レッスン
次の出社の日、僕は谷岡さんと会社の近くにあるカレー屋さんに行くことになった。会社の近くにある大きな通りの一角にあった。
「こんなところに、お店があるは知らなかったです」
お店に入ったとき、僕は言った。
「マンションの一階だからね。お店がやっていると思わないよね」
谷岡さんは笑いながら言った。
「トシ君、最近はどう?」
「そうですね。洋子さんの仕事をサポートしています」
「調子が上がっているようだね。よかったね」
しばらく雑談していると注目したナンとチキンカレーが置かれた。ナンにカレーをつけながら話をする。
「谷岡さん、週四日の勤務みたいですが、他に仕事したりしているのですか? 洋子さんから」
「そういえば、言ってなかったよね。整体師の資格を持っていてね。そっちでも仕事をしているの」
「そうなんですね。なんで、整体を習ったのですか?」
「私も、もともとフルタイムだったんだけどね。離婚とか個人的なことでいろいろあって、体を壊してね。それで親戚の人で、整体をやっている人を聞いてね。それを知ってから、習い始めたの」
「そうだったのですね。そういえば、谷岡さんが社内で呼ぶ名前とお客さんに対応するときに名前が違うのは、名字が変わったからだったんですね」
「そう。お客さんには面倒だから名字は変わったことは言わないでいるの。だからメールの名前は、旧姓のままなのよね。めんどくさいと思うけど」
谷岡さんは笑いながら言った。
「大丈夫ですよ」
僕は、ナンを食べながら言った。
「名前と言ったら、うちの事務所は、佐藤が三人いるよね。カズさんとトシ君と洋子さんで」
「十五名くらいの会社で三人同じ名字はおかしいですよね。でも、佐藤は日本一、多い苗字なので。仕方ないですよね」
僕は苦笑しながら言う。
「でも、カズさんがいるから、トシ君って呼ばれているんだよね」
「僕は、呼び名は何でもいいのですけどね。でも、小さいときや学生時代の友人には、トシって呼ばれています」
「そうだったんだ。それじゃあ、この呼び名でよかったじゃん」
「そうですね。それにしても、カズさんって変わっている人ですよね」
僕は、谷岡さんの顔を見て聞いた。
「たまに、中年男性の独特の変な匂いするよね」
谷岡さんは笑いながら言った。
「谷岡さんと年齢と同じくらいですか?」
「私より、二歳くらい上だと思うよ」
「カズさんは、独特な感じですが、四十歳で社労士試験にちゃんと受かったのは偉いと思います。僕は、しっかりと働けていないから」
僕は、笑いながら言った。ナンにカレーをつけて一口食べる。
「そんな気にしなくて良いともうよ。周りも配慮してくれると思うから。トシ君は、税理士試験を受けるんでしょ?」
「そうですね……。でも、最近、他にやりたいことができてきて。ちょっと、挑戦したいなと思うことがあるのです」
「そうなんだ。なんだろう。気になるな」
谷岡さんは僕の方を見ながら言った。
「いま、少しずつ始めているところです。でも、今年の税理士試験は受けようと思っています。仕事に復帰するとき、税理士の勉強を続けるって社長に伝えているので」
「自分のペースでやっていけば良いと思うよ」
「そうですね。話は戻るのですが、谷岡さんは整体をやっているって言っていましたよね」
「やっているよ」
「僕は、呼吸法を習い始めたのですよ。カルチャーセンターの講座を受け始めたのです」
僕は、ナンをカレーに付けながら言った。
「そうだったんだ。私は、趣味で古武術とかもやっているの。そのときに呼吸法の練習をしたりするよ。そこの先生は、やってみてどう?」
「まだ習い始めたばかりですが、先生が面白い人です。七十歳くらいのお爺さんなのですが、シュッとしていて若々しい人です。僕は、呼吸法を習い始めてから、体調が良くなっているような気がします」
「それは、よかったね」
谷岡さんにお礼を言ったあと、残りのカレーを食べた。お店を出て谷岡さんにお疲れ様でしたと声を掛けたあと、僕は駅に向かった。
