第4話 甘い罠

静養室で意識を取り戻して驚愕きょうがくしたのは、昭夫だけではなかった。

 ベッドの上で目覚めた総務部長・大迫は、何気なく自分の胸に手を置いた。

<や! この膨らみは何だ?>

 今度は、髪の毛に触れてみた。

<髪が長い!>

 大迫の「頭蓋とうがい」(頭上部のふた)に植毛されていたのは、比較的短い毛髪のはずだ。しかし、今はロングヘアのようだ。

<意識を失っている間に、胸が膨らんだり、髪が伸びたりするものなのか?>


 大迫は上半身を起こそうとした。

「おい、誰か来てくれ!」

 しかし、近くを通った労務グループのスタッフは、「今行きますので、ちょっとお待ちください」とだけ言って、去っていった。他のスタッフも、忙しそうに立ち働いている。

<ちくしょう、俺は部長だぞ。どいつもこいつも、何をやっているんだ……>

 大迫は、自分がないがしろにされたようで不快だった。


 しばらく待たされたあと、労務の北見里奈がやってきた。

「目が覚めましたね。ご気分はいかがですか?」

 これが男性スタッフだったら、大迫は怒鳴りつけていただろう。しかし、相手が若い女性だと、途端に態度が変わる。

「悪くはないよ。ちょっとボンヤリしてるけどね」


 北見は静養室の総括者に、よく通る声で報告した。

「総務マネージャーの細田さん、意識が回復しました!」

 それを聞いて、大迫は語気を荒げた。

「おい、北見君! 何をとぼけたことを言っているんだ! 俺は大迫だよ。こんな非常時に、人間違ひとまちがいはいかんな」

 北見は、まるで動じないようだ。

「ELSSを使用したあと脳戻しをすると、しばらく意識が混乱することがあるそうです。静かに休めば、すぐに元に戻りますよ」

「君じゃらちが明かん。産業医を呼んでくれ。今すぐに!」

 

 呼ばれて来た産業医は、大迫の身体状況データを確認し、北見と同じことを言った。大迫と産業医が押し問答をしていると、そこに昭夫[大迫]*が来た。


*以下、たとえば「昭夫[大迫]」と表記した場合、「脳は昭夫、頭部を含む体は大迫」であることを示す。


 昭夫[大迫]は、困り果てている産業医に言った。

「私から説明しますから、お任せください」

「おお、大迫部長ですか。私はここで時間を費やしているわけにいかないので、助かります。では……」

 渡りに船とばかりに、産業医は去っていった。


 昭夫[大迫]は、大迫[細田]の耳元で囁いた。

「あなたは、大迫部長ですね?」

 大迫[細田]は、目の前に自分とそっくりな人物が現れたので、一瞬お地蔵さんのように固まった。

「お、お前は、いったい誰だ!? これは、どういうことなのか、説明しろ!」

「あちらでご説明します。打ち合わせコーナーに参りましょう」

 二人は、打ち合わせコーナーの一番奥にあるブースに移動した。周りに人の気配はない。


「私は、外見がいけんは大迫部長ですが、実は総務マネージャーの細田です」

 読者はお分かりかと思うが、昭夫[大迫]のこの説明は虚偽である。

「何だと!」

「ELSSを外して各人の脳を取り付ける際に、混乱のあまり、部長と私の脳がとり違えられたのです。このことは、ごく一部の者しか知りません。間違えた看護師には口止めしてあります」

「怪しからん! 実に怪しからん!」

「産業医にこのことを報告し、早急に脳を正しく付け替えてもらおうと思います。しかし、その前に部長のご了解を得なければと考え、ご報告に上がった次第です」

「もちろん、すぐに付け替るべきだ……、いや、ちょっと待て」

「はい」


 大迫[細田]は、しばらく思案していた。

<細田の体か……。こりゃぁ、悩ましいぞ。弁天様いや谷不二子様を拝める、千載一遇のチャンスだ。みすみす逃す手はないなぁ>

 大迫[細田]は、自分の嫌らしい思案を相手に気取けどられまいと、わざと重々しい表情を作った。しかし、昭夫[大迫]には、大迫の考えが手に取るように分った。

<ヒヒジジイめ。まんまと罠に掛かりそうだぜ>


「細田君、君の家族は何人だったかな?」

「夫と、高校生の息子が二人です。ただ、夫は勤めている会社の札幌事業所に単身赴任しています。ちょうど今日、一時帰宅の予定でしたが、今回の大規模電波障害に対応するため、帰宅は延期するとの連絡がありました」

「そうか……。ではこうしよう。一週間だけ、このままの状態でいよう」

<お! 食いついたな>

 とは顔に出さず、昭夫は困惑の表情を浮かべた。

「え? それはなぜですか。そうなると、私、ちょっと恥ずかしいんですけど」

「心配ない。いつも言っているように、君は極めて優秀だから、早く部長職に就いてもらいたいんだ。一週間、部長の体験をしてみたらどうかね。そうしたら、横浜支店の総務部長に推挙しようじゃないか」

「ありがとうございます。身に余るお言葉です。でも、やはり……」

「何を心配しているのかな? 私がそんなに下品な男だとでも思うのかね。約束する。君の……その……恥ずかしい姿は、目をつぶって絶対に見ない」

<誰が貴様の言うことなど信じるか。しかし、この辺が潮時だ。気が変わられたら、元も子もないからな>

「分かりました。部長を信じます。では、産業医の許可も出ていますから、ご帰宅ください。自動運転の社有車を用意してあります。地下駐車場から乗車してください。」

「さすがに、細田君は手回しがいいな。ところで、明日から着てくる衣服は、どこにあるのかな?」

「主寝室にウォーク・イン・クローゼットがあります。そこから適当に選んでください。肌着もそこにあります。それから、このハンドバッグに、家のカードキーが入っています」

「おお、そうか」

 妙に浮き浮きとした表情で、大迫[細田]は退社していった。


 大迫[細田]と入れ替わるように、細田[昭夫]が現れた。

「上手くいったわね。隣のブースで聞いていたけど、木村さんの演技力は大したものね」

「いや、えさが飛び切りいいからだよ。再確認だけど、旦那さんは家にいるんだね?」

「ええ、きのう帰宅したから、電波障害の影響は免れたのよ。まとめて休暇を取るので、しばらく家にいる。事情は、さっき連絡した」

「怒っているんじゃないか?」

「いえ。面白いから全面的に協力してくれるって。以前から、大迫のセクハラについて言ってあって、旦那もすごくいきどおっているのよ。それに、もともとアチラが強い人なんだけど、単身赴任してたから、餓狼がろう状態なの。ゆうべも大変だったんだから。いえ、私、何言ってんのかしら」

「夫婦仲が良くて、結構ケダラケだね。それで、お宅ではどういう作戦?」

「旦那に任せてるけど、基本的なシナリオはね――」


 細田宅に向かう社有車の中。自動運転なので、乗車しているのは大迫[細田]一人だ。

 発車を待ちかねたように、大迫の手が自分の胸に伸びた。

<この弾力。たまらんな>

 その手は、さらに下に伸びていった。

 しかし、手が目的地に到着するより先に、車内アナウンスが細田宅への到着を告げた。

《続く》

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