第68話 千紗と朱雀帝

 ――936年5月。坂東に来て半年が過ぎた。

 あの日――景行から道真と忠平の過去を聞かされたあの日以来、朱雀帝は千紗とは別の部屋を借り、閉じ籠り気味の生活を過ごしていた。

 そして貞盛以外の人間とは距離を置くようになっていた。

 それでも千紗は、朱雀帝を外へ連れ出そうと、毎朝必ず朱雀帝の部屋へと訪れる。

 今日も例外ではなく――


「チビ助、祭じゃ! 今日は一年の豊作を願って#御田植祭おたうえまつりとやらをやるらしいぞ。笛や太鼓の音に合わせて皆で一斉に田植えをするそうじゃ。どうじゃ、面白そうだろう? お主も一緒に参加せぬか?」


 庭からの突然の訪問。縁台に勢いよく膝と手をついたかと思うと、楽しそうに朱雀帝を誘う。彼女の隣にはヒナと秋成の姿もあった。


「っ………」


 だが朱雀帝はと言えば、千紗の姿を見るなり慌てて貞盛の背に隠れてしまう。

 あの日以来、朱雀帝はいつもこのような調子で、千紗を拒絶し続けているのだ。

 それでも千紗は朱雀帝の態度など少しも気にした様子も見せず、以前と変わらぬ笑顔で朱雀帝に向かって手を差し出した。


「毎日こんな所に閉じ籠っていては楽しくなかろう。ほら、一緒に――」

「申し訳ありませんが、私は……遠慮いたします」

「そうか?……それは残念じゃな。だが、気が変わったらいつでも来い。皆、待っておるからな」

「……」


 断られてもなお笑顔を浮かべ続ける千紗は、無理強いすることはせず朱雀帝にそれだけ言い残すと、ヒナと秋成を連れ、来た時同様の慌ただしい様子で彼の部屋を去って行った。


「っ………」


 それまで決して千紗の姿を見ようとしなかった朱雀帝だったが、離れて行く足音に慌てて貞盛の背中から顔を覗かせ、彼女の後ろ姿を見送る。恋しそうな眼差しで、いつまでも、いつまでも――



 朱雀帝の部屋を後にした千紗達は、次に屋敷の外へ向かった。

 屋敷の外には、普段屋敷で顔を合わせる者達以外にも、近くの村々から集まって来たらしい見知らぬ農民達の姿もあって、多くの人々で溢れかえっていた。

 そんな人垣の中から、桔梗が千紗の姿を見つけて声を上げる。


「あ、千紗様、お帰りなさい。寛明様はいかがでしたか?」

「おう桔梗、戻ったぞ。チビ助はやはり参加せぬようじゃ」

「そうですか……。それは残念にございますね」

「まぁな、だが仕方がない。嫌がる者を無理に誘う事は出来ぬ。気が向いたら来るようにと伝えておいた。きっと、祭が始まれば、賑やかな音につられてヒョッコリ姿を見せるだろう。その為にも、うんと祭を盛り上げねばな」

「そうですね! うんと盛り上げて、寛明様をお部屋から誘い出しましょう!!」

「うむ。所で桔梗、お主珍しく化粧などして、何やら洒落た格好をしておるな」

「はい。今日は一年に一度、うんとおめかしが出来る日なのでございますよ。田の神様へ失礼のないように、早乙女の任を受けた者は皆このように着飾るのです。さぁさぁ、千紗様も、ヒナ様も私と同じ早乙女役をなさるのですから、お早くお着替え下さいませ。祭りが始まってしまいますよ」



 その頃――

 わいわいと賑やかな声を、庭にそびえ立つ塀越しに聞いていた朱雀帝は、何をするでもなくどこか寂しげな表情を浮かべながら、じっと音に耳を傾けていた。

 その姿を傍で見守りながら貞盛が静かに声を掛ける。


「本当に宜しかったのですか?」

「…………」

「千紗姫様の誘いを断って、本当に宜しかったのですか?本当は、千紗姫様と一緒に祭事に参加したかったのでは?」

「……」

「千紗姫様の母君が、道真公と血縁者であった事。それが寛明様の中で、今もひっかかっておられるのですか?」


 貞盛の口から出た“道真”の名に、思わず肩を震わせる朱雀帝。

 道真の恐怖に取り憑かれた朱雀帝の脳裏に、過去のある光景が蘇る。

 狭く薄暗い空間に、ひとりぼっちで過ごした幼い日の記憶が――



__________

御田植祭おたうえまつり

全国各地の神社やお寺で、田植えの前に豊作を祈願する伝統的な田植えの儀式で、4月~6月の田植えの時期に行われる。『御田植祭』の具体的な内容は、基本的には参拝の他に“田んぼを耕して水田を造る”、“田植えをする”といった一連の作業を、笛や太鼓の演奏のなか、本物に似せて行われる。これは大変な作業だった田植えを少しでも楽しくするために、歌いながら作業したことが始まりとされている。


早乙女さおとめ

田植の日に苗を田に植える若い女性のことを早乙女と呼ぶ。ハレの役であり、神に奉仕する神役でもある。

早乙女のハレ着は紺の単衣に赤い襷、白い手ぬぐい、新しい菅笠を着用する。

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