この日、呼吸法の二回目のレッスンがあった。仕事が終わったあと、青山にあるカルチャーセンターに行き教室に入った。青いマット上にジャケット置いて座って待っていた。時間になると、職員の人と遠藤先生が一緒に来た。遠藤先生が前に立って一礼した。ホワイトボードの前に立ってペンを持った。
「今日は、二回目のレッスンです。調子はどう?」
遠藤先生は、すぐ目の前に座っている女性に指を指して聞いた。すると女性は、「呼吸が整っているような気がします」と答えた。遠藤先生は、一息入れた。
「呼吸といっても奥が深いからね。簡単にマスターできるようになるものではないから。呼吸は、人間が行うことで一番大切なことにだからね。ご飯は、三日くらい食べなくてもなんとかなるかもしれない。でも、呼吸は三分もしないのであれば命が危なくなるものだよね。それくらい重要なことだからね。上手くできるようになるには、ある程度時間がかかるものだから。そのことを、知っておくように」
すると、遠藤先生はペンを持って、ホワイトボードに「呼吸」と書いた。
「呼吸は吐くことから始まるからね。『呼』には吐くって言う意味があって『吸』は吸うだよね。これは前回、伝えたことだと思う。そして、呼吸を上手くできるようになることは、自分を知るきっかけになる」
すると、教室がしんとなった。濁りのない澄んだ空気が部屋中に広がっているようだった。遠藤先生は、ペンを持って「1、自分を知る」と書いた。
「今から、呼吸を学ぶことによって手に入れられることを教えるね。まずはこれ、呼吸を学ぶことによって『自分を知る』ことができるようになる」
遠藤先生は、続けて言葉を書く。「2,何のためにこの世に生まれてきたのかを知る」「3、自分のミッションを知る」と三つの文章を箇条書きにした。遠藤先生は、口を開いた。
「呼吸を整えることによって、自分を知る。そして、何のためにこの世に生まれてきたのかを知る。最後は、自分のミッションを知る。この三つを知ることができるようになる。でも、分かる人は、なかなかいないよ。自分を知ることのできる人だって少ないから。三番まで知ることのできる人はほとんどいない。でも、こういうことがあるんだっていうのを知るのは良いことだから。呼吸は、こういうことを気づくための道具になる」
遠藤先生が前に立って話していると、空気が変わる。言葉に重みがあった。
「気づきって大切な言葉でね。いろいろなことに対して人間の成長に繋がるからね。そのための道具として、呼吸は大切な要素になる。こういうことを知った上で、今日は呼吸の練習をしていきましょう。じゃあ、仰向けになってください」
そのあと、職員の人が電気を消した。前回と同じように、遠藤先生が言葉で誘導したあと、自分のペースで呼吸をした。仰向けになってお腹で呼吸をしたあと丹田の呼吸をする。そのあと、胡座をあいて座りながらお腹で呼吸をするのと丹田の呼吸を行った。
呼吸をしながら、遠藤先生がいる方向からエネルギーが流れてくるようだった。びりびりと見えない力が流れてきて、自分の体を覆っているようだった。先生からのエネルギーは感じるが、僕は自分が呼吸を上手くできているかわからなかった。レッスンを受けながら終わったあとに、話しかけようと思った。
レッスンが終わったあと、遠藤先生がホワイトボードの文字を消しているときに、僕は遠藤先生のもとに行った。
「先生、上手く呼吸ができているのかわからないのですが」
僕が尋ねると、遠藤先生は表情が真剣になった。
「具体的に教えてほしいのかな?」
「そうですね……。自分のやっていることが合っているかどうかわからないのです。まだ始めたばかりだからだと思いますが」
「呼吸をやる上で、ポイントがあるんだよ。始めに寝ながらお腹に意識を向けて呼吸するでしょ。背中がマットにくっついていると意識して、呼吸をすることが大切でね。身体全体で、呼吸をする。そのあとに、座って呼吸をするのだけど、その過程が重要なんだよ。寝ているときは皆できるだけど、座っているとできない人が多い、寝ているとリラックスするからね。自然とお腹や丹田の呼吸ができるようになる。だから、寝ているときと同じように座っているときに息を吐く。これがポイントだよ」
