出会いに至るまで

 これが、遠藤先生との出会いだった。そのとき僕は、三十歳だった。呼吸を学び始めたのは、理由があった。体の調子を整えるという目的のためだった。

 自宅に戻って、僕はベッドの上で胡座をかいて座って呼吸の練習をした。吐くのに意識を向けて鼻で呼吸をする。ただ、鼻で吐くことだけに集中をした。レッスンで習ったことを再現しているつもりだったが上手くできているのかどうかわからなかった。

 カルチャーセンターのレッスンでは、一時間半くらい呼吸をしたが、自宅だと十五分も続かなかった。長い時間やったなと思って時計を見ると、五分程度だった。遠藤先生がいることで呼吸を長い時間できるのかもしれない。

 レッスンが終わったときは、効果があるように感じていたが、自宅に帰ってくると、いつもの自分に戻ったように思えた。遠藤先生の説明にあったように、心をなるべく透明な水のような状態にすることが、僕の身体を良くすると想像する。すると、呼吸が少し整ってきた。僕は、遠藤先生の言っていることを反芻して心に留めておいた。だが、一人でやっていても呼吸のやり方が正しいのかわからなかった。

 ベッドの上で呼吸を整えたあと、僕は本棚にむかった。遠藤先生の「呼吸法の本」という本を取って机に座って読み始めた。この本を知ったのは、僕が会社を休職しているときだった。

 会社を休職したのは、一年前のことだった。それは、就職して一年経ったばかりに起きた出来事だった。僕の勤めている会計事務所は、年末辺りから年が明けて三月の確定申告の時期にかけて忙しくなる。そのときの僕は、仕事を始めたばかりで、わからないことが多かった。仕事内容を先輩社員に聞こうとしたが、忙しくしている人を見ると、上手く聞くことができなかった。徐々に仕事が多くなり、期限までに仕事が終わらず、職場で混乱した。

 僕には、もともとメンタルに不調があった。大学を卒業したあと二十二歳のときからメンタルクリニックに通っていた。そういう経緯があったので、通っている病院から診断書を提出してもらって、二月の終わりから三ヶ月間の休職を取ることになった。

 そのときに、僕はいろいろな本を読んだ。精神科の先生が書いている本やエッセイなど読んで自分の心を落ち着かせていた。そんなときに、僕はブックオフで遠藤先生の本を見つけた。その本を読んで、はっとした。僕は、そこに書いていることをもとに自分の考えていることを整理した。それによって、人生に対する考え方が変化した。それくらい僕にとって大切な本だった。


 会社に復帰した日のことは、今でも覚えている。休職しているときに会社から今後どうしたいという連絡が来た。僕は、アルバイトとして職場に戻ると伝えた。五月のゴールでウィークが明けてから仕事をはじめた。

 復帰した初日、会社の人たちに、僕はよろしくお願いしますと声をかけたそのあと、マネジャーの山田さんの席に向かった。山田さんは従業員の管理をしている人でもあった。年齢は、四十代後半にあたる。

「トシ君、ちょっと奥のスペースに行こう」

 僕が向かったら、山田さんが声をかけた。オフィスの中にある休憩スペースに向かう。山田さんと対面する形で席に座った。

「今日から復帰なんだけど、仕事は、洋子さんのお手伝いして。あと、席はカズさんの隣になるから」

「わかりました」

「週三日で午前中の勤務で良いんだよね?」

「はい。病院の先生から、無理しないでくださいと言われているので」

「わかった。じゃあ、仕事については洋子さんに、指示はしてあるから。何をするかは聞いて」

「わかりました」

「それと、今年の税理士試験は受験するんだよね?」

 山田さんが聞いてきた。

「自分のできる範囲でやろうと思っています」

「わかった。いまから、洋子さん呼んでくるから。じゃあ、俺からは以上です」

 山田さんは席に戻った。すぐに洋子さんがやってきて目の前に座った。

「トシさん、はじめに決算書の製本をやってもらいたいと思っているから。やり方を書いてある用紙を渡すね」

 A四用紙に手書きで説明が書いてあった。

「ありがとうございます。この通りに、整理すれば良いですか?」

「お客さんに渡す物だから、綺麗にやってね。慌てなくて良いから」

 用紙には、税金の種類が書いてあった。法人税と地方税と消費税、決算書といった順番に仕切りをいれて、A四サイズの紙ファイルにまとめる。申告が終わった顧客に渡す資料だった。洋子さんは、主婦をしながらパートとして勤務をしている人である。アシスタントとして、資料のファイリングや決算書の製本をしていた。

