。もといた席は島岡君が座るから」

「わかりました」

「洋子さんが、真後ろにいるからね。話しかけやすいと思う。じゃあよろしく」

 僕は、席に座って依頼されていたファイリングをしていた。すると、僕の左側の席に、島岡さんがPCを準備しにきた。

「トシ君、近くなるね。まあ、席が近くてもあまり関係ないけどね」

 島岡さんが笑いながら言った。僕は、そうですねと頷いた。島岡さんは、僕が休職するときに、僕の仕事のあとを引き継いだ社員だった。そのとき僕は、体調が良くなくて、まともに仕事の内容を伝えることができなかったが、マネジャーや他の社員が伝えて仕事をこなしたようだった。僕より、年齢は四つ上でこの会社に入社する前に経理の経験がある人だった。島岡さんは、パソコンの設置を終わらせたあと、僕の座っていた席で仕事を始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る