「寝ているときと同じように呼吸をするのですか?」
「そう。それと、肛門を意識するといいよ。そこに、力をいれていると、丹田に意識が向くから」
「肛門ですか」
「丹田と繋がっているからね」
「でも、よくわかりません」
「自分でやるしかないよ。呼吸は自分のペースが重要だからね。人それぞれ違う。君には、君の呼吸の仕方があるから。それを見つけるしかないよ」
「そうなんですね」
「大丈夫だよ。君は素直だし。進めていくとできるようになるから」
「わかりました。話は変わるのですが、先生はいつから呼吸を教えはじめたのですか?」
遠藤先生は、苦笑いをした。
「呼吸をやる前まで、僕は大企業に勤めていたんだよ。でも、早期退職していろいろ事が運んでいって呼吸をやることになった。はじめから、呼吸をやろうと思っていたわけではなくてね。社員の健康とか、人事とかそういうことをやっていたら、呼吸にたどりついた」
「僕は、先生の本を読んで、呼吸が大切だなと思いました。それに先生の言っていることは、説得力があるような気がします」
僕は、先生の顔を見ながら真剣に答えた。
「そこまで言うなら、君に伝えてあげるよ。僕は、今までいろいろな人を見てきて、生き残っている人はどういう人か考えたのだよ。やっぱりみんな、意識が違う。しっかりものごとを考えている。それができるようになればいいよ」
「そのためにも呼吸が大切なんですよね?」
「呼吸をすることは、人間が一番、必要することだからね。息ができないと人間は死ぬからね。何かを食べるにしたって、二日くらい食べなくても、水があれば生きていけるからね。息できなくなったら、五分と持たないと思うよ。」
「でも、そのやり方が、なかなかわかりません」
「でも君は、いい笑顔をしているし、魅力的に見えるよ。そのままで、良いともうよ。普段は、何をしているの?」
「会計事務所に勤務しています。いまはパートで働いています」
僕は、一息ついた。
「呼吸法を学びに来る人は、何らか体に不調があったり、問題がある人がいるからね。君も、そのように見えるよ」
遠藤先生は、淡々と言った。
「そうなんですね……。先生、授業の内容はずっと同じなのですか? 仰向けになってする呼吸と胡座をかいて座ってする呼吸をする練習をするのですか?」
「そうだよ。ほとんど同じだよ。でも、いつも前に立ってする話は少し違うよ。今日、話したことは特別な話だったよ」
「自分のミッションを知るってことですか?」
「これには大切だからね。覚えていて。人にはミッションがある。君にも、わかるときが来ると思うよ。それと、大事なことは丹田を意識することなんだよ」
「丹田を意識……ですか?」
「常に丹田に意識を下ろす。頭で考えてはいけないのだよ。物事を頭で考えると失敗することが多い。意識を下に持っていて丹田で考えることが上手くいくコツでね。頭のなかは空っぽにする。君は頭で考えていることが多いのではないかな?」
僕は、息を整える。いままでのことを振り返ると、いろいろなことを頭で考えて思考が支配されているようなことがあった。会社を休職したときも、考えすぎで体調が悪くなったような気がする。
「そうですね……。頭で考えてばかりのような気がします」
「常に、丹田を意識することが大切だからね。歩いているときも、職場にいるときも、休んでいるときも。それができると変わってくるよ」
「わかりました。実践してみます」
僕は、お礼を言って教室を出た。エレーベーターに乗って地下一階に向かう。駅に繋がる通路を歩きながら、呼吸を意識した。歩きながら、丹田にエネルギーが集まっているように感じた。
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