心呼吸
@st0613
はじまりの呼吸
仕事が終わったあと、僕は電車に乗ってある場所に向かっていた。地下鉄の青山一丁目駅で降りてから改札を出る。地下道を歩くと道沿いには、港区周辺にオフィスがある企業広告が設置されていた。証券会社や不動産会社があった。駅前には仕事帰りのサラリーマンや女性が行き交っている。ほとんどの人がコートを着て暖かい格好をしていた。僕は歩きながら、東京の最高気温は七度と朝の天気予報で放送していたのを思い出した。
目的の場所を確認するために、立ち止まってスマホでホームページを見る。南改札を出たあと、地下からそのまま建物に直結するようだった。周囲を見渡してもわからなかった。道沿いを歩いていると、カルチャーセンターの方向を示す看板があった。矢印の方向に進めば建物につくようだ。そのまま道沿いに歩くと、奥の方にエレベーターがあった。上矢印のボタンを押す。受付の四階に向かった。
綺麗で広い受付だった。十数名くらいの人がいた。仕事終わりでスーツを着ている男性やOL、定年退職をした年上の男性や女性、生涯学習のために学びきている人がいた。僕は、窓口で講座の確認をした。事前にネットで申し込みをしていたが、講座の説明を受ける必要があった。女性が対応した。受講カードをもらう。話を聞いたあと、五階の教室に向かった。
五階には、教室が五つあった。さまざま講座が行われている。廊下にはポスターが貼ってある。宇宙についての講座や、文学についての講座、有名な物理学者の特別講演がある。
教室に入った。靴を脱ぎ、下駄箱に靴を置く。部屋に入ると、青いマットが一面に敷き詰められていた。とても広い部屋だった。三十名ほどの受講生が座っていた。後ろは鏡が一面に張られている。ホワイトボードが前に置いてあった。もう少しで講座が始まる時間だった。
僕は、中央のマットの上に座った。コートを脱ぎ、マフラーを外した。鞄をすぐそばに置く。周りを見渡しながら、開始時間になるまで待った。空気が張り詰めているようだった。
五分後、カルチャーセンターの職員がやってきた。前の方に出て、講座の説明を始めた。空気が和み、緊張状態がなくなった。職員の人が、先生を紹介した。七十歳過ぎの短髪で白髪交じりの男性が横から出てた。背筋がピンと伸びている。
「こんにちは。遠藤です。講座を受けてくださりありがとうございます。はじめて来ている人もいると思うので、今日は講座の内容を話したいと思います。しっかり聞いてください」
すると、ホワイトボートの前に立った。
「呼吸には三原則があります。いまから、それを書きます」
遠藤先生はペンを持った。ホワイトボードの左斜め上に「吐く、お腹、気持ちよく」と書いた。前を向く。
「まず、呼吸という言葉に注目してください。呼吸の『呼』は吐くという意味があります。『吸』は吸うですね。なので、呼吸という言葉は、吐くという意味から始まります。その言葉通り、ここのレッスンは吐くことに意識を向けてもらいます。それと、口と鼻で呼吸をしますが、ここでは鼻で呼吸をします。鼻で吐きます。吐くとき意識するのはお腹です。吐いたあと、お腹がぽこっとならないように、スムーズに動かしてください。それと重要なことがあります。気持ちよくやることです」
すると、再びペンを持って「ゆっくり、丁寧に」と書いた。
「気持ちよくやるためには、呼吸をゆっくり、丁寧にやることです。決して頑張らないでください。力を入れてやるのではなくてリラックスをして呼吸を吐いてください。私と、一緒にレッスンをやっていくと、上手く呼吸ができるようになります。わからないことがあると思いますが、実践することが大切です」
すると、遠藤先生は、横の方から机を動かしてきた。綺麗な水が入っているコップと、黒い水が入っているコップが置いてある。
「これから例え話をします。ここに、コップに入っている水が二つあります。右側のコップの水は、透き通っていて綺麗です。透明です。これが本来の心のあり方です。日常生活を送っていくと、この左側のコップに入っている黒い水のように、濁ってきます。汚くなります。人として生きていくと当たり前のことです。心が汚くなるのです。みんさん、お風呂に毎日入っていますよね。身体は汚くなったら洗う。心も同じです。毎日、生活を送っていくと汚くなります。洗う必要があるのです。呼吸は、そのための道具です。呼吸を、意識することによって、心を綺麗することができます。みなさん、心を掃除するために呼吸を学んでください」
先生は、机を横に移動させて、ホワイトボードの前に立った。ペンを持った。「清く、尊く、正しく」と書いた。
「心を綺麗にすると、清く、尊く、正しく、物事を考えることができるようになります。みなさん、レッスンを通じて人生をより良いものにしていってください」
僕は、真剣に話を聞いていた。
「実践することが大切だからね。これから、レッスンやっていくけど、僕が言葉で誘導するから、その通りに呼吸をやっていってください。それでは仰向けになってください」
