秋色リボーン
若槻 風亜
第1話
どうして私じゃ駄目だったんだろう。何度考えても、去ってしまった彼の気持ちが
考えては泣いて、泣いては過ごしてきた日々を思い、縋る間もなくブロックされた画面を見てはまた泣いた。そんな風に過ごしてきたある日、菜月は不意に決意したのだ。
死のう。
当てつけのつもりはなかった。そんなことを考える余裕は菜月にない。ただ、突然頭の中でぷつりと何かが切れた気がしただけ。 思い至るが早いか、菜月は取るものもとりあえずひとりで付き合い始めた思い出の地へと向かった。
電車を降りた瞬間に冷たくなり始めた風が吹き抜ける。
改札を通りすぎ目的地へと向かう。商店が立ち並ぶ観光客向けのエリアと住宅地を抜ければ、次第に周囲には自然が増えはじめ、電車を出てからずっと鼻に届いていた潮風の匂いが強くなってきた。
不意に視界が開けてきらめく海が目に映る。ああ、あの時もこの道を通った。途中までバスに乗って、二人で笑って話しながら歩いていて、この景色を見て歓声を上げ合ったのだ。
当時を思い出すと、また涙がこみあげてくる。止まらないそれを拭いながら菜月はまた歩き出した。誰にも見つかりませんように。そんな祈りは聞き届けられたようで、人とも車ともすれ違うことなく、菜月は目的地に続く林にたどり着く。当時は明るい緑が光を弾いて美しかったが、今はもみじやイチョウがまばらに色づき始めていた。比較的気温の高い地域なので、紅葉が遅れているのだろう。――ありがたい話だ。
獣道のように見える林道を、早くも落ちた木の葉を踏みながら歩き進めた。ややあって視界が再び開ける。林から出ると同時に冷やされた秋風が海の匂いを連れて強く吹き抜けた。それに乗ってかつての彼と自分の声が聞こえてきたような気がして、涙がさらに溢れてくる。
そこは海に面した崖。隠れ家的なオーシャンビュースポットとして密かに人気で、ここで夕焼けを見ていた時に、彼が「好きだ」と言ってくれたのだ。夕日の中でも分かるくらいに顔を赤くして、いつも余裕そうなのがウソみたいに必死に。嬉しくて、嬉しすぎて、菜月は思い切り泣いてしまった。
あの時と、どうしてこんなにも涙の意味が違うのだろう。
溢れた涙をもう一度拭い、菜月はふらふらと崖のふちへと歩いていく。腰よりも高い柵はあるが、身体能力に自信のある菜月がよじ登れない高さではない。柵の前まで辿り着くと、菜月は財布と携帯を地面に置き、靴を脱いだ。遺書は携帯の中に保存してあるし、電源を入れればすぐに見られるように開きっぱなしにしてある。
「――大好きだったよ――」
これで十分。これで終わり。
菜月は一度深く呼吸してから、柵を掴んで足をかけた。体重を移動しよじ登ろうとした、その時。
「あのさぁ」
嫌悪をにじませた苛ついた声が、背後からかけられる。びくりと体を跳ねさせた菜月が反射的に振り向くと、そこには菜月と同世代辺りだろうそばかす顔の女性が立っていた。大きなメガネの下の双眸は遠慮なく菜月を睨みつけ、適当に縛った黒い髪が潮風に煽られバタバタと揺れている。彼女の前には大きなキャンバスが置かれ、手には鉛筆が握られている。付けている大きなエプロンは絵具や鉛筆の色で汚れていた。見るからに絵描きの様相だ。
見られた、と菜月の心臓はバクバクと鳴り出した。騒がれたらどうしよう。慰めや説教なんて聞きたくない。高速で今後のことや目の前の彼女の次の行動が頭を駆け巡るが、次の瞬間耳を打ったのは菜月の予想を外れた言葉だった。
「こんな所で死なれると迷惑なんだけど。ここ観光地だって分かってる? 今はシーズンオフだから人いないけどさ、この近辺の人たちの収入源だよここ? ああ、悲劇のヒロイン気取りで悦に浸ってるバカには分からない? うんうんだよねぇ、分からないよねぇ、一ミリも価値ない命かけて価値のあるもの汚そうとしてるあっっったま悪いバカだもんねぇ? 死ぬんだったら誰にも迷惑かからない場所行けよクズ」
暴言に次ぐ暴言。嫌悪、
「何その顔? 止めてもらえると思ったの? いい子いい子って慰められたかった? は。典型的死んでやる系かまってちゃんじゃん。だっさ。赤の他人に縋らないでお気持ち表明してオトモダチに慰めてもらったら?」
容赦のない言葉を脳が認識出来た途端、菜月の頬には熱が走る。死ぬつもりだったのは本気だ。けれど確かに、菜月は理由もなく彼女が止めてくると思った。慰めてくると思った。それが当たり前であるかのように。自覚してしまったそれが恥ずかしくて、何より遠慮なくぶつけられた悪意に腹が立って、ただでさえ
柵から離れると、菜月は大股でずんずんと女性に近付いた。
「何」
怖がることのない、応じる目が菜月を迎える。それに真正面から向き合い、菜月は久しぶりに泣き声以外の声を上げた。
「あんたみたいなのにっ、何が分かるっていうの!!」
かすれた叫び声と共に平手が女性の頬を打つ。
花野 菜月 二十三歳。生まれて初めて殴り合いをした瞬間だった。
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