「わかりました。税金のラベルってどう作ればいいですかね?」

「テプラを使って作るから。これに文字を入力して、印刷すれば出てくから。それを張ってね」

 洋子さんは、テプラを見せた。キーボードの機能がついており税金の区分と会社名を入力してラベルを作る。やり方を見せてもらった。

「パソコンと同じ要領ですね?」

 僕は聞く。

「そう。でも、漢字の変換が上手くいかないときがあるから、そんなときは何回も変換のボタンを押してね」

「わかりました」

「今日は、製本をすることから始めてください。二社あるから。じゃあ、席に行っていいから。慌てなくて良いからね。席は、カズさんの隣らしいよ」

「はい。山田さんから聞いています。洋子さんの席からも近いですよね。わからないことがあったら確認します」

「お願いね」

 僕は、テプラと資料を持って席に向かった。オフィスには、四名座れる長いデスクが向かい合って置いてある。中央には仕切りが設置されていて、前の人の顔は見えない。一つの島には八名座ることになる。その島が二つあるので、座席は一六名分ある。すべての席が埋まっているわけでなく、空席は五席ほどあった。

 カズさんは、オフィスの入り口から見て一番端の席だった。僕は、その左隣に席に座ることになった。カズさんの後ろには、洋子さんが背を向けて座っている。仕事について頼むとき、僕は右後ろを振り向いて洋子さんに要件を聞くことになった。僕は、席に座った。右隣には、カズさんが席に座ってパソコンを見ながら作業をしていた。

 僕が製本をしていると、ときどき右隣で作業しているカズさんの視線を感じた。カズさんは眼鏡を掛けている。顔が動くと、レンズが反射しているようだった。僕は、気にしないで、作業を進めた。

 ながいあいだ、休んでいたので職場に来て仕事をする感覚がなくなっていた。作業に時間がかかった。頭は、ぼっとしている。テプラを作って紙ファイルに張ることにも時間がかかった。少しずつ、資料をまとめていった。洋子さんから、慌てなくて良いと言われていたが、早くやらなければと焦ってしまう。無意識にプレッシャーを感じた。テプラで会社名を入力することでさえ、時間が掛かった。それに、顧客の会社名をつくったテプラを真っ直ぐ綺麗に張ることができなかった。一度付けたテプラを取って張り直したりした。時間をかけて製本を終わらせて洋子さんに渡した。

「ありがとう。じゃあ次、この会社の請求書まとめくれる? 会社ごとにしてくれるだけでいいから」

 僕は、わかりました、と言って席に戻り請求書をまとめる。会社の名簿を見ながら請求書を確認する。二度くらい見て確認した。そうやって、時間はかかりながら復帰した初日の仕事は終わった。


 その後、職場では洋子さんから仕事をもらって、僕は事務処理をすることになった。それからおよそ八ヶ月の時間が経っている。

 僕は、二十八歳でこの会社に就職するまでは、税理士試験の勉強をしていた。税理士試験を始めたのは、大学を卒業したあとだった。病院に通うになったあと、治療をしながら社会復帰を目指しているときに、資格をとろうと思ったのがきっかけだった。簿記検定から勉強を始めて、そのあとに税理士を目指すことにした。

 税理士試験は科目合格制だった。会計科目の二科目と税法科目の三科目を合格すると税理士になる資格が与えられて、二年間の実務経験があると税理士として登録ができる。僕は、二十八歳のときに始めて会計科目の一科目に合格して、この会社に就職をした。

