第83話 貞盛の妻

「まぁいいや。この話は後ほど深く訊くとしましょう。とにかく私は、父の仇だとかそんなくだらない話にのるつもりはありません。私はそのくだらない争いを止める為に帰って来たのですから」

「ちょ、ちょっと待てよ兄者! 何馬鹿な事を言って――」

「馬鹿な事ではない。私はいたって真面目だよ繁盛。悪いが私が帰って来たからには、これ以上伯父達と供に無駄な戦をする真似はさせない。私はこの戦において平和的解決を望んでいるのだ。その為の話も小次郎と既につけて来たしな」

「どうして。どうしてそんな事を……兄者は親父の仇をうちたいとは思わないのか。兄者は憎くないのか、父上を殺した将門が!」

「憎んだ所で仕方なかろう。小次郎を憎んだとて死んだ父上が帰ってくるわけでもなし。違うか?」

「それなら将門が犯した罪だって無くなるわけじゃない。兄者は将門のやった事を黙って許せって言うのか?!」

「そうだ」

「そうだって……どうして! どうしてだよ兄者!! 親父を殺されて悔しくないのか?」

「悔しくないわけではない。だが小次郎は身内ぞ。何故身内どうして争わねばならぬ? 身内同士でいがみ合うなど、それこそ虚しいだけではないか。悲しみの連鎖はどこかで断ち切らねばならぬのだ」

「だからって……どうして俺達が我慢しなきゃならないんだよ!」

「はて。ずっと我慢して来たのは、小次郎の方ではないか? 先に小次郎に手を出したのは父上であろう。まさか繁盛、お主が知らぬわけもあるまい?」

「それは……」

「私に言わせればこうなったのは全て父上の自業自得。仕方のない事だったのではないか」

「兄者、そんな言い方はあんまりだ!」

「ええい、うるさい! 黙れ繁盛!!」

「っ……」

「とにかくだ、これ以上の無用な争いはこの私が許さない。憎しみなどと言う下らない感情は今すぐ捨てろ。お前は私の言う事を訊いていれば良いのだ。分かったか繁盛」

「そんな……俺には出来ない。父上を殺した将門を許す事など、俺には出来ない!」

「これは命令だ! 父上亡き後、一門の棟梁は長男であるこの私。私が下した決断に、口答えなど許さない!」


 貞盛の威圧感に、怯む繁盛。

 繁盛はそれ以上何も言い返す事は出来なかった。

 繁盛の手にはきつく拳が握りしめられる。

 その拳は、抑えきれない怒りによって、プルプルと震えていた。




「へぇ、散々愚痴を溢しまくっていたわりに、案外頑張ってんじゃねぇか」


 今のやり取りの一部始終を、忍び込んだ床下からこっそり盗み聴いていた玄明。

 屋敷までの道中、ずっと愚痴だらけだった貞盛が始めて見せた威厳に、少しばかり感心したように呟いた。


「だが、あんだけ愚痴ってた人間が、いつまでその仮面を被っていられるか、見物だな」


  ◆◆◆


 ――夜・貞盛の部屋

 久しぶりに帰って来た貞盛を歓迎すべく、屋敷では宴が催されていた。

  だが当の本人貞盛はと言えば、宴の席を早々に抜け出し、その後自室へと籠っていた。

 小次郎との約束を果すべく、伯父達へ手紙をしたためる為に――


「太郎様、失礼致します」


 そんな彼の元に、料理の乗った膳を持って、彼の妻である杏子がやって来た。


「お食事をお持ちいたしました。宴の席ではあまり召し上がっておられぬようでしたので」

「あぁ、すまないな。ありがとう、杏子姫」

「せっかく義母上様が準備して下さった宴でしたのに、参加もせず太郎様はいったい何をなされているのですか?」

「伯父達に文を書いているのですよ。私に戦う意思がない事を伝える為の」

「その文を書くのは、今日でなくてはならないのですか?せっかく帰って来たのに太郎様は部屋に籠りきりで、義母上様はとても淋しがっていましたよ」

「申し訳ないが、私はここに長居をするつもりはありませんので」

「何故ですか?」

「あるお方と約束したので。すぐに、小次郎の屋敷に戻ると。だから心配しないで待っていてくれと」

「まぁ。妻である私の前で、他の想い人の話ですか? 意地悪なお方」


 杏子は拗ねたような、それでいて甘えたような声を出して、貞盛にそっとすり寄った。


「意地悪……ねぇ。意地が悪いのはどちらかな、女狐さん?」


 可愛らしい嫉妬を示して甘えてくる杏子に、貞盛はと言えばあまり相手にする気はなさそうで、紙の上に走らせる手を動かし続けていた。


「まぁ、酷い言われようですね」

「だってそうでしょう? 私が他の想い人の話をしようが、貴方は何も感じない。私に愛情など持ってはいないのですから」

「これでも一生懸命、貴方を好きになる努力はしているのですよ」

「ほぉ、それは初耳だ」


 杏子の漏らした言葉に、貞盛はやっと走らせていた筆を止め、杏子の方へと体を向けた。


「……」

「貴方が心底恨んでいる私を好きになる? それは面白い」

「っ!」


 貞盛の目が怪しく細められたかと思うと、次の瞬間、ドサッと大きな音を立てて貞盛は、杏子の体を冷たく硬い木の床へと押し倒していた。

 自身に組み敷かれた体制の杏子姫を、貞盛は面白そうに見下ろす。

 だが彼女は抵抗するでもなく、大人しく受け入れている様子で


「おや、本当に前みたに抵抗しないのですね」

「えぇ。私ももう、あの頃のように子供ではありませんから。貴方への復讐を果たす為でしたら、どんな屈辱も耐えられますわ」


 ニッコリと、口の端だけをつり上げて笑う杏子。その顔は、まさしく――


「女狐」

「何とでもおっしゃって下さい。やっと……やっと貴方への復讐が始まったのです。どれだけこの時を待ち望んでいたか。もう逃げる事は出来ませんよ、太郎様」

「さて、貴方が言う復讐で、本当に苦しむのは私でしょうか? 今一番苦しがっているのは私ではない。貴方が本当に愛していた男、小次郎だ」

「…………」

「貴方が復讐を果たそうとすればする程、苦しむのは小次郎。そして、この醜い平家の争いを、裏で操っていたのが貴方だと知ったら、奴はさぞ貴方を憎む事でしょう。つまりは私に復讐しようとすればする程、貴方自身も苦しむことになるのですよ」

「…………」

「ふふふ、可愛そうなひと。大人しく私のものになれば良いのに」

「………」


 貞盛は、優しい手付きで杏子の頭を撫でてやると、そっと唇に接吻くちづけた。

 杏子は、貞盛の与える感触に一瞬表情を歪めると、貞盛から逃れるべく顔を背ける。

 だがその反応は、逆に貞盛を満足させただけで、貞盛は目を細めて冷たく微笑んだ。

 そして逃げる杏子の顔を強引に押さえ込んで、乱暴に唇に吸い付くと、その行為をゆっくりと下へ下へと移して行き――次第に激しさを増して行く行為に、杏子の脳裏には思い出したくない過去の記憶が鮮明に蘇って行った。

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