第5話 変化の兆し
「父上~、話とは何ですか?」
「千紗、来たか」
チラリと忠平は秋成に視線を向けながら、千紗に座るよう促す。
「話と言うのはな、お前に縁談の話が来ているのだ」
「……っ!」
「父上っっっ、そんな勝手な」
息を呑む秋成。反抗を示す千紗。そんな二人に、忠平はただただ冷たい視線を向けるだけ。
「今まで、お前の我が儘は散々許して来た。もう十分だろ」
「ですが父上、千紗は恋くらい自由にしたく思います」
「私だってそれを望んでおったわ。だが千紗、お前は恋は愚か、
裳着とは、男子で言う元服。今の時代で言う成人式のようなもので、つまりは大人になるための儀式の事を言う。
但し、この時代の成人の儀式には、『大人として認められる』と同時に、『結婚の意志がある』と言う表明でもあった。千紗が裳衣を嫌がる理由はきっとそこにあるのだろう。
「お前程の年齢の貴族の娘が、あまり人に姿を晒すものではないと知らぬわけではあるまい? 早い者では12の歳で裳衣を済ませて、結婚している者もいると言うに……お前は相も変わらず
この時代、貴族の娘は部屋で過ごす事が殆んどで、外出はおろか部屋の外に出る事もあまりしない。千紗のように外で遊び回っている姫など、とても珍しい事だった。
忠平が千紗に裳着を済ませろと言うのには、貴族の娘らしく大人しくしていろと言う意味も籠もっているのかもしれない。
「周りの目など関係ありません。千紗は千紗です。千紗は今のままが好きなのです」
それでもまだ反抗を示す千紗。
千紗にとって、裳着を嫌がる一番の理由は、秋成や小次郎と一緒にいられなくなる事が大きいのだろう。
裳着を済ませた娘は、人に姿を見せないよう部屋に御簾を降ろされる。人と合う時は御簾越しであったり、扇子で顔を隠したりと、夫となる人以外の男性に顔を晒す事は許されない。
よって、裳着を済ませてしまっては、例え姫の護衛と言えど秋成や小次郎達と今のように遊ぶ事も、直に顔を合わせる事も難しくなる。
「千紗……いつまでも子供のままでいることなど出来ぬのだぞ? いつまで逃げ続けるつもりだ? 結婚しろとまでは言わない。だが、裳着の話だけは納得してもらわねば」
「………」
「よいな、千紗」
無言を続ける千紗に忠平は強い口調で諭す。
「…………」
「千紗、返事は!」
それでも返事をしない娘に更に強い口調で強要する。その声に千紗の肩がビクンっと跳ね上がった。
「…………はい」
渋々と言った様子で小さく返事をして立ち上がると、トボトボと重たい足どりで部屋を後にした。
「千紗っ!」
そんな千紗の姿を忠平の部屋、寝殿の前庭から見つめていた秋成。武士と言う身分の低い彼は、屋敷へ上がる事は許されていない。だから、護衛とは名ばかりで、いつも庭から見守る事しか出来ない。
今も裳着を嫌がる千紗に、何も手を貸してやれない自分への苛立ちから、彼の手にはキツく拳が握りしめられていた。
千紗の後を追いかけようと、秋成は忠平に軽く会釈をし、その場から離れようとする。
だが、そんな秋成に思いがけず忠平から声がかかった。
「秋成」
「は、はいっ!」
「お主は……まだ千紗を主と認めてはくれないのだな……」
娘に見せた厳しい表情とは異なり、今はどこか寂しそうに問いかける忠平。
「……それは……」
突然の問い掛けに、驚きと共に返答に困った秋成。
「申し訳……ございません……」
「よいよい。謝る必要はない。責めているわけではないのだ。今のあの子では仕方のない事」
「そんな事はっ」
慌てて否定するも、忠平は苦笑いを浮かべるだけ。秋成の胸はチクリと痛んだ。
――『いつか千紗を主として認められる日が来たら、あの子を姫と呼んでやってくれ』
昔、忠平と交わした約束。
決して千紗を主と認めていないわけではない。
ただ千紗を姫と呼んでしまったら、今まで築いて来た千紗との関係が壊れてしまいそうで、秋成呼べずにいるだけ。
変化を恐れるあまり、忠平との約束をうやむやにしてしまっているいる事実が後ろめたくて、秋成は逃げるように忠平の部屋を後にした。
◇◇◇
「秋成、どこに行っておったのじゃ。探したではないか」
忠平の部屋から千紗の部屋に戻ると、不機嫌な声で迎えた千紗。
「あ……あぁ。悪い」
「どうしたのだ?寂しそうな顔をして」
どこか覇気のない秋成の顔を心配そうに覗き込んで来る千紗。
先程の忠平とのやりとりが微かな蟠りを秋成の胸に残していた。
「いや、何でもない」
「そうか? ならば良い。そんな事より」
「おいおい、人の悩みをそんな事って……」
一瞬見せた千紗の気遣いに、心和ませるも、その気持ちはあっさりと彼女の心無い一言で打ち砕かれてしまう。
「今日は市が立つ日だったな。秋成、妾を市へ連れて行け!」
「今からか?!」
「今からじゃ!今日の妾は虫のいどころが悪い!口答えは許さん!!早くしろっ!」
秋成に悩む暇すら与えず、また我が儘を言い出す千紗。そうだった。千紗とはこう言う人間だった。
「確かに我が儘に付き合うとは言ったが……相変わらず」
ふうと、諦めにも似た溜息を洩らしなら、秋成は彼女の我が儘な性格を再度認識する。
「どうした? 何をブツブツ申しておる。さっさと支度をせぬか!」
「……ぷっ」
「なっ、お主今、吹き出したな? 何がおかしい! 妾をバカにしておるのか?」
「いや、何でも。ただ、お前は昔から変わらないなと」
「悪かったな。どうせ妾はいつまで経っても子供のままじゃ」
ぷぅっと頬を膨らませて怒る千紗の姿に、秋成は更に目尻に浮かんだ笑い皺を深くして笑った。
「別にバカにしたわけじゃない。ただ……こんな時間がずっと続けば良いなって、そう思っただけだ」
こんな風に、千紗の我が儘に振り回されて、彼女の怒った顔、笑った顔を彼女の近くで見守っていられる。この時間が、ずっと――
目の前にいる千紗に向けてすっと手を伸ばすと、秋成は千紗の頬を優しく撫でた。
千紗を"姫"と呼ばないのは、決して千紗を主と認められないからではない。ただそれは、秋成の胸に隠したほんの些細な我が儘から。
この先もずっと彼女とこんな関係を続けて行きたいと願う秋成の、ほんの些細な我が儘から――
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平安時代から安土桃山時代にかけて女子の成人を示すものとして行われた通過儀礼。成人した女子にはじめて
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宮殿や社寺で用いる場合のすだれの呼称。細いアシ、または細く割ったタケを糸で編んだもので、軒などにつるし、室外と室内をへだて、目隠しや日光をさえぎるために用いられた。
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平安時代の
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