第69話 千紗と朱雀帝②
◆◆◆
――『良いですか寛明。絶対に、絶対にここから外へ出てはいけませんよ。これは貴女を守る為の結界。もし結界より外へ出てしまったら、貴女も貴方の兄のように、道真に呪い殺されてしまう。そんな事、母は堪えられない。お願い寛明、決して外へは出ないで……母を一人にしないで……』
『分かっております。寛明は決して、ここから出る事はいたしません。母上を一人になど絶対にしない』
醍醐帝の子として生まれた朱雀帝。
もう一人の醍醐天皇の子であり、当時東宮だった朱雀帝の兄、
そして保明親王の子、
立て続けに次期天皇とされる皇太子と皇太孫が亡くなった事で、当時内裏では、二人の死は道真の呪いではないかと、まことしやかに噂されていた。
子と孫を相次いで亡くした隠子は当時、精神的に酷く不安定で、残された朱雀帝こそは何としても道真の呪いから守ろうと躍起になっていた。
そんな彼女がしたのは、生まれたばかりの朱雀帝を幾重にも張られた几帳の中に封じ、彼を几帳より外に出す事を禁じたのだ。
結果朱雀帝は、五歳までの間、几帳の外に出る事が許されないまま狭い狭い几帳の中だけで過ごし続けた。その間、彼が話す事を許されていたのは、彼の両親と、ごく限られた使用人だけ。
あまりにも刺激のない日常に、幼い頃の朱雀帝はまるで人形のように表情と感情が乏しい子供だった。
そんな空っぽだった彼の心に、ある日変化を持たせるきっかけとなる出来事が起こった。
閉ざされた世界であった朱雀帝の部屋の庭に、見知らぬ少女が偶然にも迷い込んで来たのだ。
『……お主、このような所で何をしておるのだ? この中に綴じ込められておるのか?』
『………え?』
『そんな狭い中では息が詰まるだろう。どうだ、少し外へ出て参らぬか? そして妾と一緒に遊ぼうぞ』
『……貴女は?』
『妾は千紗。左大臣家一の姫である藤原千紗だ』
『左大臣家? ……と言う事は、忠平の子?』
『何だお主、父上を知っておるのか? 実はその父上に、ここ内裏まで連れて来て貰ったのだが……父上はお仕事で忙しいのか相手をしてくれぬ。供の者達も何故か内裏には入ってこれんでな。一人でする事もなく退屈だったから、内裏の中を探索でもしようとふらふらしていたら、こうしてここに辿り着いたのだ。どうだ? ここでお主と出会ったのも何かの縁。お互い暇をしているのならばお主、妾と一緒に少し遊ばぬか?』
この少女こそ、幼い日の千紗。
千紗からなされたこの誘いをきっかけに、朱雀帝の心にある小さな変化が沸き起こった。
朱雀帝にとっては初めて目にする自分と同じ子供。
彼女は何故、大人達のように外の世界に出られるのだろうか?
彼女が外へ出る事を許されているのならば、自分だってここより外の世界に出ても良いのではないか?と。
だが、朱雀帝の脳裏には、涙ながらに結界から出てはならぬと訴える母の顔がちらついた。
『で、でも……母上の言い付けを破るわけには……母上は、決して外へは出るなと申していたのだ』
『ふむ、母の言いつけを破るのが怖いか。だが大丈夫、怖がる必要など何もない。だって今ここには、妾達以外誰もおらぬのだ。お主が外へ出た事など妾かお主が喋らなければ誰にも分かるはずがない。バレなければ怒られる事もないのだ。ここでの事は、妾とお主だけの秘密にしようぞ』
『でも……』
『でも? 何だ? 他に何を怖がる事がある? お主はそんな狭い世界に綴じ籠もって息苦しくはないのか? 外へ出たいと思わぬのか? 外の世界は良いぞぉ。ここから見える空だけ見ても、とても広く、美しい。そこからでは空も見えぬだろう。お主は空の色を知っておるか?』
『……知らない』
『空はな、青いのだ。真っ青な空にはふわふわの雲が浮かんでいる。その雲はな、様々な姿に形を変え空を漂っているのだ。お主も見てみたいとは思わぬか?』
『…………思う』
『そうであろう。ならば迷う事などない。そこから一歩足を踏み出せば良いのだ』
『…………』
『何を恐れておる? 大丈夫。大丈夫だから、一歩そこから出て参れ。ほら』
ニコニコと眩しい笑顔と共に差し出された小さな手。
まるで暗闇に注がれた一筋の光のように、朱雀帝の心を掴んで放さなかったその手に導かれ、朱雀帝はこの日初めて几帳の外へと足を踏み出した。
そうして初めて見た空は、とても青く、広く、そして美しかった。
◆◆◆
これは道真への恐怖と共に、朱雀帝の心に残る幼き日の思い出。千紗と初めて出会った日の、懐かしい思い出。そして暗く狭い世界から朱雀帝を解き放つきっかけとなった、大切な大切な思い出。
千紗は朱雀帝にとって、暗闇に差し込んだ一筋の光。その光に救われ、そして憧れ、ずっと恋い焦がれて来たと言うのに……まさかその人が、自身を暗闇へと綴じ込めた原因である道真の血縁者だったとは。
朱雀帝はすっかり光を見失い、彼の心は今再び、あの幼き頃のように暗く狭い闇の世界へと捕らえられてしまっているのだ。
それでもなお、彼は千紗の放つ光を求めて、塀の外から聞こえる賑やかな声の中に、彼女の存在を探しじっと耳を澄ませていた。
「楽しそうですね、あちらは」
貞盛が静かに呟く。
「向こうが気になるのなら、私に付き合う事はないぞ、貞盛。お前は祭事に参加してくると良い」
「いいえ。今の私は、賑やかな祭りの音色よりも、淋し気に一人何かを我慢なされている寛明様の方が気になりますゆえ、私はこうして貴女様の傍におります」
「貞盛……お前は、私の傍にいてくれるのか?」
「はい」
闇に支配された朱雀帝の心に、そっと寄り添おうとしてくれる貞盛。
彼の優しさに、朱雀帝もどこか嬉しそうに、小さく微笑み返した。
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醍醐天皇の皇子で、その皇太子となった人物。伯父である左大臣・藤原時平の後ろ盾により、わずか2歳で立太子し、東宮となったが、親王は即位することなく、父・醍醐天皇に先立ち21歳の若さで
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保明親王の第一皇子。保明親王薨御後、皇太子に立てられるが、父の後を追うように五歳の幼さで薨御。代わりに保明親王の同母弟、寛明親王(朱雀天皇)が皇太子となった。
保明親王・慶頼王ともに藤原時平と繋がりが深かったことから、両者の相次ぐ薨去は時平が追い落とした菅原道真の祟りによるものとの風評が立った。
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