受講生は、みんな仰向けになって寝る。
「じゃあ、電気を消して」
職員の人が部屋の電気を消した。周りは真っ暗になった。
「ではいきます。頭のてっぺんから両足の指先に向けてマットの上に乗っている自分の身体を意識して感じてください。そして、自分の命を支えている呼吸を意識して感じてください」
僕は、寝ながら意識を呼吸に向けた。
「オッケー。それでは、まず始めはお腹の呼吸です。息を吐きながらお腹を後ろに引き寄せます。吐いたら力を抜きます」
お腹で呼吸をする意識をした。鼻で息を吐いたあと、力を抜く。
「はい、次からは自分のペースです。自分のペースでお腹で息を吐いてください」
遠藤先生は、何も言わなくなった。ここから自分のペースで息を吐き続ける必要があるようだった。呼吸に意識を向ける。僕はお腹を動かしながら、鼻で息を吐く。自分のやり方があっているのかどうかわからない。鼻で息を吐いてお腹を動かした。時間にして、二十分くらいやっていた。
「はい、オッケー。休んでいる間は、自然に呼吸をしてください。そして、息を整えてください」
三十秒くらい自然な呼吸をした。
「それでは、次は丹田の呼吸です。丹田は、おへそから九センチ下の位置にあります。へそ下三寸です。丹田に意識を集中して下さい」
丹田に意識を集中、と言われてもよくわからなかった。僕は、言われたとおり、おへそから九センチ下の辺りに意識を下ろした。
「それでは、丹田の呼吸を始めてください。息を吐きながら、丹田を後ろに引き寄せます」
丹田を意識して息を吐く。丹田が後ろに動くということをイメージする。へその下から九センチの位置にある丹田を動かそうとした。
「それでは、次から自分のペースです。息を吐きながら丹田を意識してください」
言われたとおりに、自分のペースで丹田の呼吸を行った。およそ二十分くらいだった。
「はい。じゃあ、次は起き上がってください。正座か胡座を組んで座ってください」
僕は、マットの上に胡座をかいて座った。
「それでは、ここからが本番です。まずは、お腹の呼吸をします。寝ているときと同じ感覚でやります。鼻で息を吐きながら、お腹を後ろに引き寄せてください。吐いたら、力を抜く。はい、次から自分のペースです。お腹を後ろに動かしたあと自然に息を吸います。息を吸うときのお腹の動きはスムースです。お腹がぽこっとなったりしないでください。息を吐ききったあとは、なめらかな動きでお腹を動かしてください」
鼻で息を吐く。吐いたあとのお腹の動きをスムースになるようにした。上手くできているように思えなかった。すると、力が入ってきた。体全体が硬くなっているようだった。お腹に意識を集中してなめらかに動くように鼻で息を吐くことを心がけた。
「はいオッケー。休んでいるときは、自然な呼吸です」
しばらく、胡座をかいて座りながら、自然な呼吸に意識を向ける。
「次は丹田の呼吸です。丹田に、意識を集中してください。それでは、息を吐きながら丹田を後ろに引き寄せます。吐いたら力を抜きます。はい、次から自分のペースです。自分のペースで気持ちよく息を丹田で吐いてください」
意識を丹田に集中して息を鼻で吐き続ける。吐き終わったら力を抜く。これを繰り返した。同じことを繰り返していくと疲れてきた。休憩をいれながら意識を丹田に集中して、ゆっくり丁寧に鼻で息を吐いた。徐々に、気持ちの良い感覚がわかってきた。
「はい。オッケーです。じゃあこれでレッスンを終わります」
職員の人が電気をつけた。蛍光灯が眩しく感じる。体中が暖まっているようだった。頭が、すこしぼんやりとした。後ろは鏡張りになっていたので、鏡で自分の顔を見てみると、少し顔が赤くなって、目が充血していた。身体の変化を感じた。
受講生は、荷物を持って、下駄箱の前に向かう。人が少なくなってきた。僕は、遠藤先生に話しかけたいと思った。ホワイトボードの前で文字を消している遠藤先生のところに向かった。
「今日はありがとうございました。始めてレッスン受けたのですが、良かったです」
遠藤先生が振り向いた。
「それは、良かったぬ。始めは、慣れないと思うけど、続けると身体が変化していくから」
「ありがとうございます」
すると、先生は僕のことをじっと見た。
「君はいいね。将来、活躍するよ」
と言った。
「そうですかね」
僕は、思わず苦笑いをした。嬉しくなり、すぐに遠藤先生に向かって言葉をかけた。
「先生の本を読んで、人生変わったんです。感謝しています」
そう言うと先生はピクリと反応して、そうかと言って笑った。すると、すぐに遠藤先生は口を開いた。
「別に、先生って呼ばなくていいよ。僕は、そこらへんいるおじさんと変わりないのだから」
「いや、でも先生って呼ばせてもらいます」
「そう。好きにしていいよ」
遠藤先生は、苦笑いをした。僕は、ありがとうございますとお礼を言ったあと、靴を履いて教室を出た。
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