第3話 脳とり違え事案

 昭夫が搬送された4階大会議室の入り口には、手書きで「臨時ELSS処置室」と書かれた紙が貼られていた。そこには非常用生命維持装置(ELSS)30台が運び込まれていて、さながら前線近くの野戦やせん病院のような状態だった。


 搬送されてくる意識喪失者のからだをELSSに接続する。状態を監視し、異状が見られたら素早く対処する。そのうちにブレイン・レスキューが、意識喪失者の脳を次々に持ち込んで来る。これらの脳を、装着されているELSSを外した本人の体に接続する。その後もしばらくは、容体ようだいを監視する。ある程度安定した者は、隣の静養室に移す。


 これらの処置は、当然のことながら一刻を争う。健康管理室にいる産業医1名、看護師2名だけでは到底対処できない。そのため、医療に関する資格はもちろん、専門知識をほとんど持たない、労務グループ所属の一般社員が呼び集められ、医師や看護師の補助を行っていた。


 非常災害訓練は、年1回行われていた。しかしそれは、大地震を想定した図上訓練が中心で、ELSSを使った実地訓練は行われていなかった。このことも、混乱に拍車をかけた。


 そのような状況下で、「とり違え事案」が発生した。

 総務部から運ばれた意識喪失者3名に脳を取り付ける際、次のとおり脳をとり違えてしまったのだ。


 総務部長・大迫大五郎の体に、昭夫の脳。

 総務マネージャー・細田雪子の体に、大迫の脳。

 労務マネージャー・木村昭夫の体に、細田の脳。


 つまり3人の脳が、一人ずつズレて戻された状態である。

 「体」には、顔や頭のふたも含まれているから、顔かたちはまったく変わらずに、脳だけが別人のものに置き換わったのである。

 なお、他人の脳が「移植」されれば、拒否反応が起きるはずである。しかし、すでに優れた免疫コントロール技術が確立されており、拒絶反応は抑制できる。


 隣の第1会議室が、臨時の静養室になっており、脳の装着が終わった者はそこに移された。


  *


 どこか遠い所から、昭夫に呼びかける小さな声が聞こえてきて、段々と大きくなっていった。


 昭夫は、ゆっくりと目を開いた。昭夫をのぞき込む顔が見えた。

<労務グループの、北見里奈きたみりなだな>

「総務部長、意識が回復しました!」

 北見が、誰かに報告している。

<変だな。俺を見て、なぜ総務部長と呼んだ? 俺の頭が混乱しているのか?>

「部長! 意識が戻って、良かったですね。しばらく、このままお休みください」

「北見君か。ありがとう……。さっき、私を見て……『総務部長』とか言っていなかった? そして、今も」

 まだ脳が体に十分馴染んでいないためか、発話が少しぎこちない。

「ここは、静養室に当てられている第1会議室です。ここを統括している主任に報告したんです」

「いや、私は木村だが……」

「きっと、脳戻しが終わって間もないので、混乱されているのだと思います。ゆっくり休んでいてください。私は、他の方のところに行きます」

 北見は、走るようにして他の収容者の方に行ってしまった。


 しばらく簡易ベッドに横になってボンヤリしていると、産業医がやってきた。昭夫の体のあちこちに取り付けられたモニターの値をタブレットで確認しながら、昭夫に話し掛けた。

「部長、ご気分はどうですか?」

「普通ですね」

「それはよかった」

「先生、私は部長ではなくて、労務の木村ですが……」

「心配ありませんよ。いちどELSSを使用したのち脳戻しを行うと、自分が自分でないように感じることは、よく見られる現象です。時間が経てば、元に戻ります。体調が戻り次第、静養室から退出して結構です。では、お大事に」

 医師は、有無を言わせずに切り上げて去っていった。


 静養室に持ち込まれたモニターから流れる、テレビの災害情報の音声が、昭夫の耳に飛び込んできた。

「本日朝発生した、超巨大フレアによる大規模電波障害は、ほぼ終息しました。ライフラインは、順次復旧しつつあります。首都圏の停電は――」


 続いて、社内放送が室内に響き渡った。

「非常災害対策本部から連絡。本日、ELSS処置を受け脳戻しが完了した社員は、産業医より許可が出次第、帰宅して結構です。そのさい、自分の体調と交通の復旧状況をよく確認してください。続きまして、各部に存置されている遺体の取り扱いについて、ご連絡します――」


