第2話

「はいおしまい」

 ぺしりと湿布の上から叩かれ、菜月は痛みで悲鳴を上げる。そんな彼女を尻目に、治療を行ってくれていた四十代ほどの女性は救急箱を抱えて素知らぬ顔で立ち上がった。

「我慢なさい。まったく、喧嘩している人たちがいるなんていうからまたやんちゃな男の子たちかしらと思ったら若いお嬢さんだなんて。痛いのは自業自得よ」

 叱りつけるように責められ、菜月はぐっと言葉を飲み込む。

 彼女は稲城いなぎ 楓子ふうこ。件の崖の近くで小料理屋「山粧やまよそおい」を経営しており、菜月たちの喧嘩を止めた人物でもある。曰はく、近所に住む常連が菜月たちを見つけたが、本気のキャットファイトをどう対処すればよいか分からず楓子に報告したそうだ。報告を受けた楓子はバケツに水をなみなみ入れて駆けつけ、髪の引っ張り合いひっかき合い叩き合いをして激しく転げ回っている菜月たちにそれをぶちまけた。

『やめなさいっ、女の子が揃ってみっともない!!』

 大音声だいおんじょうで怒鳴られ、菜月も喧嘩相手も水浸しで呆気に取られ固まってしまい、その隙にこの店まで連れてこられたのだ。秋に水浴びは寒くて仕方なかったが、服は楓子が若いころの物を貸してくれたので、今名残が残っているのはタオルの下の湿った髪と少し冷えが残った体くらいだろう。

 ぶるり、と菜月が震えると、ほぼ同時に店の端の方からくしゃみが聞こえてきた。タオルに隠れるようにちらりとそちらを伺えば、同じく楓子の若い頃の服を着て頭から被ったタオルで乱暴に髪を拭いている背中が目に入る。

 直接聞いたわけではないが、以前にも会ったことがあるらしい楓子が思い出したように呼んでいた名前は「照葉てりは 里穂りほ」。「あなたから買った絵まだ飾ってあるわよ」と笑っていたので、やはり見たままの職業だったようだ。先に治療を受けた彼女も最後には同じように楓子に叩かれていたが、あちらは痛みをぐっと堪えるような対応をしていた。

 物理的に頭を冷やされたのに加え、散々に暴れ回り怒鳴り散らした――「せい」と言えばいいか「おかげ」と言えばいいか、不本意ながら菜月の頭は彼にフラれてから一番冷静だ。悲しい気持ちは消えていないが、頭を埋めていた「死にたい」という気持ちはかなり薄れている。

 そうなってくると、ここに来るまでの自分の思考や行動、結果的にとはいえ自殺を止めてくれた人を遠慮なく叩いて――というには生温いほど本気で殴って――しまったことの全てが、「何をしているんだ自分は」という反省に帰結した。

 謝った方がいいかな、という思いが徐々に首をもたげ始める。だが、何か声をかけようかと思うたびに、ぶつけられた暴言やお返しに殴られたり髪が抜けるほど引っ張られた痛みが思い起こされた。原因は自分だし、最初に手を挙げたのも自分だし、彼女にやられたことはほとんど自分もやったことだ。分かっている。それでも、心と体の痛みを飲み込めるほど冷静になんてなれない。結局何も言う気にはなれず、菜月はうっすら空いた唇を閉じ再び視線を元に戻した。

「あらごめんなさい。喧嘩を止めるのには水懸けるのが一番なんだけど、やっぱり寒かったわよね。ちょっと待ってて、今ご飯出してあげるから」

「えっ、あの、そこまでしてもらうのは――!」

「いいから! あなた達二人揃って顔色悪いしくまはひどいし痩せすぎよ。ちゃんとご飯食べてないし寝てないでしょう? そんなだからイライラするのよ。まずはご飯食べなさい」

 ぴしゃりと言い切り、楓子はさっさと奥へと引っ込んでしまう。ご飯を食べてない、睡眠をとってない、と指摘されれば、その通りだ、としか言いようがない。彼と付き合うようになってからフラれるのが怖くてダイエット続きだったし、フラれてからは食事が喉を通らなかった。……そう自覚すると、何だかお腹が空いてきたような気がしてくる。こっそりお腹を撫でると、小さく音が鳴った気がした。