 洋子さんは、僕が就職したときからこの会社にいた。名前を佐藤洋子といって、僕と名字が同じだった。カズさんも佐藤だったので、社内には佐藤が三人いた。同じ名字が三人いたので、社内では親しみを込めて、僕は敏広(としひろ)という名前からトシ君とかトシさんと呼ばれるようになった。カズさんは、和則(かずのり)のカズを取って呼ばれるようになった。洋子さんは、僕が入社する前から名前で呼ばれていた。洋子さんは、僕より十二歳以上離れていて、子供が二人いるようだった。

 カズさんは、四十歳のときに社労士の資格を取ったあとに、この会社に入社した。身体はすこしぽっちゃりしていた。眼鏡をかけており、言葉遣いは独特で、頭は少し禿げていた。生えている髪の毛は天然パーマでくるくる舞いている。ときどき中年の独特の匂いが感じることがあって、社内でも変わり者の扱いされていた。

 カズさんは、社労士の資格を持っていたが、丸山さんが給与チームの中心で仕事を進めていた。勤めている会社は、会計事務所であるが経理だけでなく顧客の給料計算を行っている。給与計算をしている顧客については、彼女がチェックをしている。

「カズさん、給与計算終わった?」

 丸山さんが、忙しいときは カズさんにきつめに聞くときがあった。丸山さんは、カズさんの席の目の前だったので、立ち上がって仕切りの上から顔を覗き込む。

「丸山さん、もうすぐで終わります。少々お待ちを」

 丸山さんの声に、ときどきカズさんはおどおどする。カズさんは息を荒くしてパソコンの画面を見ていた。仕事がたくさんあるんだなと思いながら、僕は隣で自分のペースでファイリングの作業をする。

 丸山さんは、この会社の総務の仕事にも携わっていた。その仕事の手伝いを洋子がしていた。顧客に対する請求書の発行をする作業や、顧客の給与計算が終わった給与明細の整理をする。なので、丸山さんから洋子さんに指示がいって、そこから僕に仕事がくるとがあった。

「洋子さん、給料計算が終わったから、いつものように、給与明細書の整理をお願い。名簿を確認しながら封に閉じてね」

 丸山さんが、洋子さんに言葉をかけると、僕はファイリングをしながら次は、給与明細書の確認をするのだなと思う。すると、洋子さんから僕に声がかかった。

「トシさん、給与の人数と名前が合っているか確認したいから、奥のスペースでやりましょう」 

 はきはきした声だった。僕は、わかりましたと言っておくにあるオフィスの奥にある机の席に座る。給与明細書の名前が合っているか確認する。洋子さんが名前を読み上げていくのを、名簿の名前と人数が合っていることを確認したあと、給与明細書を封筒にいれて閉じる。 

「トシさん、最近調子が良いように見えるよ」

 洋子さんが封をしながら話しかけてきた。

「徐々に、体調が良くなってきていると思います。休職してから、もうすぐ一年経つので」

「よかったね」

「最近、呼吸法を学び始めたんです」

 洋子さんの頭の上に、はてなマークが浮かんでいるように見えた。

「呼吸法って何をやるの?」

「瞑想とかヨガみたいなものです。健康のために始めました」

「それで、体調が良くなっているみたいだね」

 僕は、封筒に給料明細を入れる作業を続ける。

「そうだと思います」

「整体とか、そういうことをやっているの?」

「ちょっと違いますが、呼吸をする練習です」

 僕は、真剣に答えた。

「なんだか面白いことをしているね」

「そうですかね」

 僕は苦笑いをする。

「そういえば、谷岡さんは整体師の先生をしているらしいよ。そういうことは、詳しいと思うから聞いてみたら」

 洋子さんがにこやかに言った。

「それは、知らなかったです。時間があるとき聞いてみます」

「レッスンは、どこまで行っているの?」

「青山まで行っています」

「まあ、おしゃれなところに行っているのね」

 洋子さんは封をしながら微笑んだ。僕は、すべての給料明細を封筒に入れた。名前をひとりひとり確認したあと、洋子さんが丸山さんに終わったことを告げて郵送する準備をした。 

 デスクに戻ってパソコンをチェックすると、谷岡さんから会社のチャットで連絡がきていた。今度、お昼休みに昼食でも食べようかと誘いだった。僕は、ありがとうございますと返事をしてご飯を食べに行くことになった。

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