 昭夫は、何気なく手で自分の腹をさすった。

<なんだ、これは?!>

 腹は、見事な太鼓腹たいこばらのようだ。

<いつ、こんなにふくらんだのだ?>

 昭夫は、日頃からジムに通って筋トレをしている。シックスパック(腹筋の盛り上がり)とはいかないまでも、引き締まった腹がひそかな自慢だった。

<これはELSS使用の副作用か?>


 その時、誰かが近づいてきた。

 臥床がしょうしている自分をのぞき込む顔を見た昭夫は、すんでのところで

<うぉぉぉぉぉぉ――>

と叫ぶところだった。

 自分をのぞき込んだのは、まぎれもなく、自分自身だったからだ。

「しっ! 静かにしてください」

 ささやくように話した「自分」は、目だけキョロキョロさせて、周りの様子ようすうかがっている。

「あなたは、木村さんですよね。分かっています。こちらへ来てください」

 「自分」に促されて、昭夫はベッドに腰かけ、しばらくして立ち上がった。フラついたが、「自分」が手を引いてくれた。

「お話ししたいことがあります。あそこの打ち合わせコーナーに行きましょう」

 二人は、静養室を出た。


 同じ階に、パーテーションで囲われた打ち合わせコーナーがいくつかある。今、使っている人はいない。「自分」は、昭夫を一番奥のコーナーに導いた。

 向かい合わせに座って相手を見ると、まさしく自分だ。物心ついてから数十年間、毎日きるほど見ているから、間違えるはずはない。


「びっくりしたでしょ? 私は本当は細田だけど、体は木村さん。あなたは木村さんだけど、体は大迫部長」

「え? ややこしいな」

「さっき、看護師の一人が、私に報告してきたんです。秘密裏に」

「……」

「あまりの忙しさに確認を怠り、大迫部長、木村さん、私、3人の脳を、とり違えて戻してしまったそうよ」

<なるほど。それで、太鼓腹の謎が解けた>

「この鏡で映してみて」

 細田は、ハンドバッグから小さな手鏡を取り出して、昭夫に渡した。

 昭夫は自分の顔を映して見た。そこには、あの苦手な上司・大迫部長のふてぶてしそうな顔があった。

「何だよ、これは……」

 昭夫は、心がヘナヘナと折れていくような感覚に襲われた。

「木村さん、しっかりして!」

「いったいどうしたらいいのか、途方とほうにくれるよ」

「私も、さっきまでそうだった。でも、いいことを思い付いたのよ」

「いいこと、とは?」

「木村さん、あなた、大迫部長にパワハラを受けてたんじゃない?」

「え? いや、そんなことはない」

 パワハラまがいの行為があったことは確かだが、昭夫はとっさに否定した。

うそつかなくていいのよ。総務部の誰もが知っていることよ」

「そうなの?……大迫部長か……、お! 部長の体は今、細田さんの体か!」

「そうよ」

 昭夫は、思わず細田雪子の容姿を思い浮かべた。細田はスタイル抜群の美人だ。

<ちくしょう。大迫め、細田の体を思う存分見られるわけだ……>

「木村さん! 今いやらしいことを考えていたでしょ。男って、どうしてこう好色なのかしら」

「い、いや。何のこと?」

とぼけても駄目よ……。それで話を続けると、じつは私も、大迫からセクハラまがいのパワハラを受けていたの」

「そうなのか? まあ、細田さんは、漫画に出てくる『谷不二子』にそっくりだからな」

「何言ってんのよ。でも、下手へたに谷不二子に手を出すと、痛い目を見るのよね。それで、大迫から被害を受けている私たち二人がタッグを組んで、大迫をやっつけようという相談なのよ。看護師には、脳とり違え事案について口外しないよう、言い含めてある」

「げに恐ろしや、女の執念、か」

「はい、セクハラ一丁いっちょう! あなた、労務マネージャー失格ね」

「すみません。しかし、大迫が、脳のとり違えを申し立てたらどうする?」

「当面はその心配はないと思うわ。理由は……、さっき木村さんが考えたとおりよ」

「谷不二子を、じっくり味わおうというのか」

「大迫は利口だから、お触りといった直接的セクハラはしなかった。けど、私の体をネットリとした嫌らしい目で、舐めるように見つめてた。そして、昇進話をほのめかせて、交際を誘ってきたわ。それも、しつこく何度も」

「あの野郎。俺には、どうでもいい細かいことを取り上げて、ネチネチ難癖なんくせを付けていたくせに。実にしからんやつだ」

「そうでしょ? だから、二人でやっつけましょうよ」

「俺もその気になってきた。でも、どうやって?」

「ふふふ。それはね――」

《続く》

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