 あちらはどういう理由なのだろう。気になってまた視線がちらりと里穂の方へと向かう。頑として向けられ続ける背中は微動だにしない。それが悲しいような腹立たしいような気がして、やっぱり話しかける気は起こらなかった。

 それでも気になる、と沈黙の中何度か菜月の視線は里穂の背中に向けられる。それが繰り返されたある瞬間、再度菜月の視線が里穂に向かったのと同時に、里穂が突然首だけ振り向いた。ばちり、と不機嫌な視線とぶつかり咄嗟に逸らす。だが、今更だ。

「さっきから身じろぎうざいんだけど。何?」

 気が付かなかったが音がしていたらしい。ぐるりと里穂は体の向きを菜月の方へと変えた。

「言いたいことがあるなら言えば? 今更猫被るのきっしょいんだけど」

「……あんた口も性格も悪すぎなんだけど。彼氏も友達いないでしょ。まあ誰だってこんな奴と仲良くしたくないよね」

 攻撃的な言葉がやまない里穂に、落ち着いたはずの菜月は怒りが再度沸騰してくる。これまでの言動で確信していたことを固い声で口にした。傷付けることを目的にした酷い言葉だ。けれどこんなことを言っても、どうせ「だから?」とまたあの煽るような顔で笑われるのだろうなと分かっている。どうせ傷付かないならいいでしょと、暗い気持ちで怒りをそのままに口にしたのだ。なのに

「え――?」

 ――何でそんなに、傷付いた顔をするんだ。

 ぎくりと動揺する菜月だが、里穂はすぐに元の――元よりも険しい不機嫌顔になった。

「は? 何が彼氏? 何が友達? くっだらない。そんなのひとりで何も出来ない奴ら同士のすり寄り合いでしょ。ていうかさぁ、あんたさっき崖で「大好きだったよ~」とか言ってたけど、そのどっちかに捨てられただか裏切られただかとかって死のうとしてたんじゃないの? はは、そんなんで人にマウント取ってきたわけ? 人の迷惑考えないで自殺しようとしてた奴はやっぱり頭足んないんだ。あんたの彼氏だか友達だかも同じレベルなんでしょ? 馬鹿同士のぶつかり合いで出来たしょぼい擦過さっかに巻き込まれかけるなんて、本当にここの人たち可哀相にね」

 頭に人差し指を当て馬鹿にするように顔を歪めてくる里穂。その言葉の流暢りゅうちょうなこと。先程彼女が治療を受けていた際に楓子が「口の中も切っている」と言ったのは聞き間違いだったようだ。

 悪いことを言ったかも、なんて、謝った方がいいかな、なんて、とんでもない。菜月は椅子を蹴立てる勢いで立ち上がる。

「あそこで死のうとしたのはっ、確かに私が悪かったけど! 馬鹿だったけど! でも他の人まで悪く言うの違くない!? すり寄りとかじゃなくてさぁ、友達とか……彼氏っ、とか、大好きで、大切で、何か我慢しても、一緒にいるのが幸せで、だからっ、一緒にいるんじゃん。だから一緒にっ、いたんじゃん。隣で笑っていてくれるのが、お互いのためにって、思い合えるのが、嬉しいから……っ!」

 せっかく収まっていた涙がまた湧き上がってきた。言い返したい気持ちだけは溢れているのに、感情がたかぶりすぎて言葉が詰まってしまう。声を無くして口を空回りさせる菜月に、里穂はまた不機嫌な顔をした。

「はーーー、やっぱりくっだらな。一緒にいたいだの幸せだの、人に自分の幸せ預けてどうにかなんの? 依存するようになるだけで、傷の舐め合いして『自分たちは大丈夫』ってお互いを慰め合うだけじゃん。自分の人生のために、自分の将来のために、自分の夢のために、そのために人間生きてるんだよ。我慢して本気でいられない場所なんて意味ある? そんな関係なんて必要ある? 時間の無駄なんだよそんなの!」

 吐き捨てられるように、徐々に大きくなっていった声。最初こそ睨みつけていた菜月だが、言葉の向き先が、里穂が睨んでいる相手が、自分でないような気がして戸惑いを覚える。

「――それ――」

 誰のこと言ってるの。問おうにも声が出ないでいると、奥から楓子がお盆を抱えてやってきた。

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